23/12/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
藤井智師・常陸太田市・青蓮寺住職。
[ ]はhp制作者のメモです。
●上宮寺住職のあいさつ。
釈尊の言葉に兵戈無用ひょうがむようがある。軍隊も武器も必要ない。
仏法・念仏をいただいたものは、心穏やかに相手を思いやることが大切。
しかし私の両の手は時にはこぶしをつくってしまう。
争いはなくならないが気づかさせていただくことはできる。
ああそうだった・そうだったと私の心を私の姿を仏法に照らし合わせる。
[兵戈無用は釈尊が悪を戒め信を勧められるところで語られる。無量寿経。
これには殺すなかれという釈尊の思いがある。
人が人を傷つけ殺しあうのは人間の愚かな行為だ。
釈尊は、この世で怨みに報いるに怨みをもてば、ついに怨みはやむことがない。
怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である。法句経。
何とか戦いの無い世界になってほしい。
゛戦争を体験された日本の人は言う。
戦争で勝った方も負けた方も何もよいことがない。
戦争をやってはいけませんなと。
●藤井智師の法話。
●三帰依文。
人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
此の身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。自ら仏に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発おこさん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、
智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、
一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。
我いま見聞し受持することを得たり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
●無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ。正像末和讃。
[阿弥陀仏の本願は、無明煩悩の暗く長い闇を照らす灯火。
智慧の眼が暗く閉ざされていても悲しむことはない。
そのはたらきは迷いの大海を渡す乗りもの。
罪のさわりが重いといって嘆くことはない]
●光があれば無明長夜は無くなると思っていた。
無明長夜は常に暗いところだから灯りが見える。
1回灯りが灯れば大丈夫という世界になるかと思った。
しかし、無明長夜は実は自分自身だった。
灯炬は闇夜だから灯りの大切さを感じられると思った。
智眼くらしとは、
自分の見方ばかりで善し悪しを比べて生きているそういう自分。
しかし悲しむことはない。
海の中に放り込まれたら溺れるか。必ず船と筏があって登る所がある。
罪障が無くなることではない。
罪深い私を押しやったりする心が無くなるわけではない。 
人を羨んだりする心はなくなるわけではない。 
しかし、嘆かなくても大丈夫。船や灯火がある。
灯火は太陽のところでは見えないかもしれない。
自分の持っている暗さ、だからこその灯がもっている明るさが大切。
●人知と仏智。
[人知は人間の知恵。仏智は仏の智慧。
●人間の知恵は、知れば知るほど驕り高ぶり他とくらべて頭が上る。
仏の智慧を知ることは、
自分のはからいや分別が役立たないことに気づき、
へりくだりの心に恵まれ頭が下がる。
この、へりくだりの心が身につくのが知るということ。
南無阿弥陀仏を称えることがへりくだりの心を育ててくれる。
●親鸞聖人は、智を悪を転じて徳を成す正智、
慧を無明の闇を破する恵日という。
●わかったことは人の知識のこと。
仏の教えは人知ではなく仏智のはたらき。人の理屈で通らない。
頭がさがって仏にまかせるとか、仏のお慈悲にめざめたことが知ること]
●三帰依文をいただいた。
人身受け難し、いますでに受く。
仏法聞き難し、いますでに聞く。
此の身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。
自分が自分として今ここにあることがどんなに大切なことか。
仏法に出会うことで初めて知る。
大切な世界、自分は自分として生まれた、どれだけ大切か。
ここに私自身出会えるか。
そういうことを何回も聞かせていただく。
そのような場が私には大切であった。
●仏法に師匠と弟子はないと親鸞聖人はいった。
法友といって皆友達。法友と新潟の居多ケ浜に行った。
海沿いに大きな碑があった。念仏発祥の地と書いてあった。
親鸞聖人は京都で法然上人の弟子になり教えに感激する。
念仏をしてはいけない念仏停止令がでる。
法然上人は四国に島流し、親鸞聖人は新潟に島流しになり辛い目に出会った。
親鸞聖人は35才だった。
京都から新潟へ、途中から船で居多ケ浜に着き新潟に入った。
新潟では僧ではなく一般の人、藤井善信として生活した。
そこで念仏を称え自分は人として喜べる生活を送っているのかを問いかけた。
僧でなく普通の人として暮らす中で念仏は大切だった。
居多ケ浜を管理されている寺の住職が言われた。
親鸞聖人は、非僧非俗を宣言する。僧侶でもなく、俗人でもない。
俗は族、貴族のような族人、名のある人だったのでは。
当時は石河原つぶてと言われる人がいた。
石河原つぶてとは人間以下のような感じ。転がっている石のような存在。
動物の皮をはいで生活する人・魚をとって生活する人、
そのような人を石河原つぶて、俗人とも思われないそういう人たち、
底辺に生きていた人、親鸞聖人は石河原つぶてのような我等といった。
念仏はその底辺に生きている人を輝かせてくれる。
石河原つぶての人を輝かせてくれる教えが南無阿弥陀仏の念仏。
底辺から輝く。輝かない人はいない。
念仏は釈尊の教えが、阿弥陀如来の本願が凝縮したものと親鸞聖人は気づいた。
●親鸞聖人の気づきは法然上人の世界観からきている。
当時法然上人は摂政関白九条兼実から泥棒まで多くの人に頼りにされた。
大阪に耳四郎という大泥棒がいた。
耳四郎は放火・殺人・強盗を重ねた。
耳四郎が来たと言えば泣く子も黙るといわれた。
耳四郎は法然上人が話をする処に盗みに入り床下に忍び込んでいた。
大勢の人が法然上人の話を聞いていた。
法然上人は、阿弥陀如来の本願で悪人でも必ず助かる。
罪深い者こそ阿弥陀如来は先に助けることを願っていると話した。
耳四郎は法然上人の話を聞いて、思わず床下から飛び出した。
法然上人に今まで自分の悪事を告白した。
どんな者でも助かるというが、俺でも助かるのかとたずねた。
法然上人は、耳四郎殿、この法然が助かるのです。
私のようなものでも助かるのだから耳四郎殿が助からぬはずがないと答えた。
耳四郎は、今までの悪事を反省すれば救われると言われるかと思っていた。
法然上人の言葉に驚いた。
その後耳四郎は法然上人の話を聞き続け、法然上人の弟子になった。
●居多ケ浜から良寛記念館にいった。良寛は禅宗の僧。良寛は晩年に
裏を見せ 表を見せて 散るもみじ。
散る桜 残る桜も 散る桜。
と歌を詠んでいる。
.良寛に 辞世あるかと 人とはば 南無阿弥陀仏と 言うとこたえよ。
とも詠んでいる。記念館に説明書があった。
宮崎駿作品映画に天と千尋の神隠しがある。 
ハクという少年が千尋に、名前を奪われると帰り道がわからなくなる。
私はどうしても思い出せない。というセリフがある。
この言葉から宮崎監督は存在として名前がいかに大切かを伝えている。
帰り道がわからなくなるから自分の名を受け止め、
誰かのようになりたいのではなく、
誰でもない私として生きる自分に帰れというメッセージが感じられる。
これは仏教の阿弥陀如来の衆生の救済と似ている。
如来の名、命の名前、南無阿弥陀仏と念仏を称えさせて、
命の故郷、浄土に帰らせしめるというはたらき、如来の本願。
命の帰る場所が確かになること、
私たちにここで生きるという意欲がおこる。
良寛も南無阿弥陀仏を我が名として称え、そして書き続けた。
良寛の辞世の歌に
良寛に辞世あるかと人とはば南無阿弥陀仏と いうとこたえよ。がある。
良寛も最後は南無阿弥陀仏に帰られた人でした。
物語の最後、ハクは千尋から本当の名前を教えてもらい本当の自分を取り戻す。
ハクのその感動は目の輝きら現れます。
ハクの存在とは現代人の事でハクのように本来の自分に帰って輝きを以て
生きて欲しいという宮崎監督の願いまたは監督自身の希望なのかもしれない。
自分の名がはっきりするという事は帰る場所がはっきりすることで
今の自分に輝きを感じること。
と書いてあった。
良寛さんは南無阿弥陀仏は自分の名前だったと思った。
その時、帰る場所がはっきりする。
浄土という世界が私の帰る場所だという世界観を持って、
良寛さんは手を合わせていたと思った。
そこまで私は思ってなかった。
自分の名前と思ったことはなかった。
●教誨師の研修会でアンという映画を見て映画監督の話を聞いた。
映画は店長の投げやりな歩き片から始まる。あんはあんこのあん。
若い頃ハンセン病を発症し、施設に隔離された高齢の女性トクエさん。
外で働きたくなりアルバイト募集のあった街のどら焼き屋さんで働こうとする。
トクエさんの指は曲がっている。
1回目・時給300円ていいからというが店長に断られる。
2回目・時給200円ていいからというが店長に断られる。
帰るとき自作のあんこを店長にあげる。
トクエさが帰った後店長はあんこを食べてみた。
味・香りに驚く・美味しい。
3回目・久しぶりにトクエさんが店長を訪ねる。
もしよろしければ手伝ってくれませんかと店長。
トクエさんは翌日よりあんこを作ることになる。どら焼きはあんが命。
日の出前からトクエさんの調理法で2人が力を合わせてあんこを作る。
どら焼きは無事完成した。2人でどら焼きを食べる・美味しい。
2人で作ったどら焼きは近所で評判になっていった。
ある日開店すると驚くことに、行列ができていた。
トクエさんのあんが評判になり、近所の人が詰めかけたのだ。
2人の顔に笑顔が浮かんだ。
しかしトクエさんはハンセン病患者でないかという噂がおきる。
ハンセン病は一生隔離される病・・。
どら焼き屋は、お客さんが来なくなってしまった。トクエさんは店を去る。
トクエさんから店長に手紙が届いた。「迷惑かけてごめんなさい」
店長はトクエさんに会いにいく。
そこは静かで木が生い茂っていた。鳥の声がする。
歩いて行くとそこには楽しそうに談笑する人の姿があった。
トクエさんは施設に兄に連れられてきて家族と離れることになったこと・
子供を授かったが産めなかったことを話した。
「店長さん。楽しかったです」涙を流す店長さん。
店長さんはトクエさんに、手紙の返事を書いた。
しかしトクエさんは亡くなっていた。
トクエさんは店長に伝言とあん作りの道具を残した。
●トクエさんはハンセン病で閉じ込められる世界にいた。
トクエさんはあんこを作る。
あんこを作ることで小豆の声をきけるようになった。
何処で生まれ、作っている人が見えてくる。種を蒔いて収穫。
土地も見えてくる。太陽の光も風も。
その小豆が自分の所に来て、あんになり多くの人に食べてもらう。
広い広い世界観を私は感じる。狭い世界にいるが広い世界に出会っている。
人からでなく小豆一粒から見えない世界が見えてくる。
●映画監督は言われた。
閉ざされた塀の中でも開かれた心で生で生きたのがトクエであり、
開かれた世界の中にいながら自分の周りに壁を作り、
閉ざされた心で生きていたのは店長である。
この閉ざしていくものとは私の思いかもしれない。
その私の思いを作りあげているものは、
今の時代社会の溢れんばかりの情報なのかもしれない。
何かの役にたたなくては生きる意味がないと私は思っているが、
そうではなくて、私たちの生きる意味は、
今私たちに賜っている世界の姿や声を注意深く見て聞いていくことか。
[●ハンセン病はらい菌が主に皮膚と神経を犯す慢性の感染症。
現在では治療法が確立され完治するという。
ハンセン病の人は何世紀にもわたり差別と偏見を受けてきた。
明治時代・癩予防法が制定され、隔離政策がとられる。
第二次大戦後・らい予防法が制定される。
1981年・WHOがハンセン病の治療法を勧告する。
1996年・らい予防法は廃止される。
ハンセン病の人は遠島や隔離施設へ移され暮らした。
現在はハンセン病は完治する病気で回復者や治療中の人から感染しないとしう。
しかし、ハンセン病に対し多くの人の偏見がある]
●常陸太田市集中曝涼のときに内陣まであがってもらっている。
阿弥陀如来の顔を近くで見てもらい説明する。
耳がアゴくらいまで大きい。口は小さく、優しい半眼。
阿弥陀如来は皆さんの先達・おじいさん・おばあさん・
おとうさん・おかあさんが親さまと言って手を合わせてきた。
親さまの顏を見ると、こどもの悲しみ苦しみをどこまでも聞く大きな耳。
聞いたら私を信じろなどと親の言うことを聞かせることはない。
ああしろこうしろとは決して言わずふっと黙る。
大きな耳と小さな口の阿弥陀如来を親さまと言って、
皆様の先達は手を合わせていた。
私の説明に聞いてる人は下を向く人が多い。
そして、反対のことをしていたという。
それが阿弥陀如来の光に当たっている姿なのかと思う。
阿弥陀如来の話を聞いて当たり前と思う人は少ない。
子どもを育てる時など怒ってばかりいる。
反対だったと感じた人には阿弥陀如来の心が伝わっている。
無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ。
灯りの当たった状態は何でも分かったという状態ではない。
反対だったと言えることは凄いこと。
逆のことをしていた。親の都合だけを子どもに聞かせていた。
直ぐに治るかと思えば治らない。反対のことを又やってしまう。
反対のことをする人・逆走していることに気づいた人は
阿弥陀如来の光が届いている。
法座の場もそのような逆走に気づかされる場。
違う道を歩いていたと気づいた時は阿弥陀如来の光が届いたとき。
●御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。
そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまう。
その位を一念発起入正定聚と釈し、そのうえの称名念仏は、
如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、
あなかしこ。
●上宮寺山門前掲示板の言葉。
おかげさまと 生かされて 有り難とう ございましたと 生きていこう 
この心が 大切な心です そこに幸せが あります 合掌
●上宮寺だよりから。
星野富弘さんは大学卒業後、中学校の先生になる。
クラブ活動の指導中首を損傷、首から下が動かなくなる。
病院入院中、口に筆をくわえて文や絵を描き始めた。
富弘さんが小学生の頃仲間と家から近い渡良瀬川に泳ぎに行った。
大きい人達は向こう岸の岩まで泳いで行けた。
富弘さんは犬かきが出来るようになったばかりだった。
岸のそばの浅い所で練習、時々川の中央に向かい泳いでは引き返していた。
誤って中央に行き流れに流されてしまった。
元いた岸の所に戻ろうとしたが駄目だった。
助けを呼ぼうとして何回も水を飲んだ。
頭の中にひらめいたものがあった。
それはいつも見ていた渡良瀬川の流れる姿だった。
深い所は青く水をたたえているがそれは一部だった。
あとは白い波を立てて流れる人の膝くらいの浅い所の多い川の姿だった。
溺れかけ流されているが、流されていけば、必ず浅い所に行くはず。
元いた場所に戻らなくでもいい。
富弘さんは身体の向きを180度変え下流に向かって泳いだ。
波も静まりいつも見ている渡良瀬川に戻った。
しばらく流されると立てる場所になり事なきを得た。
富弘さんは動けないまま将来のことを思い悩んでいた。
その時ふと、渡良瀬川で流され、元いた場所に戻ろうとする姿を思った。
何もあそこに戻らなくていいんだ。
流されている私に、今できることをすればいいんだ。