23/6/1 ひたちなか市 春季文化財講座 水戸藩の海防を巡る。
栗田先生。
■コース。埋蔵文化財調査センター→大洗町幕末と明治の博物館→祝町向洲台
場跡→漁村センター(昼食)→和田の台場跡→助川海防城跡→埋蔵文化財調査セ
ンター。
■大洗町幕末と明治の博物館。
博物館の方に館内を案内いただきました。ありがとうございました。
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1929年・土佐藩士で明治天皇の宮内大臣を勤めた 田中光顕は、
この地に等身大の 明治天皇銅像を安置する聖像殿を建立。
1931年・財団法人常陽明治記念会が創設。
1932年・陳列館を建設、聖像殿とあわせて館の基礎となる。
田中光顕は明治天皇像・御下賜品・幕末の志士や明治の元勲の書画・美術工芸
品を館に寄贈した。 磯浜町は聖像殿用地として現在地を提供した。
1997年・新館を増設し館名を幕末と明治の博物館と変更。
2010年・常陽明治記念会は幕末と明治の博物館を大洗町に寄贈。
町営の大洗町幕末と明治の博物館と変更。
2011年・東日本大震災により聖像殿が被災。
2012年・改築竣工。地元大洗の郷土資料の収集・保存・展示もおこなっている。
館内エントランスに軍艦旭日丸の模型が展示されている。
斉昭は海防のため洋式軍艦の建造を考えた。
1841年・斉昭は軍艦旭日丸の建造を幕府に申請するが、大船建造禁止令により
幕府は却下する。
1853年・大船建造禁止令が解除される。幕府より水戸藩に軍艦旭日丸建造の命
令が下された。
1856年・軍艦旭日丸が完成した。旭日丸は帆船だった。西洋では蒸気船に転換
していた。大船建造禁止令は軍事力を抑止するためぢった。国内沿岸を航行す
る大型船の北前船は商売船のため許されていた。
■祝町向洲台場跡。
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1840年・斉昭は那珂湊和田の台場のみでは海防が不充分と考えた。
1855年・祝町向洲台場の縄張りが行われた。
1863年・7月頃から築造。
1864年・天狗党の 乱で台場から大砲が発射されている。
台場は 太平洋側に正面が向き、西洋の築城技術の影響を受けた亀甲形の平面形
態を持つ。 東西長約92m、南北幅約204m。

■漁村センター(昼食)。
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■和田の台場跡。
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1836年・那珂川河口に和田の台場がつくられた。上の台場と下の台場があった。
1856年・下の台場付近に民家があるため上の台場だけに改造した。
異国船に対し那珂川をはさみ祝町向州台場と併せて左右から打ちかけることを
想定していた。
■助川海防城跡。
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1836年・斉昭は家老山野辺義観を海防総司に任命。助川村の高台に城郭を築い
て居住させ異国船の無断侵入に備えた。城は完成まで5年かかった。総面積は
20余万坪、三の丸・二の丸・本丸があり、本丸に異国船を見張る櫓があった。
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助川海防城は友部・大沼の2海防陣屋、川尻・初崎・河原子・久慈の4台場を
を統括した。
1864年・海防城 は元治甲子の乱で焼失した。
■幕末の水戸藩。斉昭の政策。~
江戸幕府の鎖国政策は家光時代に完成。海岸のある藩に遠見番所を設置し警戒
するよう幕府の命令があった。
1739年・露国船が陸奥・安房・伊豆の沿岸に出没。
1792年・露国ラックスマンが通商を求め日本人漂流民を連れ蝦夷に来航。
1803 年・米国船が貿易を求め長崎に来航。
1808年・英国フェートン号の長崎侵入事件が起きる。
徐々に外国勢力が日本に接近するようになる。
1807年・常陸国近海に異国船が出没。
1821年以降徐々にその数が増える。当時西洋諸国では鯨油をとるため捕鯨が盛
んだった。大西洋の鯨の数が減ると太平洋に進出、最盛期は日本の幕末だった。
捕鯨船の中には、水や食料を求め日本沿岸に接近する船もあった。異国船に接
し異国人と物を交換する領民もいた。水戸藩では領民の行為を憂慮した。
1829年・斉昭が水戸藩主となり藩政改革を進めた。藩政改革に消極的な門閥派
が藩政の中枢を担っていた。斉昭は人事を刷新した。改革派の藤田東湖・ 会沢
正志斎・武田耕雲斎ら下層士族からも人材を登用した。質素倹約を奨励・経界
を正すため検地を行い税制を改革。人材教育のため藩校や郷校を建設。斉昭は
異国はまず通商を求め、宗教を広げ・武力で侵略してくると考えた。斉昭は「攻
めてくるはずの異国からの防衛」を考え軍事力増強に努めた。海岸防備が重要
と考え防備を固めていった。
1638年・幕府は海岸のある藩に異国船監視の遠見番所設置を命じた。
1644年・水戸藩は那珂湊・水木・磯原に遠見番所を設置。異国船警護・東回り
廻船の監視を行った。
当初海岸警備は遠見番所で海防農兵が担当した。斉昭は海岸警備を藩士とし海
防陣屋として強化した。斉昭は台場も築造・海岸防備を強化した。