24/1/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
大中明英師・栃木県法得寺住職。
[ ]はhp制作者のメモです。
●御讃題。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。
我いま見聞し受持することを得たり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
[この上なく深く素晴らしい仏教の教えは、
百千万劫という長い時間を経ても巡り逢うことは難しい。
しかし私は今その教えを見聞し、受け持つ機会を得た。
釈尊の真実の教えを知りたい]
●1828年、良寛71才は、新潟に住んでいた。
その時、新潟で1500人以上の死者が出る地震があった。
良寛さんは地震で子供を亡くした友人に手紙を書いた。
「[地震は大変に候。野僧草庵は何事もなく、親類中死人もなくめでたく存じ候。
うちつけに、死なば死なずに永らえて、かかる憂きめを見るがわびしさ。
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候」
[●災難にあうときは災難にあい、死ぬときには死ぬしかない。
人はそれらを変えられない。それらを受け入れて生きるしかない。
良寛さんは子供を亡くした友人に
「人は生老病死からは逃れられない。
あるがままを受け入れ、その時できることを一生懸命やるしかない」
と励ました。]
●人はありのままを受けいれられずじたばたする。
念仏の教えは、苦を苦としてそのまま受けいれ引き受けて、
ありのままに生きていく力を与えてくれる。
思い通りにならないことを思い通りにしようとするので人は苦しむ。
[●人生は苦なり。
仏は人の苦を救うのではない。苦悩の人を救うという。
私の内に苦がある。]
娑婆は苦しみを耐えていく世界。
[●信罪福心。
信罪福心とは、善因楽果、悪因苦果の自業自得の道理のみを信じて、
仏智である阿弥陀仏の衆生済度の因果を領解しないことをいう。
この自らの行為のみを信じて仏果を求めようとする心を信罪福心という。]
●ある年、ベーブ・ルースの所属するヤンキースはリーグ優勝をした。
ルースは、ニューヨークで明日からのワールドシリーズに備えていた。
そこへ、知らない人からの手紙が届いた。
難病で苦しむ11才の少年の父からだった。
「息子のジョニーは背中の病気で寝たきりになっている。
医者から、もう手の尽くしようがないと言われている。
病で苦しむ中、唯一の楽しみは、ラジオであなたの活躍をきくことです。
あなたの新聞記事は、すべて切り取ってスクラップしています。
息子にサインボールを送って欲しい」
わが子を元気づけたい一心の手紙だった。
ルースは少年の入院するニュージャージー州の病院まで見舞いに行った。
ジョニーは、病室のドアが開いた瞬間驚き、喜んだ。
ルースが自分に会いに来てくれた。
サインの書かれたバット・グローブ・ボールを届けてくれた。
「これで友達と野球ができるようになってね。
1日も早く、自分の足で立てるようになることを願っているよ」と励まし、
「何か、してほしいことはないかい」と尋ねた。
ジョニーは「ワールドシリーズで、僕のためにホームランを打ってください」と言った。
ルースは答えた。「分かった。君のためにホームランを打つ。
君も元気を出して、病気に負けるな。約束だよ」
翌日、ルースは、ジョニーとの約束を守りホームランを打った。
ラジオをきいてジョニーは喜んだ。
「ルースは僕との約束を守ってくれた。今度は僕が病気に勝つんだ」
ジョニーの心に希望がわいてきた。
心が変わるとジョニーは医師が驚くほどの快復を見せ始めた。
次第に立って歩けるようになる。学校へ通えるようになる。
そして完全に病を克服した。
●曹洞宗の開祖道元禅師は、24才から数年間中国に留学した。
手ぶらで帰国後、眼横鼻直を学んできたというた。
眼は横に鼻は縦についている、あたりまえをあたりまえに過ごすことだ。
私たちは、あたりまえをあたりまえに過ごしているか?
食事するとき「いただきます」といっているか。
食べる肉・魚・野菜の生命をいただいている。
動植物の生命を食へることで私の生命が保たれている。
だから「生命をいただきます」と感謝していただく。
掃除は綺麗であればしないか。
掃除は自分を磨くこと、自分の心を磨くこと。
●妙好人といわれる因幡の源左。
源左は、いつも「ようこそ、ようこそ」といって感謝していた。
ある日、畑で突然の雷雨にあいひどく濡れてしまった。
それを見た寺の住職「源左さん、濡れたね」といった。
源左は「ありがとうございます。
住職さま、鼻が下を向いているので有り難いです」と答えた。
私は、鼻が下を向いていることをあたりまえと思う。
鼻の穴が上を向いていたら、雨がふると雨水が鼻に入ってしまう。
鼻の穴が、上向きでは「ないことのおかげ」なのです。
ないことのおかげに気づく事は困難です。
しかし、これに気づくことができれば、
この世の中は有り難いことに満ちていることが分かる。
[●鶏・豚・牛・魚も目が2つ・口が1つ、人と同じだ。
野菜は違うか?]
●ある方が末期ガンで、はやくて1か月、長くても3か月のいのちと
ある方の家族は医師にいわれた。
家族は本人に話せず知人に御願いした。
知人は句仏上人に相談、句仏上人は句を詠んだ。 
「さりながら 人の世はみな 春の雪」
どう考えても人の一生は春に降る雪のようだ。 
降ってもすぐに消えてしまう。
句仏上人は句を短冊に書いてキリの箱に入れた。
知人はそれを持ってある人のところに行き病症を伝えた。
ある人は仏教をもっと勉強したいと学んだ。
私の人生は幸せだった。なんと有難い人生だったことか。
お念仏に出遭えてよかった。私の人生は素晴らしかった。
と毎日のように感謝を言って過ごした。1年後に亡くなった。
●妙好人の浅原才一は言っている。 
「もろうた もろうた よい智恵もろうた 愚痴が感謝にかわる」
阿弥陀さまの本願をいただいたもの、親鸞聖人の教えをいただいたものは
愚痴が感謝にかわる。
●生きているといろんなことが起きる。
それをいただいて生きる。
私への救いの手はのびている。
[阿弥陀如来の本願は かならず救うまかせよと 南無阿弥陀仏のみ名となり
たえず私によびかけます.]
[●上宮寺だよりより。
いいことはおかげさま、悪いこともおかげさま。
いいとか悪いとか判断するのは自分の都合、自分のものさし。
そういう人知に立って生活するのではなく、
自分にとって都合の悪いことがかえって大きないのちの世界に気づかせるご縁
になっていくのでおかげさまなのであります。
親鸞聖人は「善悪の二字 総じてもって存知せざるなり」という仏智に立って
人生を歩まれました。]
●御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。
そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまう。
その位を一念発起入正定聚と釈し、そのうえの称名念仏は、
如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、
あなかしこ。
●上宮寺山門前掲示板の言葉。
生かさるる いのち尊し けさの春
ー中村久子氏ー
大いなるものとともに 生かされている いのちと感ずるとき
本当に尊い世界に 手が合さるのです 合掌。