23/7/16 水戸・歴史に学ぶ会 徳川家康と武田信吉。
徳川家康と水戸シリーズ講演会。
仲田昭一先生。
[ ]はhp制作者メモ。
●水戸藩は頼房からはじまるといわれる。しかし武田信吉が先に水戸にいた。
武田信吉は家康の5男、本来松平か徳川の姓・武田と何故名のったのか。
また武田信吉は那珂市とのかかわりもあった。
●家康の息子。
1信康・自害させられる。
2秀康・秀吉の養子・下総結城⇒越前福井。
3 秀忠・2代将軍・関ヶ原合戦に遅刻。和の政治。息子家光を将軍にする。
4 忠吉・武蔵忍⇒尾張清洲。
5信吉・小金⇒佐倉⇒水戸。
6忠輝・武蔵深谷⇒佐倉⇒川中島⇒越後高田⇒改易。
7早世。8早世。
9義直・尾張・素直な人柄。
10頼宣・下妻⇒水戸⇒紀州・旺盛な戦闘能力・剛の者。
11頼房・下妻⇒水戸・気丈剛の者。
●家康がら秀忠への厳命。頼房を離さず懐刀にしろ。外に出しては危ない。
警戒せよ。
水戸藩が江戸在住・定府制になった理由か?
●武田氏の発祥地はひたちなか市武田。中世は常陸大掾吉田氏の支配で吉田郡
武田郷だった。平安時代末期に武田溜を造成して周辺を開発。
[武田氏館はひたちなか市武田にあるが、12世紀初めは勝倉小学校あたりから武
田氏館にかけて住居があったようだ。武田義清は常陸国那賀郡武田郷に住み、
郷名をとって武田を名乗り、甲斐武田氏の祖となった。 12世紀初め武田郷は常
陸平氏の吉田氏、鹿島神宮の中臣氏の勢力があった。武田の地へ義清・清光父
子が入った。常陸国司に武田氏が乱暴をはたらき争いごとを起こしていると訴
えがあった。義清・清光父子は配流の命を受け・武田郷から甲斐国へ行った]
●武田節に戦国大名の考えが見えてくる。祖霊ましますこの山河・敵に踏ませ
てなるものか・人は石垣・人は城・情けは味方・仇は敵・各々京を目指せ。
戦国大名は京を目指した。朝廷があったからだ。
●武田信玄は病に負けた。信玄が亡くなり勝頼になる。天目山の戦いで武田は
織田・徳川に追い込まれ滅亡する。戦う前に多くの武田家臣が勝頼を見捨て戦
場から逃れた。その時讒言で謹慎していた小宮山内膳・土屋昌恒が駆けつけ勝
頼のために最後まで戦った。家康は戦いの間武田家臣をよく見ていた。
戦いが終わってからの武田家臣への家康の対応。
●謀反人・小山田信茂ら斬殺。
●小宮山内膳をあつく弔う。小宮山内膳の弟昌親は小田原合戦に
家康方の長槍奉行として参戦。
後に藤田東湖は正気の歌で小宮山内膳の忠誠を讃えた。
或殉天目山 幽囚不忘君。或い殉す天目山・幽囚君を忘れず。
武田勝頼は天目山に籠った。讒言で謹慎していた小宮山内膳は、主君の恩を忘
れずこれが最期のお供と天目山に駆けつけ許され最後まで忠節を尽くし討ち死
にした。
●土屋昌恒の子息忠直は秀忠の小姓になり更に上総久留米藩主になる。忠直の
弟数直は土浦藩主となり幕府老中になる。
●家康は佐竹義宜を大変に律義な人とみていた。秀吉が小田原を攻めた時、義
宣は遅れて秀吉に会った。秀吉の機嫌は悪い。その時石田三成か間に入り何か
ととりり成してくれた。後に三成は加藤清正などに殺されそうになった。京に
いた家康が三成を匿い三成は助かった。家康は三成を京から三成本拠の佐和山
城に送るとき家康2男秀康に送らせた。その時義宣は三成の小田原での恩を忘
れず秀康と一緒に三成を守り佐和山城へ送った。家康は「律儀なる人というは
稀なり、我等この年になれども、律儀なる人とては佐竹義宣より外には覚えず」
と言った。家康は義宣を高く評価した。
●家康は浄土宗を信仰していた。瓜連常福寺へ支援をしている。1602年・家康
は100 石の寺領・年貢・山林・竹木の諸役免除の朱印状を与えている。更に関
東18檀林のひとつにした。
●家康の家臣四天王。
1井伊直政・彦根。
2榊原康政・伊勢榊原村出身・三河・関東入部後の安定化・館林⇒姫路⇒高田。
一説に家康から水戸に加増転封を打診されたが、関ヶ原での戦功がないこと、
館林が江戸城に参勤しやすいことを理由に断った。家康は康政の態度に感銘し
て、康政に借りがあることを神に誓い証文として与えた。
3酒井忠勝・信州松代鶴岡・庄内。
4本多忠勝・桑名。「家康に過ぎたるものがふたつあり、唐の頭に本多平八」と
いわれた。「死にともな、鳴呼死にともな、死にともな、深きご恩の君を思えば」
と詠んでいる。家康様から受けた深い恩を思うと死にたくない、ああ死にた
くない、死にたくない。
●家康はどうすれば徳川家を継続できるかを考えた。大名配置を大時にした。
江戸城溜間詰に入れた大名は家康以来の家臣で幕政を担う責任感と自負心を持たせた。
彦根藩・井伊家・35万石・四天王井伊直政・京都の抑えと琵琶湖水運の支配。
会津藩・松平家・23万石・東北の抑え。
高松藩・松平家・12万石・瀬戸内海の抑え。
小浜藩・酒井家・10万石・日本海の抑え。
忍・松平家・10万石・江戸から西の抑え。
桑名藩・松平家・11万石・四天王本多忠勝・東海道の抑え。
路藩・酒井家・15万石・京都西の抑え。
松山藩・ 松平家・15万石・四国の抑え。
岡崎・本多家・ 5万石・東海道の抑え。
庄内藩・酒井家・14万石・四天王酒井忠勝・東北の抑え。
●岡崎三奉行。
1565年・三河一向一揆後の治世に家康が置いた奉行、国務・訴訟裁断を担当。
高力与左衛門・本多作左衛門・天野三郎兵衛。
「仏の高力、鬼作左、かれこれなしの天野三郎兵衛」といわれた。
温厚な高力・気性の激しい本多・何事にも公平な天野。性格が異なる3人を奉
仕とした家康、人を良く選び使う。
●武田信吉は1583年・浜松で生まれる。家康5男。母は家康側室下山殿。
下山殿は武田信玄家臣秋山虎康の娘・穴山梅雪の養女として家康の側室になる。
梅雪は信玄の姉を母に、信玄の娘を妻にした。梅雪は武田家滅亡時、
織田・徳川に下り武田姓の継承を約束された。梅雪は本能寺の変の時、家康と共に和泉
堺から帰国途中・一揆に襲われ落命した。家康は武田姓の断絶を惜しみ5男信
吉を後継者とした。元服後に武田信吉と名乗らせた。穴山・武田の遺臣
約170名を附属させた。
●信吉は家康の関東移封に伴い1590年・8歳で下総小金城主3万石。
1593年・11歳で下総佐倉城主5万石。1602年・20歳で水戸城主15万石。
1603年・21歳・水戸城で病死。
●信吉は城下の善徳寺に埋葬される。後に頼房が善徳寺を心光寺と名前を変更。
1678年・光圀が信吉を太田瑞龍へ改葬。
1689年・向山に心光寺を移し常照山浄鑑院とする。
1709年・瓜連常福寺の水戸徳川家位牌所を向山へ移し浄鑑院と合併し、常照山
浄鑑院常福寺とする。瓜連常福寺は隠居寺となる。
斉昭の時向山常福寺は廃寺とし瓜連常福寺を水戸徳川家位牌所とする。
向山常福寺は天狗諸生の乱で建物は焼失。現在境内は那珂市立第二中学校
・田畑・杉林があり、一部住職の墓碑のみが残る。
●信吉が水戸に入った時城下は混乱していたようで菅谷村御殿に住んだという
はなしがある。当時菅谷村周辺は新田開発で陣屋があったらしい。信吉は陣屋
に少しの間住んだのか。

[常陸を長い間支配した佐竹氏が秋田に移った直後に信吉は水戸に入った。
秋田に行けなかった佐竹氏家臣も多く残っていたか。
21歳の若さで、水戸では業績も残せず亡くなった信吉。
・・・南無阿弥陀仏]