23/7/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
稲木義成師 宇都宮市観專寺副住職。
[ ]はhp制作者メモ。
■御讃題。
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる。
[数限りない全ての世界の念仏する人を見通し、摂め取り決して捨てないので、
阿弥陀という・阿弥陀経]
■阿弥陀は、サンスクリット語。アは否定のことば・ミタは量る。
フミタは量ることができない・無量。
アミターバは無量光・アミターユスは無量寿と訳される。
■正信偈冒頭・帰命無量寿如来 南無不可思議光。
無量のいのちをもった阿弥陀如来・考えることが出来ない光をもった阿弥陀如
来におまかせします。
無量の命・限りがない命・始まりも終わりもない命とは。
ご先祖さま・蓮如上人・親鸞聖人・釈尊の生きていた時代にも阿弥陀如来と
無量の光はいつも一緒にいてくれる。
私が暗闇の中にいても・どんなに硬い殻の中にいても照らしてくれる無量の光。
太陽の光には影があるが・無量の光には影がない。
いつでも誰とでも一緒にいてくれる。
浄土真宗の救いは、私の居場所を浄土にいただいていること。 
安心をいたいていること。精一杯生かさせてもらった後には、浄土に還る。 
浄土に私の居場所がある。用意されている。
■阿弥陀経。ある時釈尊は舎衛国の祇園精舎で1,250人の弟子と一緒だった。
そのとき釈尊は舎利弗にいった。
ここから西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに、極楽と名づけら
れる世界がある。
そこには阿弥陀仏と申しあげる仏がおられて、今現に教えを説いていなる。
[舎利弗よ、その国をなぜ極楽と名づけるかというと、その国の人々は、何の苦
しみもなく、ただいろいろな楽しみだけを受けているから、極楽というのであ
る]
■1500年前。
魏の皇帝は曇鸞大師に尋ねた。
浄土は無辺・十方なのになぜに西と説くのか。
曇鸞大師は答えた、
我身は智慧浅くしていまだ地位にいらざれば念力ひとしくおよばれず。
私は智慧が浅く念力及ばぬものは、漫然と十方これ浄土と教えられても念ずる
ことはできない。
■それから100年後善導大師。
一切の仏土皆厳浄なれども凡夫の乱想恐らくは生じ難しといった。
西方を一定に示してくだされた方が都合がよい。
それで西方を方処とされたのだ。
■浄土は命のふるさと。
行ったことはないが亡くなった親しい方が待っている世界。
私が安心して帰れる場所が浄土。
■親鸞聖人の弟子へり手紙。
この身は、いまは、としきわまりてそうらえば、さだめてさきだちて往生しそ
うらわんずれば、浄土にてかならずかならずまりまいらせそうろうべし。
■自力で救われない私・南無阿弥陀仏が私に届いている・生き抜いて還る。
■十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 
阿弥陀となづけたてまつる。
●阿弥陀如来の摂取の光明に照らされた人生は、大きな安心に恵まれた人生。
阿弥陀如来がいつも私を見守ってくれる。
死んで終わる人生ではない。仏とならせていただく意味が与えられている。
いつでも・どこでも慈悲の中に包み込んでくれている。
浄土に私の居場所が準備されている。安心をいただいて日々暮らす。
南無阿弥陀仏と念仏申させていただく。
多くの人に助けられ・支えられ・阿弥陀如来の摂取の光明に照らされ安心をい
ただいて生かされている私。南無阿弥陀仏と念仏申させていただく。
[阿弥陀如来の本願は かならず救うまかせよと 南無阿弥陀仏のみ名となり
たえず私によびかけます。このよび声を聞きひらき 如来の救いにまかすとき
永遠に消えない灯火が私の心にともります。如来の大悲に生かされて 御恩報謝
のよろこびに 南無阿弥陀仏を称えつつ真実の道を歩みます。この世の縁の尽き
るとき 如来の浄土に生まれては さとりの智慧をいただいてあらゆるいのちを
救います・救いの喜び]
■御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候ふ。そのゆえは、
もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力とし
て、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を一念発起入正定聚と釈し、
そのうえの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころ
うべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
■上宮寺山門前掲示板の言葉。
死ぬことは誰かの心の中で生き続けること ―樹木希林ー
どんなあなたが生き続けるのでしょうか それが問題です

■住職のはなし。
祖父がよく浄土は真実のふるさとといっていた。
われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親のよびごえという。
南無阿弥陀仏・念仏を称えさせてもらっているが、
念仏は私だけのものではない。私だけの声ではない。
阿弥陀如来の救いの呼び声であり、
また念仏をいただいて旅立たれた懐かしい方々も一緒になって
南無阿弥陀仏と称えている。
その念仏の中に今私は生かされている。
私は阿弥陀如来を親と思い
阿弥陀如来は私を我が子よと優しく見守る。
精一杯生きぬき浄土に還らせていただく。