23/6/28 那珂市 茨城県植物園。
01

02アジサイ。

03タイサンボク。

04モクゲンジ。

05ギボウシ。

06オカトラノオ。

07シナノキ。

08リョウブ。

09ヤマユリ。

10シモツケ。

11キンシバイ。

12ハギ。

13ノリウツギ。

14アガパンサス。

15ハイビスカス。

16ハマユウ。

17

18シクンシ。

19ベコニア。

20ナンテン。

21センダン。

22イワカラミ。

23クマシデ。

24ムクロジ。

25ホタルブクロ。

26ビワ。

27ハナイカダ。

28ヘメロカリス。

29アベリア。

30ザクロ。

31ビョウヤナギ。

32ナツハゼ。


■熱帯館内に牧野富太博士のパネル展示があった。
牧野図鑑の展示と以下のような説明があった。
●富太郎の経歴。
1862年4月24日・土佐の佐川村に生まれる。幼名成太郎。生家は酒造と雑貨商
を営み裕福だった。
1865年・3歳・父佐平病死。
1867年・5歳・母久寿病死。
1868年・6歳・祖父小左衛門病死。富太郎と改名。祖母浪子に育てられる。
1872年・10歳・寺子屋で習字を習う。
1873年・11歳・塾で漢学・名教館で西洋諸学科・英語学校で英語を学ぶ。
1874年・12歳・佐川小学校に入学。
1876年・14歳・小学校の授業に飽き足らず2年で自主退学。文部省掛図博物図
には興味を持つ。本草綱目啓蒙・敦荒本草で植物の名前を覚え植物採集をする。
1877年・15歳・佐川小学校の臨時教員になる。
1879年・17歳・高知市五松学舎に学ぶがコレラで帰宅。
1881年・19歳・第2回内国勧業博覧会見物、顕微鏡・書籍購入のため上京する。
農商務省博物局に田中芳男を訪ねる。日光・箱根・伊吹山で採集し帰宅。高知
県西南部で1ヵ月間採集。
1884年・22歳・東京帝国理科大学植物学教室へ出入りが許される。1884年〜1892
年は東京と郷里を往復する。郷里で採集・写生に励む。芦ノ湖の水草を研究。
石版印刷を習う。
1887年・25歳・植物学雑誌創刊に関わる。論文「日本産ひるむしろ属」が掲載
される。祖母浪子病死。
1888年・26歳・小澤寿衛と所帯を持つ。日本植物志図篇刊行を始める。
1889年・27歳・植物学雑誌に大久保三郎と日本初の新種ヤマトグサの学名を
発表。佐川理学会発足。横倉山でコオロギランを採集。
1890年・28歳・東京府小岩村でムジナモ発見。植物学教室出入り禁止となる。
1891年・29歳・実家の家財整理に帰郷。高知県下の採集を行う。日本植物志図
篇第1巻第1集で中断。露国マキシモヴィッチの所へ行こうとしたがマキシモ
ヴィッチ死去により断念する。
1893年・31歳・長女園子が急死する。東京帝国理科大学の助手となる。
1896年・34歳・台湾の植物採集に出張する。
1899年・37歳・新撰日本植物図説刊行を始める。
1900年・38歳・農事試験場嘱託となる。パリ万博に竹の標本を出品。
大日本植物志行を始める。子どもが次々と生まれ生活苦となる。
1909年・47歳・横浜植物会を作る。
1910年・48歳・大学の助手を休職になる。
1911年・49歳・東京植物同好会を作る。
1912年・50歳・東京帝国理科大学の講師となる。
1913年・51歳・独国植物学者エングラーと日光で植物採集。
1916年・54歳・家計が極貧になる。東京・大阪の朝日新聞に窮状の記事が出る。
神戸の池長孟より援助を受ける。植物研究雑誌創刊。
1926年・64歳・東京府北豊島郡大泉村に家を建てる。
1927年・65歳・理学博士の学位を取る。仙台でササの新種を発見。
1928年・66歳・妻寿衛が死去。新種のササにスエコザサと命名。
1934年・72歳・牧野植物学全集刊行開始
1937年・75歳・牧野植物学全集で朝日文化賞を受賞する。
1939年・77歳・東京帝国大学の講師を辞任。
1940年・78歳・牧野日本植物図鑑・雑草三百種刊。11月に大分県犬ヶ嶽採集中
に転落事故。年末まで別府で静養。
1941年・79歳・満州へサクラの調査に行く。池長孟が標本を返却。安達湖花よ
り標品館が寄付される。
1945年・83歳・空爆で標品館の一部が被弾する。山梨県北巨摩郡穂坂村へ疎開・
10月に戻る。
1946年・84歳・牧野植物混混録創刊。
1948年・86歳・皇居に参内、昭和天皇に植物学を進講。趣味の植物誌、続牧野
植物随筆刊。
1949年・87歳・病気で危篤になるが奇跡的に回復する。
1950年・88歳・日本学士院会員となる。図説普通植物検索表刊。
1951年・89歳・第1回文化功労者に選ばれる。文部省に牧野富太郎博士標本保
存委員会ができ標本整理始まる。東京都名誉都民になる。随筆植物一日一題刊。
1954年・92歳・風邪をこじらせ、以降床につくことが多くなる。
1955年・93歳・東京植物同好会が牧野植物同好会として再開。佐川町名誉町民
となる。
1956年・94歳・植物学九十年、牧野富太郎自叙伝刊。
1957年1月18日・亡くなる。文化勲章を授与される。
1958年・高知県立牧野植物園開園。東京都立大学牧野標本館開館。練馬区立牧
野記念庭園開園。

?
●富太郎は独学で植物の知識を学ぶ。22歳の時東京帝国理科大学植物学教室に
出入りを許され植物分類学を研究。生涯に1,500種類以上の植物を発表・収集
標本は40万枚以上・蔵書は約4万5千冊。植物図の名手。植物知識の普及活動
に尽力・牧野日本植物図鑑は今も研究者・愛好者必携の書。植物を知ることの
大切さを子どもから大人にまで広く伝えた。
●押し葉標本は植物を採集し新聞紙に挟み重しをのせ、平らにし乾かして作る。
何時、何処で、誰が採集したかを記録する。生きていた時のように立体的には
ならないいが、ずっと置ける。花が咲いた時・実がついた時、野山にいつも行
けるとは限らず、いつでも花や実が見られるわ けではない。押し葉標本を作れ
ばいつでも見れる。
●富太郎が採集した標本約40万枚は、東京都立大学牧野標本庫に整理・保管さ
れている。高知県立牧野植物園に5,500枚ある。
●日本の植物をまとめた牧野日本植物図鑑は植物の説明と図が書いてある。
富太郎の気持ちを受け継いだ学者が新情報を追加し、今も改訂版が出版されて
いる。図書館・学校にももある。
●富太郎は野山に遊びに出かけ何度も花に会いに行った。日本全国何処へ行っ
ても同じ場所はない。目で見て・耳で聞いて・肌で感じて多くのの事を自然か
ら学んだ。本や図鑑を読み調べる事は大事だが、野山でて実物を見るのが大切。
●5月4日は植物園の日。故郷の植物を守ろうをテーマに活動。私たちの周りは
植物とその産物で溢れている。呼吸に必要な酸素・着るもの・食べるもの・
居住に必要なもの・薬。多くの植物を守り伝える必要がある。
●植物と仲良しの友だちになるには、まずその植物の名前を知ること。富太郎
は植物の名前を覚え沢山の友だちを作った。日本には名前の付いてない友だち
が沢山あり、押し葉標本をつくりよく調べて名前を一つ一つ付けた。
●富太郎の得意は絵をかくこと。皆にどんな植物か教えるときは絵が一番よい。
富太郎は知ろうと思ったときはよく観察して花の仕組み・実の姿をスケッチす
る。富太郎がかいた植物の絵を皆が牧野式植物図と呼ぶ。絵を見ればどんな植
物なのか分かる。
●富太郎が生まれる以前も植物を研究する本草学という学問があった。全国の
薬になる植物・動物をまとめた図鑑があり、図鑑を見て植物への興味が湧いた。
幕末に西洋から日本に植物学が入ってきた。16歳の時富太郎は蘭学者宇田川榕
庵が纏めた西洋植物学の植学啓原を書き写して勉強した。
■以下はhp制作者のメモです。
富太郎が植物の研究を志した18〜20歳の頃に15の勉学の心得・赭鞭一撻しゃ
べんいったつを定めた。赭鞭は赤い鞭。かつて中国の神農が赤い鞭で百草を打
ちその汁の味・薬効を確かめたという。
01耐え忍んで続ける。02精密を心がける。03多くの植物を観察する。04多く
の書籍を読む。05植物学に関連する学科も学ぶ。06洋書を講ずる。07植物画の
描き方を学ぶ。08書物だけでなく先生から学ぶと。09財者は植学者たるを得ず。
10山野に出て実物を観察する。11植物を植え・観察する場所が必要。12植物に
ついて語り合える友をもつ。13他人の言葉に注意して活かす。14書物を全て信
じることなくよく確認する。15不可思議な自然現象を神が作ったととらえるな。