23/9/17 水戸・歴史に学ぶ会講演会 
河内駅家と駅田の謎を解く。
樫村弘明先生。
[ ]はhp制作者のメモです。
[●駅制。
●昔に強い大きな国では中央と地域の情報伝達に人と馬を利用した。
馬は走れる距離に限界があり馬を乗り継いだ。
中央から専用の道路をつくり一定間隔で駅家をおいた。
紀元前6世紀からペルシャ・中国で行われた。
ローマは紀元前3世紀から500年かけ舗装道路を全領域につくった。
●日本では中国唐の制度を学び駅制をつくった。
646年・大化の改新の詔で駅馬を置くことが示された。
701年・大宝律令の完成後制度が整った。
諸道に約 16kmごとに駅を置いた。
駅路は七道・その支道を通じて諸国の国府に至る。
駅路は大宰府に通ずる山陽道を大路、東海道・東山道を中路、
北陸道・山陰道・南海道・西海道を小路とした。
駅家には大路に 20頭・中路に 10頭・小路に5頭の駅馬を置いた。
●駅家の運営は地域負担だった。
駅家には駅子・駅馬がいて、乗具・鞍具が備えられた。
駅使の休息・宿泊・食事を提供・駅馬の水呑場があった。
駅家郷として駅戸が指定された。
駅戸は駅家に駅馬養飼・駅子供出・駅田の耕作を負った。
●駅家の財源は駅田だった。
大路の駅家4町、中路の駅家3町、小路の駅家2町とされた。
平安時代中期・律令制の崩壊し駅制は衰えた。
鎌倉時代・駅制に代って私人経営の宿が発生した]
●駅家のひとつが那賀郡の河内駅家。
那珂川沿岸にあったとされる河内駅家の場所を調べた。
文献・発掘調査の成果・地形を読む・実地踏査によった。
土地宝典の小字名は貴重だった。
●那珂川の右岸が高地で駅家の候補地。
渡里廃寺や郡衙のあった渡里地区にあったと想定。
河内駅家は前期と後期と位置が動いている。
●前期河内駅家は渡里官衙遺蹟の南と推定。
小字地名の洞ノ内を挟む神田が2か所ある。
神田の大きさから駅田と考え、前期河内駅家が2つの神田の間にあったと推定。
●後期駅家は、現茨城大学近くの小字名前原・狸久保・南前原と推定。
●常陸国風土記にある曝井の泉は、小字名狭間・曳池・上曳地周辺・
前期河内駅家の南側にある崖の狭間と推定。
[●メモ。
●都〜常陸国府は東海道本路という。
東海道本路の駅家間距離620km、駅家間平均距離16km、駅家数38。
蝦夷征討で陸奥国に向けて駅路は続く。
718年・石城国・石背国が置かれる。
719年・石城国に駅家10ヵ所が置かれる。
常陸国の役割は陸奥と中央を中継・補給基地・物資・兵糧・兵員調達。
●蝦夷の反乱の非常事態発生時。
状況を駅制により中央に迅速・正確に伝える。
中央は諸国に配備の軍団に迅速に対応を指示する。
●馬は警戒心が強く安心して走れるように道路は直線道路にした。
一定速度での移動を目指した。
●奈良時代の1町は109m四方・江戸時代以降1町は100m四方になる。
●10世紀中頃・那賀郡から吉田郡が分立する。
渡里の小字地名神田は吉田郡に入る。
国衙領は吉田郡20郷の12郷を占め、吉田社領は8郷。
駅田は国衙の管轄・国衙領を神田の土地とし吉田社領として活用か]