23/7/6 ひたちなか市 水戸対地射爆撃場みはらしの丘になるまで。
田村泰紀先生 ひたち海浜公園企画運営課課長。
●23/1/3撮影。

■公園は1991年米軍から返還の地に開園。自然環境を保全し首都圏のレクリエ
ーションのためつくられた。テーマは「海と空と緑が友達爽やか健康体験」。国
が整備・管理運営・樹林地・草地・砂丘・湧水地・砂浜海岸約1kmからなる。
計画面積350ha・NYセントラルパークとほぼ同じ広さ。東京から110km。ひたち
海浜公園ICに直結。JR品川駅〜JR勝田駅まで85分・勝田駅から6km。開園以
降入圍者数・3,868万人。
●利用者年令層・18才以下11%・19〜29才18%・30〜39才15%・40〜49才15%
・50〜59才15%・60〜69才15%・70才以上11%。年代の偏りがない来園者層。
●利用者居住地・茨城県37%・東京都13%・埼玉県12%・千葉県12%・栃木県9%・
神奈川県6%・他11%。
●スイセン23/3/27撮影。

■園内の花など。1月アイスチューリップ・3月スイセン・4月スイセン・チュ
ーリッブ・ネモフィラ・5月ネモフィラ・6月バラ・オオウメガサソウ・7月緑
コキア・8月緑コキア・9月緑コキア・10月コスモス・ソバ・コキア・11月バ
ラ・12月アイスチューリップ。
■現存する遺構。トーチカ・未公開。歴史ギャラリー。標的・海浜部未供用区
域・未公開。
●歴史ギャラリー23/1/3撮影。

■経緯。
1912〜1923年・この頃海岸を陸軍が年2回実弾射撃練習に使用。
1937年・機上射撃・機上通信技術要員養成のため水戸陸軍飛行学校設置を決定。
1938年・地元説明・用地買収・立退き24戸。建設工事着手。
1941年・飛行場目的が変更・教育飛行場⇒出撃基地兼用飛行場⇒特攻基地化・
特攻で70余名が散華。
1945年・飛行場が空襲される⇒主力を群馬県新田飛行場に移す⇒終戦。
1946年・水戸飛行場跡を連合国軍が接収・空軍の対地射爆撃場になる。
1952年・在日米軍施設となる。以降対地射爆撃場となる。
その後、ベトナム戦争に向けて戦闘機の爆弾投下・機銃掃射訓練があったよう
だ。戦闘機はプロペラ機がからジェット戦闘機になった。F-105戦闘爆撃機の
爆弾投下・機銃掃射訓練が行われた。F-105はマッハ2で飛べた。マッハ2は
時速2400kmの速さ。衝撃波がでて建物のガラスが割れ人の鼓膜が破れるら
しい。実際はマッハ1近くで訓練か。東京や埼玉から数分で超低空で飛んでき
て対地射爆撃場にある標的に爆弾投下・機銃掃射した。プロペラ機の場合時速
500km位で目視できる範囲で標的に爆弾投下・機銃掃射する。F-105の場合は
数km離れた位置から爆弾投下・機銃掃射をしないと間に合わない。その結果、
誤爆が多くなったようだ。
1946年〜1971年射爆?場関係事故の種類と発生件数。爆彈誤投下114・機銃誤
射11・墜落9・不時着1・落下物11・超低空事故1・その他飛行機事故8・交通
事故18・その他8。
1957年・米軍機による母子殺傷事件。
1961年・米軍機による民家の誤銃撃事件⇒水戸射爆?場返還推進本部設置。
1963年・防衛庁は代替地に御蔵島を発表。射爆撃場返還促進県民大会開催。
1964年・射爆撃場返還問題の臨時県議会開催。
1969年・射爆撃場返還の閣議決定。
1971年・在日米軍の射爆撃演習の停止。
1973年・水戸対地射爆撃場跡が日本政府に返還される。
1975〜1978年・水戸地区大規模公園調査。
1975年・飛行場関係戦没者約1000名を慰霊する水戸つばさの塔がつくられる。
1977年・首都圏整備計画 ・北関東総合開発の一環として水戸対地射爆撃場跡地
利用の一部として公園緑地整備が記される。
1979年・国営常陸海浜公園 (仮称) 事業が着手。
1980年・国営海浜公園調査事務所発足。
1983年・国営常陸海浜公園基本計画決定。
1984年・起工式。
1991年・国営ひたち海浜公園 第一期開園・開園面積70ha。
1994年・勝田市・那珂湊市合併・ひたちなか市となる。
2004年・海浜口・風のゲートができる。
2019年〜2020年・つくば万から移設の遊具おもしろチューブ老朽化で解体。
2021年・国営ひたち海浜公園開園30周年・開園面積215ha。
新遊具・月と地球の広場をつくる。
■つくば万博から譲られたバラ・ラバグルート (赤) ・アイスバーグ (白)
●大草原23/1/3撮影。

■大草原の広場は、はじめは砂地だった。そこに土をのせ覆い芝の種を蒔いて育
て草原にした。
■みはらしの丘のあるところは米軍の対地射爆撃場の標的だった。大型トラッ
ク 20万台分の土を盛って丘にした。25年かけつくった。丘には3つの頂上が
ある。一番高い頂上は高さ58m。
■入園者数、1991年は70万人程度だった。2000年頃・みはらしの丘ができて
きて最初にコスモス・その後ネモフィラ、しばらくしてコキアを植えると100
万を超えてきた。2011年東日本大震災で減ったがその後増えてきて2015年は
200万人を超えた。増えた理由は世界で一度は行ってみたい絶景に選ばれたこと
が大きい。2020年コロナ禍で減ったが2023年は180万人くらいを予想している。
●ネモフィラ23/4/17撮影。

■みはらしの丘のネモフィラは、はじめ青と白混合だった。
白が強く白が増えてきた。土の 入替を行い現在は青色だけにした。
■公園北部の久慈川から流出する漂砂と北東風が砂丘を形成している。現在阿
字ヶ浦沖に長さ6kmの防波堤がつくられ砂の量が減ってきている。
■ひたちなか市は植物の南限種と北限種が混在する。ハマグルマ・オオウメガ
サソウ・ハナハタザオが園内で確認されている。
■みはらしの丘・秋にコスモスを咲かせた。コスモスは背が高く強い風・大雨
の時倒れやすい。現在はコキアを育てている。品種改良を行い背の低い丸いコ
キアとしている。
■以下はhp制作者のメモです。
1964年・ベトナム戦争に米国が参戦しようとしていた。水戸対地射爆撃場では
これに備えて射爆訓練が行われていた。誤爆も問題となっていた。
しかし問題は水戸対地射爆撃場の隣に東海村の原子力施設があることだった。
もし原子力設備を誤爆すれば東京に被害を与える。1964年・政府は代替地を求
め、射爆訓練候補地として御蔵島を考えたようだ。
射爆訓練に使用されるF-105は、ベトナムで使われたようだが、色々と問題が
あり使われなくなったようだ。
御蔵島の人々の反対運動もあり、防衛庁は射爆場候補地建設を「御蔵島は適切
でない」という見解から候補地を取り下げたという。
●水戸対地射爆撃場周辺には米軍で飼っているシェパード犬が放し飼いだった。
近くを通ると吼えられ追いかけられ怖かった。自転車で全力で走り抜けた。
●学校はガラス窓が二重になった。エアコンはなく天井に換気扇がつけられた。
●飛行機は海上からきていた。夜光ものを撃つと周りが明るくなった。