23/10/29 ひたちなか市 正安寺 報恩講法要 真宗大谷派。
10時法話・11時法要・12時お斎-B露店での食事で行われた。
●法話 佐々木弘明師・埼玉県本庄市西廣寺住職。
●三帰依文。
人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
此の身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、
無上意を発こさん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、
智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、
一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持する
ことを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
●講題 私のかえる場所。
●自分のありのままの姿で・精神的に落ち着ける場所が私の帰る場所。
人が安心して身をおける場所。
●寺の本堂には宗教的空間があり、先人が念仏を称えたものが残っている。
阿弥陀如来の本尊があり南無阿弥陀仏の世界が広がっている。
何時でも救うという阿弥陀如来の本願を感じる空間がある。
寺は誰かに出会い話を聞いたり言葉に出会って帰る場所。
三帰依文に帰るの字がある。
帰敬式にも帰るの字がある。
正信偈にも帰るがでてくる。
帰命無量寿如来 南無不可思議光。
帰命と南無は依り処として敬い信じて受け入れ随うこと。
無量寿如来に帰命する。不可思議光に南無する。
無量寿如来・不可思議光は阿阿弥陀如来のこと。
無量寿は量がなく・数量と関係ない寿命。阿弥陀如来の慈悲。
●帰れ・そこにおまえのいのちがあるのだ。
おまえはどこに帰るか知らないが、帰るところがあるとすれば
無量寿である阿弥陀如来のところだけがおまえの帰るところだ
といった人がいる。
●善導大師は、
帰去来(いざいなん)、他郷には停まるべからず。 仏に従いて、本家に帰せよ
といっている。
本家とは阿弥陀如来の浄土のこと。
帰去来は家や故郷に向かう時に使う言葉。
●米国ジョージ・カーリンさんメール。
妻を亡くした時に友人に送った。
●この時代に生きる私たちの矛盾。
建物は高くなったが、人の気は短くなった。
高速道路は広くなったが、視野は狭くなった。
多くの金を使っが、得るものは少ない。
多くの物を買うが、楽しみは少なくなっている。
家は大きくなったが、家庭は小さくなった。
便利になったが、時間は少なくなった。
多くの学位を持っても、知恵は少ない。
薬は増えたが、元気者は減った。
飲み過ぎ・吸い過ぎ・浪費し過ぎ、笑顔は少ない。
(省略)
忘れないでほしい。
愛する人と多くの時を過ごすことを。
あなたの愛する人に、心を込めて愛してると伝えることを。
人生にどれだけ心震える瞬間があったかを。
●世の中便利になったがこころはそうではないようだ。
自分の都合を優先させることが多くなってきたか。
自分の都合を多くすると人間のこころの豊かさを失っていく。
このような世界を善導大師は他郷といっている。
親鸞聖人は今の世界を火宅無常の世界といっている。
歎異抄 後序。 
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごと
たはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」

とこそ仰せは候ひしか。
現代語
私たちは煩悩をそなえた凡夫です。
この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り変わる世界だ。
すべてはむなしく偽りで、真実といえるものは何一つない。
その中にあって、ただ念仏だけが真実なのです」と仰せになった。
●本家とはいのちの帰るべき故郷。
怯えて不安や悩みをかかえて生きている私たち。
南無阿弥陀仏の念仏を称え
私たちが帰るところは
私たちのいのちの故郷である阿弥陀如来の家。
そこは本当に安らぐことが出来る場所。
魂の故郷・いのちの故郷。
それを求めて南無阿弥陀仏の念仏を称えることを
阿弥陀如来は呼びかけてくれている。
私たちは南無阿弥陀仏の念仏を称え阿弥陀如来の願いにこたえていく。
●ある時ブラジルから日系2世の婦人が東本願寺にきた。
親鸞聖人の御真影の前に座った。ただいま帰りましたといった。
日本からブラジルに帰るときは、
親鸞聖人の御真影の前で、いってまいりますといって帰った。
●曽我先生は、真宗門徒が寺にお参りするのは親元に帰ること。
寺から家に行くことは帰るのではなく出かけていくことと言っている。
●真宗の生活実践は、寺にお参りしそこで得たことを家に出かけ実践する。
そしてまた寺に参り何か得たものを家に出かけ実践する。
それを何度も繰り返し続ける。
安心できるお寺で安心してしまうのはだめ。
外に出ないと安心してしまい自分の考えを正当化するようになる。
皆が自分の思いどうりにしようとするとギクシャクする。
出かけることを繰り返すことで多くの人に出会い
自分の考え自分の都合を見直す必要がある。

●善知識とは念仏の教えを勧め導く人・仏道に入らせる縁を結ばせる人。
親鸞聖人にとっては法然上人が善知識になる。
親鸞聖人が88才の時、手紙に法然上人の教えを書いている。
親鸞聖人が法然上人と一緒にいたのは29才から6年間だった。
法然上人は、浄土宗のひとは愚者になりて往生すと候いしことを、
たしかにうけたまわり候いしと書いている。
愚者になりて往生すとは、
親鸞聖人が法然上人から直接聞いた言葉。
法然上人から聞いた言葉が親鸞聖人の心の中に残り続けていた。
愚者とは教養の有無の愚かさではなく、欲望・自分の都合で他者を傷つける人。
愚者になるとは、自分自身の愚かさをよく知ること。
自分自身の姿をみて愚者の自覚を持つこと。
愚かさに気づく教えが真宗か。
親鸞聖人には法然上人が安心してかえる場所だったのかもしれない。