23/7/30 水戸 歴史に学ぶ会 徳川家康と水戸頼房。
「徳川家康と水戸」 シリーズ講演会
仲田昭一
●戦国大名は領地確保・拡大のため情報収集に努めた。ある時武田信玄は尾張
からきた旅の僧に信長の生活を聞いた。。毎朝乗馬・弓・剣、他に舞と小唄をや
っている。舞は敦盛・人間50年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり。
小唄は、死なうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたり遺す。信玄は信
長はうつけではない・ただものではないことを悟った。
●1602年・佐竹義宣は徳川家康から秋田へ国替命令・54万石から20万石に。
●武田信吉1602〜1603。
1602年・家康5男信吉が佐倉10万石から水戸15万石藩主になる。武田遺臣等
170人を付けられる。1603年・信吉は亡くなる・21歳。
●頼宣1603〜1609。
1603年・家康10男頼宣2歳が水戸20万石藩主になる。ただし頼宣は家康の許
で育つ。1604年・武茂・保内5万石が加えられ25万石になる。1609年・頼宣
は駿府・遠江50万石に転封される。
●頼房1609〜1661。[頼房を水戸藩初代藩主という。信吉・頼宣は??]
1609年・家康11男頼房6歳で下妻10万石から水戸25万石藩主になる。頼房は
駿府城の家康の許で育てられる。1619年・17才頼房は水戸藩領にくる・2か月
後に江戸へ帰る。次の水戸藩領にきたのは1625年。
●家康は信吉・頼宣・頼房と3人の息子を水戸藩主にした。家康は佐竹氏が長
い間支配した常陸を大切に考えたのだろう。家康は窮地に陥った石田三成を最
後まで助けた佐竹義宣を律義者と見ていた。
●小田原攻めの時、秀吉は最大の競争相手家康に国替えを命じる。駿府から未
開地江戸への変更だった。秀吉は会津に蒲生氏郷・駿府に中村一氏を入れ家康
を牽制した。
●信吉は病・頼宣・頼房は幼く家康と一緒。1602〜1619は水戸藩領の実際の支
配は幕府直轄だったのではないか。
●信吉に170名の家臣が付けられた。しかし信吉が亡くなり33名を残し残りの
者は家康の処に戻った。
●徳川頼房。1603〜1661。
1603年・伏見城で生まれる。父家康・母於万・家康11男。家康は秀忠に義直(9
男)・頼宣(10男)・頼房を愛憐せよと命ずる。1607年・伏見から駿府に移る。
補導役に中山信吉。家康は大坂冬の陣に当り信吉に命じて曰く「頼房を駿府留
主居としたは汝が義勇あるを以てなり、厳重に守護すべし」と。
●頼房に付けられた家臣。
家康付き伏見衆・岡崎綱住・三木仁兵衛之次・伊藤玄蕃友玄。武田信吉家臣
・芦沢信重・市川三左衛門。今川氏旧臣・朝比奈康雄。関東郡代・伊奈忠次。
幕末の天狗諸生の争乱で諸生派の中心となる市川・朝比奈の名前がある。市川・
朝比奈は自分の家柄が水戸藩をつくり支えてきたという想いがあったと思われ
る。また有力家臣を水戸に入れた家康には、家康の水戸藩造りへの気概が大き
かったと感じる。
●頼房長男・頼重。母谷久子・頼房は水に流せと言ったが産んだ。三木之次夫
妻が家康側室英勝院と相談し江戸三木屋敷で密かに産む。既婚の三木夫妻の娘
に養育を依頼。京都天竜寺慈済院で修行。1632年・英勝院の配慮で江戸へ。1637
年・父子関係を認める・16歳。1639年・下館城主になる。1642年・高松藩主に
なる。瀬戸内海水運の監視? 三木之次は播磨赤松氏の一族・遠祖が播州三木に
住んでいたことから姓を三木とした。
●2男・子亀丸・母はお勝・ 4歳で早世。
●3男・光圀。母谷久子・頼房は水に流せと言ったが産んだ。三木夫妻が水戸屋
敷で生ませる。中山信吉が水戸に来て光圀を明晰な智恵のある人物と見込んで
頼房に次の藩主として推薦した。
●頼房10歳頃・家康は息子たちに何が欲しいと聞いた。頼房は天下を取るため
家臣を多く欲しいといった。
●家康は天守閣の上で息子たちにきいた。誰が飛び降りる者はいないか? 頼房
は私か飛び降ります。家康は身体が砕けるぞという。頼房は私の身体は砕けて
も一旦天下を得たということは長く世に伝わりますといった。家康は大変喜ん
だ。天下は長男が継ぐ。頼房には勇者を示す馬標唐の頭を与えた。
●頼房は尋常でない・将来を見据えている。頼房が水戸にきた時水戸を支配す
るにはどうしたらよいかという構想があったはず。
●水戸藩の吉田某事件。吉田が幕府の鷹師を殺害、幕府から引き渡しの要求。
頼房は吉田は家康からの家臣、一命を掛けて守る。松平信綱がくる。頼房は信
綱を手討ちと意気込む。吉田は自ら切腹して落着。頼房の気概があらわれてい
る。山本周五郎小説・鏡にも似た事件が書かれている。
●水戸城。
大掾氏・江戸氏在城時は本城曲輪のみ。柵町より上る御門を浄光寺御門という。
浄光寺は浄土真宗・江戸氏・佐竹氏の帰依を受ける。現在は那珂湊館山にある。
浄光寺御門を入って右の高台に池水あり日照りにも水は大丈夫だった。現在は
水戸一高グランドあたり。
水戸城には天守閣・石垣がない。1615年・家康の命。来年水戸へ行き蘆澤信重
宅に泊まる。行くまでに城の石垣をつくれ。しかし1616年・家康死去により石
垣は実現せず。
1617年・15才頼房は駿府から江戸へ入る。1619年・17才 頼房が水戸へくる。
2ヶ月で江戸に戻る。1621年・水戸東照宮ができる。家康・家光を祀る。
1625年・水戸城造築・新たに市街を開き商家を置く。水戸城大手橋成る。本丸
より屋形を二の丸に移す。なぜ移したかは不明。本丸はその後倉庫が置かれた。
1633年・水戸城諸郭門出入りの定法定める。1636年・家光が日光東照宮を大改
造する。家光は伊豆の石で水戸城石垣を造ろうとするが実現せず。
1638年・水戸城三の丸南北の郭門を造る。水戸城総曲輪普請。
1645年・幕府命の国絵図を望月恆隆・近藤和隆がつくる。光圀18歳、史記
・伯夷斉伝を読み日本史編修を決意。湊・磯原・水木に船番所を置く。湊は和
田の台場・磯原は未確認・水木は水木の灯台のあるところ。幕末には日立に助
川海防城・大洗祝町向洲台場・日下ヶ塚古墳一帯は磯浜海防陣屋が造られた。
1648年・水戸城本丸・二の丸・虎口土手・城池の修造設計図幕府より許可出る。
1649年・下市の轟橋石壁を築く。1650年・岩崎江堰・辰ノロ江堰成る。
1651年・千波柳堤築造。築堤を頼房が初めに渡ろうとしたが鈴木石見守が先に
渡った。頼房は怒る。石見守は新造堤の見物人が多い。中には悪いことを考え
ている者もいるかもしれないので用心した。
1656年・小場江堰・赤沢江堰成る。
1661年・頼房死去。
1663年・下町清水道成る・笠原水道成る。1669年・柵町清水道成る。
1666年より水戸城に鼓を置いて時を報ず。1667年・鐘を置いて時を報ず。
1668年・下町第三街失火。1670年・府下失火 270余軒焼亡。
1675年・那珂湊にあった別館は菅谷の武田信吉の御殿の材料でつくられた。
1697年・別館をいひん閣に移す。
1698年・水戸場内に彰考館を移す。
1764年・右筆方より出火・屋形・三階物見焼失。
枝川村に新船渡を設け海老窪の船を廃す・青柳渡を設ける。
1771年・三階物見を三階櫓として再建。三階櫓は水戸より大工頭が姫路城に行
き調査し姫路城を参考に造った。城の外からの景観も美しい。
1787年・彰考館別館焼失、書物600巻焼失・書庫2棟災を免れ珍書は無事。大
日本史編纂ができた。
●尊王。
1623・1626・1634・頼房は将軍に従い上洛。
1626年・頼房は後水尾天皇に和歌を詠み褒め讃えられた。
幾千代を かさねても 猪呉竹の かはらぬ風を 誰かたのまむ。
1628年・那珂川の初鮭献上、以後家例となる。晩年の師林羅山・萩原兼従によ
る神道研究・皇統無窮の国体に注目・光圀に影響。
●1634年・頼房は邸中桜の馬場で永野九十郎を手打ちにした。夜7才の光圀に
九十郎の首を持ってこいと命じた。光圀は処刑場に行き重い首を引きずって持
って帰った。頼房は喜び佩刀を光圀に与えた。
●1639年・頼房は浅草隅田川で12才の光圀に水練を試した。隅田川を数回往復
させた。頼房は泳ぎ切った光圀を誉め宗近の短刀を与えた。
●頼房の最期 遺言・殉死の禁止。
1661年・頼房は腫物を患う。治療の効果なし。頼房は藩内の殉死者を出さない
ように光圀に命じた。光圀は頼房に従い家臣に殉死を固く禁じた。日本で殉死
を禁じたのは頼房が最初。会津の保科正之も殉死を禁じた。同時期に幕府も殉
死を禁じた。7月・頼房亡くなる59歳。11月・光圀母谷久子亡くなる57歳。
●頼房の評価と逸話。
●頼房は資性剛毅で勇武人。好んで土を愛し、事に臨んで不撓、勢いを見て不
屈、古良将の風あり、幕府頗るこれを忌む、故に大国に対せらるることを得た
まわず。
●頼房は家光を敬して長幼を以て酒を飲む。家康が家光に曰く、頼房は佩刀の
身に同じ、ただし抜かせぬようにせよ。家光の親愛は尾張・紀伊に過ぎる。
●頼房は弓・特に短弓が得意。常に飛ぶ鳥を射る。かつて板橋の狩で尾張義直
が猪を射るが斃れず、頼房がこれを射て直ぐに数頭を斃す。家光感嘆する。
1635年・南領に田猟し獲った猪皮561張り。
●頼房は学問を好み、四書五経・史記を読ませて聞くこと多し。家康死去後に
遺書寄贈多く受ける。臣に命じて光圀に勧学さす。
●下町に宝鏡院があった。大水があり藩士が城に入るのに寺を通り下駄を履い
て仏殿を歩いた。寺僧その 無礼を訴える。頼朝は平常でない、危難を恐れず懸
命に城中へ入る藩士、命を懸けて頼房に代わろうとする者である。僧もこれら
の志を嘉すべきものをと怒り追放した。
●岩本越中は銃で水戸城上のサギを獲った。頼房は怒り不敬を責めた。岩本曰
く「我は病身、サギを食べれば癒える、翼を見て不敬を忘れた。万一事あれば
先途として矢石を避けない。臣と鳥どちらが大切か」。頼房笑って曰く「臣が大
切だ。しかし国にはきまりがある。捨てて問わざる時は法廃る。汝と法といず
れか重きや」。岩本その罪に服す。頼房も赦して罪を問わず。
●165年・小石川邸館火災あり。近臣向坂弥九郎火に入り頼房愛用の書取り出す。
皆その功績を賞す。頼房曰く「我も同感なり。しかし今賞すれば今後も諸士争
いて続くものあろう。今賞せず」。
●頼房は秀忠・秀忠夫人と一緒にいた。秀忠「頼房は誰と結婚するのかな」
秀忠夫人「頼房のような悪戯者のお嫁さんはいません」頼房はこれを心中に含
み一生奥さんはなかった。頼房に奥さんがなかったのは秀忠夫人のせいか??
●頼房は極めて質素倹約、民を貪らず、風俗を乱さず、義理を正して威強し、 幼
少より今に至るまで変わらない。
●暴れ者頼房を正したのが中山信吉。頼房が問題を起こした時、幕府から中山
は何を指導しているのかと叱られた。中山は頼房に言った。私が悪かった・
なんとかその行いを直してください。私は切腹してお詫びします。
それを聞いた頼房は行いを反省し立ち直った。
●家康が水戸藩の家臣を集めた。
●水戸藩家臣団の構成。
●慶長期・1603〜1614。登用数 176人 約4割が武田氏の旧臣。
●武田信吉が亡くなり家臣の内33名は水戸に残留し頼房に仕える。
●後北条氏家臣・中山信吉は家康に仕官。頼房の附家老。中山家範は八王子に
籠城し義勇屈せず死守、勇絶倫法また八州第一の妙手なり」
●頼房付き。岡崎網住 ・伊藤玄友玄・三木仁兵衛・朝比奈泰雄 ?市川重時。
●元和期・1615〜1623。登用数 205人 駿府・江戸で奉仕した者。
●後北条氏家臣の増加。戦国大名系・旧豊臣氏家臣。
岡見経吉 (牛久城主の子)
●額田城主額田昭通の例。1591年・額田小野崎氏は佐竹義宣に額田城を攻めら
れた。額田小野崎氏は城を出て、伊達氏に引き取られた。1602年・佐竹氏が秋
田に移封となり、額田小野崎氏家臣団は額田に戻った。1606年・伊達家にいた
額田昭通は、伊達政宗の娘五郎八姫と松平忠輝の婚姻に際し五郎八姫に付属し
て信濃国川中島藩にいく。1610年・忠輝の越後加増に伴い越後高田藩士となる。
1616年・忠輝が改易となり、昭通は浪人し額田に戻る。頼房の水戸家は広く諸
国に人材を求めていた。1618年・水戸藩内にいた昭通は水戸藩に600石で仕え
る。頼房は武功の人材は広く他国に求めたいと思っていた、まさか藩領にこの
ような人材がいるとは思わず、これは幸いである。逆に、このような人材を他
国に流出させてはならぬと言った。昭通は名を照通と変え、子孫は以降は水戸
藩士となった。
●寛永期・1623〜1643。登用数218人 旧佐竹氏家臣など 郷士制度採用。
●山野辺義忠・最上義光の第4子。1621年最上氏改易・備前池田家に幽居13年
その後水戸家1万石。
1633年・家光の命ありて山野辺義忠を水戸家の者臣たらしむに水戸藩附家老中
山家に次ぐ筆頭家老として重要視され、水戸家位牌所常福寺墓所を設けられる。
●寛文 延宝期・1661〜1680。1668年 正月期の状況を編さん。
1000石以上30人・700石〜1000石11人・500〜700石20人・
家老職18人の禄高6万石超。光圀の弟・甥・養嗣子の禄高1万6200石。
寄せ集め家臣団の結束を図るため一族で内部を固める必要性あり。
■分家4藩。
●高松藩12万石・頼房長男頼重。●守山藩 2万石・頼房4男頼元。
●府中藩2万石・頼房5男頼隆。●宍戸藩 1万石・頼房6男。
■高松藩主松平頼重と綱條。1644年・頼重は万と結婚。1663年・万は鎌倉英勝
寺に死す。法名は光誉孤円照心、皓月院と号す。1665年・頼重の子綱方・綱條
は水戸藩の光圀の養子となる。1670年・綱方亡くなる。1673年・万を高松に改
葬。1690年・綱條が水戸藩3代藩主となる。その後亡母・皓月院の菩提を弔う
ため分骨し供養の地蔵尊石像を造り、水戸徳川家の位牌所向山浄鑑院常福寺に
安置する。1864年天狗諸生の争乱で常福寺は焼失。地蔵尊石像は焼け跡から見
つけられ額田の引接寺に移されている。
●家康は没収した佐竹領の常陸を江戸を護る重要な後背地と考えた。
佐竹氏への恩を持つものが多い常陸には徳川家への反感が渦巻いていた。
家康は息子を藩主とし藩主が幼いうちは天領のように位置づけした。
家康は信頼の置ける伏見衆・ 駿府衆など譜代の家臣たちを頼房に付けた。
譜代の 家臣たちは水戸藩創設の自負心を持つと同時に藩運営への責任感が旺
盛であった。