23/6/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
延方量昭師 鉾田市 真宗大谷派 称念寺住職。
■讃歌 親鸞さまはなつかしい(多摩全生園・真宗報恩会)
1 風もないのに ほろほろと 大地の上に 帰りゆく
花を見つめて 涙した 親鸞さまは なつかしい
2 夜はの嵐に 花は散る 人も無常の 風に散る
はかない浮世に 涙した 親鸞さまは なつかしい
3 父さま母さま 失のうて ひとり流転の さびしさに
心のみ親を 探します 親鸞さまは なつかしい
4 慈悲の涙に 目が覚めて 久遠のみ親を 伏し拝み
ほとけのいのち 讃えます 親鸞さまは なつかしい
5 闇にさまよう 我らをば み胸にしっかと 抱きしめ
光に帰れと 示します 親鸞さまは なつかしい
6 貧しきものの 手を取りて 我もさびしき 凡夫ぞと
大地の上に ひれ伏した 親鸞さまは なつかしい
7 嵐いばらじ 踏み越えて ただ真実の 白道を
歩み続けし 我が父の  親鸞さまは なつかしい

■私は多くの人のおかげで今生かされている。私の父と母がいて今私がいる。
父と母にもそれそれれに父と母がいる。その先のご先祖さま。どこまでも遡る
のか。宇宙の起源までか。不可思議なことだ。今生きていること・生かされて
いることは不可思議だ。せっかくいただいた命・大事にしたい。

■研修会に参加した。映画あんを見た後に原作者の話があった。
■映画あんのあらすじ。
あんはあんこのあん。若い頃ハンセン病を発症し、施設に隔離された高齢の女
性トクエさん。外で働きたくなりアルバイト募集のあった街のどら焼き屋さん
で働こうとする。トクエさんの指は曲がっている。
1回目・時給300円ていいからというが店長に断られる。
2回目・時給200円ていいからというが店長に断られる。帰るとき自作のあんこ
を店長にあげる。トクエさが帰った後店長はあんこを食べてみた。味・香りに
驚く・美味しい。
3回目・久しぶりにトクエさんが店長を訪ねる。もしよろしければ手伝ってくれ
ませんかと店長。
トクエさんは翌日よりあんこを作ことになる。どら焼きはあんが命。日の出前
からトクエさんの調理法で2人が力を合わせてあんこを作る。どら焼きは無事
完成した。2人でどら焼きを食べる・美味しい。
2人で作ったどら焼きは近所で評判になっていった。ある日開店すると驚くこと
に、行列ができていた。トクエさんのあんが評判になり、近所の人が詰めかけ
たのだ。2人の顔に笑顔が浮かんだ。
しかしトクエさんはハンセン病患者でないかという噂がおきる。ハンセン病は
一生隔離される病・・・。
どら焼き屋は、お客さんが来なくなってしまった。
トクエさんは店を去る。
トクエさんから手紙が届いた。「迷惑かけてごめんなさい」
店長はトクエさんに会いにいく。
そこは静かで木が生い茂っていた。鳥の声がする。歩いて行くとそこには楽し
そうに談笑する人の姿があった。
トクエさんは施設に兄に連れられてきてもう家族と離れることになってしまっ
たこと・子供を授かったが産めなかったことを話した。
「店長さん。楽しかったです」涙を流す店長さん。
店長さんはトクエさんに、手紙の返事を書いた。
しかしトクエさんは亡くなっていた。
トクエさんは店長に伝言とあん作りの道具を残した。
「私に子供がいたらきっと店長さんぐらいだったでしょうね」

■真宗大谷派酒井義一師はハンセン病に関して言っている。
明治の終わり・ハンセン病隔離政策が行われた・大谷派も協力した。
その後ハンセン病は医療発展により不治の病ではなくなった。
しかし今も全国15のハンセン病療養所で、約2500人が生活している。
2013年・Sさんは親鸞は私の人生の先導者といって亡くなった。
ハンセン病を生きたSさんは大谷派をやめて親鸞の教えに生きた人だった。
1928年・Sさんは関西の真宗門徒の家に生まれた。
子どもの頃・Sさんは寺が遊び場だった。
寺の住職から親鸞は踏みつけられ・しいたげられてきた人々とともに生きだと
聞いて育った。
1947年・Sさんはハンセン病を発病・ハンセン病療養所に隔離された。
 住職はSさんの父よりSさんの隔離を知る。
住職は本山にいき対処方を調べる。
住職はSさんの父と一緒にSさんの隔離施設に行く。
Sさんの姉は2人の子どもを連れて離縁させられる・妹は2回の縁談が破談にな
る。理由はSさんのハンセン病にあった。
誰にも言わずに隔離されたのになぜ知られたか。住職がSさんは祖国浄化・家
族を守るため隔離されたと話したからだ。
住職は大谷派本山の方針に従った・大谷派本山は終生隔離するハンセン病への
国策に協力した。終生隔離は人間であることを奪った。
 親鸞は踏みつけられ苦しむ人々と共に生きた。大谷派本山は親鸞と逆のこと
をやった。Sさんは真宗大谷派を棄てた。
●Sさんの根底にあったのは、住職から学んだ親鸞の姿勢だった。
大谷派は棄てたが親鸞を崇める気持ちは変わらなかった。
人生とは問い続けること・疑いを持てばどこまでも問い続ける。子どもの頃か
ら住職から学んだ生きる姿勢だった。大谷派を棄てたSさんの中に親鸞は生き
ている。
1996年・ハンセン病予防法廃止・大谷派は宗祖の教えにたち帰ると表明した。
Sさんはいう。目の前の人を可愛そうな人として見ることには大きな落とし穴が
ある。相手が救われるべき人に見えてしまうと、私は救う側に立ってしまう。
人は同朋という関係を見失ってしまう。
人間を見失ってしまう隔離政策は親鸞の精神と異なる。
ハンセン病療養所・多磨全生園に伝わる讃歌・親鸞さまはなつかしいの中に生
きる親鸞への想いがある。
●闇にさまよう われらをば み胸にしっかと いだきしめ
光にかえれと しめします 親鸞さまは なつかしい
●嵐いばらじ 踏みこえて ただ真実の 白道を
歩みつづけし わが父の 親鸞さまは なつかしい
讃歌は隔離政策とは反対の親鸞である。親鸞は、人々とともに「光にかえれ」
という呼びかけを聞く親鸞であり、「白道を歩みつづけ」る親鸞である。
 そのような親鸞を「なつかしい」と表現する人がいる。

■人を人として見れなくなる世界を私たちは平気で作ってしまうことがある。
ハンセン病隔離・戦争では相手を鬼畜とみてしまう。このような時親鸞の生き
方に学ぶものがある。本当にこれでよいのか・立ち止まり考え・時には声をあ
げていくことが必要。
■上宮寺山門前掲示板の言葉。
人生は断捨離できない
わたしは積み重なったすべてのご縁の集合体

あらゆるものや出来ごととつながっている
こまったこともまたご縁お与え様です