23/9/6 水戸・ 歴史に学ぶ会移動講座 水戸藩「三屋敷」を訪ねて。
一乗院⇒常磐高速道路⇒小石川上屋敷⇒駒込中屋敷⇒昼食⇒小梅下屋敷⇒
高速道路⇒一乗院。
●水戸藩の江戸邸。
1616年・江戸城内松原小路屋敷を与えられる。
1622年・本郷駒込に屋敷を与えられる。
1624年・浅草矢島に蔵屋敷を与えられる。.
1629年・小石川に屋敷を与えられる。
1657年・明暦の大火で松原小路屋敷が類焼・小石川屋敷を上屋敷とする。
1693年・浅草矢島の蔵屋敷と本所小梅の屋敷を交換・下屋敷とする。.
1707年・目白に屋敷を与えられる。
●小石川上屋敷。
現在小石川後楽園。
●後楽とは宋の氾文正が述べた心得。
天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみの後れて楽しむ。先憂後楽。
■01 庭園。

●頼房の時に築造。将軍家光も巨石を支援。
光圀は朱舜水の意見も取り入れて整備し後楽園と名づけた。
綱吉の生母桂昌院が奇怪石を取り払い、
高松藩主松平頼豊が大木 700余を切り倒し風景が一変した。
■02 光圀尊崇の得仁堂。伯夷・叔斉が祀られている。

1645年・18歳光圀は伯夷伝を読む。
3男光圀には兄頼重がいたが、水戸家を嗣いだのは弟の光圀だった。
長男頼重・2男は亡くなり・3男が光圀。
伯夷伝を読んだ光圀は強く感銘を受けた。
兄に対して何ともすまない気持ちをいだいた。
申し訳として、水戸家は必ず兄の子に譲ろうと決心した。
■伯夷・叔斉のはなし。
孔子が生まれる前、中国に孤竹国があった。国主は亜微だった。
亜微には3人の息子がいた。長男伯夷・2男仲馮・3男叔斉だった。
父は伯夷でなく叔斉に国主を譲ることを遺言とし亡くなった。
叔斉は長男伯夷が国主を継ぐべきと考え悩んだ。
伯夷は叔斉が悩んでいるのをみて国を出てしまった。
叔斉も悩んだ末に伯夷を追い国を出てしまった。
国主不在では困るので次男仲馮が国主になった。
●国を出た伯夷と叔斉は一緒になり暮らした。
周の西伯の良い評判を聞いて周へ向かった。
周に行ったが西伯は亡くなり息子の姫発が継いでいた。
姫発は呂尚を軍師に紂王を滅すため軍を進める途中だった。
伯夷・叔斉は道に飛び出し姫発の馬車を止め
「父が亡くなり間もない。戦うのは孝ではない。紂王を討つのは仁ではない!」
と諌めた。
兵は怒り兄弟を殺そうとした。呂尚は「2人は正しい」と言って兄弟を去らせた。
その後、姫発が新王朝の周を立てた。
伯夷・叔斉は周の穀物を食べるのをやめ周を離れた。
首陽山に隠棲してワラビやゼンマイを食べた。最後には餓死した。
●詩を残した。
首陽山に登りワラビを採って暮らす。
暴により暴にかわり、その非に気づかない。
神農・舜帝・禹王の世は今はない。いずこに行けばよいのか。
ああ、もうお終いだ。天命も衰えた。
■03 円月橋。

朱舜水が光圀に提案し造られた。設計は朱舜水。
橋長11m・幅 2m・石造アーチ橋。
■04 藤田東湖護母致命の碑。

藤田東湖・1806〜1855年。
1855年・東湖は小石川上屋敷で安政の大地震にあう。
母を救い出そうとしたとき鴨居が落ちてきた。
東湖は母を下に囲い母を庭へ出した。
東湖は鴨居の下敷きになり圧死した。
●越前藩橋本左内曰く「心殿致し候者は水府藤田子に止まり申し候」
薩摩藩西郷隆盛曰く
「先生宅に伺うと清水に浴したよう」、
「我先輩にては藤田氏に服し、同輩にては橋本氏を推す」
東湖圧死の報に接し「頓とこの限りにて何も申すロは御坐無く候」
■05 稲田。

■06 門。

●中屋敷。駒込・東大構内。
藩主の隠居所・藩士の長屋。
明暦の大火で上屋敷が被災した際には避難所ともなった。
■07 朱舜水先生終焉之地碑。

東京大学農学部構内にある。
朱舜水・1600〜1682年。日本に帰化した明の人。
清に敗れ祖国復興を図るも果たせず日本へ亡命。
光圀が先生として迎え水戸藩中屋敷に住んだ。
墓は水戸家の瑞龍山墓地にある。水戸家以外では唯一のこと。
■08 弥生式土器発掘ゆかりの地記念碑。

東京大学農学部の門を出て東京大学工学部の門まで約1kmを歩く。
歩く途中に弥生式土器発掘ゆかりの地記念碑がある。住所は文京区弥生。
●1884年・東京大学の学生が見つけた土器は縄文土器とは異なり
町名から弥生式土器と命名された。
■09 向岡記碑。

東京大学工学部入口にある斉昭自筆の向岡記碑。
碑は常陸太田真弓の寒水石。
1828年・向岡記は斉昭が藩主になる前に書かれた。
水戸藩中屋敷の存在を示す石碑。
●向国記碑に書かれていること。
奈良や琵琶湖などは古くから風雅人が美しく素晴らしいと褒めた。
多くの歌が詠まれている。
水戸藩中屋敷辺りは、昔から武士が多かった。
太田道灌が城を築造したが住んでる人は少なかった。
この辺りは、
昔、源義家が奥州で蝦夷を平定した時、行き帰り通り休憩したという。
また、小野小町が武蔵野と詠んだのもこの辺りか。
この辺りは、花・ホトトギス・紅葉・雪とあり、春夏秋冬尽きぬ眺めがある。
1828年3月10日・咲き満ちた桜の木のもとに書きつける。
咲き満ちた桜を見て何もせずに見過すのは惜しいので歌を詠んだ。
名にし負ふ 春に向かいが 岡なれば 世にたぐひなき 華のかげかな。
●昼食。楠公レストラン。
■10 楠木正成像。

皇居外苑の楠公レストラン近くに在る。
建武中興の忠臣楠木正成の銅像。像は高さ約4m・台座を含めると約8m。
1333年・隠岐の島から戻った後醍醐天皇を正成が出迎えたときの姿。
別子銅山200年記念事業として献納された。。
1891年・東京美術学校が制作依頼を受けた。高村光雲を中心に制作された。
銅は別子銅山のもの。
銅像は木彫の原型製作に約3年、完成まで10年かかった。
●水戸藩下屋敷。小梅邸。
隅田川が近い。、
江戸時代は蔵屋敷と長屋群。明治には水戸徳川家小梅邸。
■11 小梅邸時代の門柱。

■12 明治天皇御製碑。

1875年4月4日・明治天皇が小梅の水戸藩邸に行幸。
花くわし 桜もあれと 此のやとの 世々のこころを 我はとひけり。
●小梅邸の満開の桜の花は奇麗だった。
しかし私は水戸家に代々にわたって継承された
「もし将軍家と朝廷との間に戦が起きたならば朝廷を奉ぜよ」
とする水戸家の尊王心を訪ねた。
■13 藤田東湖正気の歌碑。

正気の歌は東湖が居幽閉されたときに水戸藩下屋敷で作った。
●正気の歌に書かれていること。
天地に満ちる正大の気は神国日本に集まり満ちている。
正気が地におよび富士山となりそびえ立つ。
正気が水におよび日本各地を流れ潤いを与え海にそそぐ。
正気をおこなった人の紹介。
物部尾輿、中臣鎌子は蘇我稲目の仏教を排斥した。
中臣鎌足は大化の改新で蘇我氏を倒し皇室国家を磐石にした。
和気清麻呂は弓削道鏡をしりぞけた。
北条時宗は降服迫る元の使節を処刑した。
元寇襲来のとき、正気は猛風を起こし敵軍を滅ぼした。
元弘の変での護良親王の忠臣、村上彦義光の帝身代わり。
建武新政で護良親王は鎌倉の土牢に幽閉され殺される。
楠木正成、正行父子の桜井の駅の別れ。
小宮山内膳は天目山で殉死。
鳥居元忠は伏見の城を守り討死。
赤穂義士四十七人の仇討。
●当時を知る人が亡くなっても英霊は滅ばない。
正気は天と地の間にあり普遍の道を現す。
皇室を尊び両親を敬うように天津神につかえる。
学問を修め、武道をきわめ、異国を払う。
藩主斉昭は隠居謹慎となった。
私も蟄居幽閉となり身動きが取れず藩主の冤罪を陳述できない。
私は水戸藩下屋敷にいる。先祖の墓のある水戸から遠い。
どのように父母の恩に報いようか。
2年が過ぎ、私には正気が満ちている。
死を免れぬとしても、正気と離れるのは忍べない。
生きるなら主君の冤罪を晴らしたい。
死ぬなら忠義の鬼となり天皇の統治を護る。
■14 東京スカイツリーがよく見えた。

●出来事。
1844年・斉昭は幕府より隠居謹慎を命じられる。戸田・東湖ら蟄居幽閉の処罰。
1845年・東湖は小石川上屋敷より小梅下屋敷に移される。正気の歌を執筆する。
東湖の水戸の家族は梅香から竹隈町に移される。
蔵奉行秋山魯堂の依頼で小梅水哉舎の記を書く。
1846年・東湖の蟄居解除。
1847年・東湖は水戸城下竹隈に帰り隠居謹慎。
1852年・東湖宅慎を解される。
1853年・ペリー来航。斉昭幕府の海防参与。東湖江戸出府・海岸防禦御用懸。。
1854年・東湖側用人。
1855年・東湖弘道館奉行兼務。大地震で東湖圧死。
1869年・版籍奉還の後水戸家に下賜、
1871年・廃藩置県により第11代昭武が 小梅に住む。
1875年4月4日・明治天皇小梅の水戸藩邸に行幸。
1897年・第12代篤敬がイタリア風洋館を建造、 門柱残存。