23/5/28 水戸・歴史学ぶ会 長島尉信と遠来の友。
ネットワーカーとしての役割。長島尉信シリーズ講演会。
仲田昭一先生。
■長島尉信やすのぶ。1781〜1866・新治郡小田村。。
尉信は水戸・土浦で全国各地の人と交流し情報交換していた。
小野寺鳳谷・1809〜1866・仙台・遠来の友。船橋随庵・1795〜1872・関宿・遠
来の友。村上量弘・1819〜1850・筑後国久留米・遠来の友。真木和泉守保臣・
1813〜1864・筑後国久留米。色川三中・1801〜1855・土浦・義兄弟の契り。
観音寺住職康哉・1789〜1832・新治郡下林村。佐久良東雄・1811〜1860・新治
郡下林村・義兄弟の契り。松浦武四郎・1818〜1888・伊勢松坂。加藤桜老・1811
〜1884・笠間。加藤木賞三・1815〜1894・孫根村。池田碩一郎・1806〜・但馬。
大窪詩仏・1767〜1837・多賀郡大久保村。羽田正輔・相馬。島田虎之助・1814
〜1852・豊前小倉。
■小野寺鳳谷。1809〜1866。
1809年・鳳谷は仙台松山藩の農家に生まれた。仙台藩藩校養賢堂の教官となる。
藩校の運営にも関った。産業振興・海防・治世を探究した。詩文・絵画をよく
した。地図は精密に描いた。藩命で西九州〜東蝦夷を歩いた。山海の美悪・民
俗・政治・厚生を視察した。東藩野乗・海防策・西遊諸記・鉱山小誌・北遊日
箋・東海蝦夷海程図・松島図・蝦夷全図・石巻図を作成・藩政に活用された。
鳳谷は水戸・土浦で尉信と会った。1835年・鳳谷は仙台藩医福井道元宅に逗留。
道元宅で尉信の手紙を見て尉信を知る。その後鳳谷は尉信を訪問・2 人は旧友
のようだったと尉信は記した。尉信は鳳谷から茂庭氏の検地・救荒策を聴き筆
記した。尉信は玉造遊記を筆写・鳳谷は尉信より蒲生君平の今書を借り筆写し
た。今書は天下国家・形勢・民情を明快に書いてあり今書を読めたことに感謝
した。鳳谷は尉信を余の資あれば必ず書籍を購うといった。その後2人は手紙
で交信している。1847年・鳳谷は松山藩主茂庭升元に随って孝明天皇の即位式
に上洛。帰国後、地元の羽黒権現に大蛇退治の絵馬を奉納・大蛇を異国船に見
立てた。鳳谷は藩より軍艦製造を命じられた。1849年・鳳谷は土浦の尉信を訪
問。1855年・鳳谷は軍艦製造のため江戸で三浦乾也を招聘した。1856年・松島
に造船所を造る。1857年・軍艦開成丸が進水。開成丸は船長34m・幅8m・高さ
6m・2本マスト・大砲9門・1本マストに縦帆を展張。1857年・開成丸は松島か
ら気仙沼を試験航海、その後2回江戸へ航海した。1859年・鳳谷は尉信に開成
丸成功を手紙で伝える。1866年・亡くなる・57才。鳳谷は尉信の肖像画、水戸
藩の追鳥狩に参加した時のもの・蔵書を後ろに机に座る姿を描いている。
■船橋随庵。1795〜1872。
1795年・随庵は関宿藩に生まれる。関宿藩は利根川と江戸川の分岐点にあり洪
水が多かった。1848年・藩主久世広周が幕府西の丸老中になる。関宿藩は幕府
に治水事業を申請した。随庵は治水事業に従事した。随庵は治水事業を進めた
が、領民に理解されず困った。ある人が尉信が治水事業に精しと教えてくれた。
随庵は尉信を訪ねた。尉信は書籍数巻を示した。随庵は約10日かけて尉信の話
を筆記し書籍数巻を筆写した。尉信は随庵が意志が強く我慢強いことをしる。
随庵が必ず実績を上げることを確信する。随庵は帰郷後、土地制度の書物を読
み研究に努めた。随庵は関宿用水を完成させた。随庵は後に長島尉信の記を書
いた。その中に尉信の学問は1日1万字を基本として筆写に励んだと書かれて
いる。1872年・亡くなる・78才。1895年・船橋随庵先生水土功績之碑。天下の
田をつくるものをして、畝ごとに一穂を貢し、もって蒸嘗に供せしめんとし、
皇室の式微を救済せしめようとするなど尊王心があった。
■村上量弘。1819〜1850。
1819年・量弘は筑後国久留米藩に仕えた家に生まれた。11才・藩校明善堂の助
教となる。17才・藩主有馬頼徳の小姓となり藩主に従い江戸に移る。昌平黌
・松崎慊堂で学ぶ。1842年4月〜1年間・水戸で会沢正志斎の塾に学ぶ。水戸
見聞録を書く。この中に水戸藩の検地を書く・尉信は田畝に詳しく田畝の弊害
を嘆き領主へ申し出た・その後隠居・40歳より読書に励む。制度・律・暦・算
数を学ぶ。量弘は、尉信が水戸を去るとき長島翁の土浦へ帰るを送るの序を記
し・田制において、その一二を知るを得るは、皆翁の賜物なりと感謝している。
その後量弘は東北・北陸諸藩政調査に出発・尉信の水戸別離の日でもあった。
久留米藩は多くの藩士を水戸に遊学させた。
■真木和泉守保臣。1813〜1864。
1844年・久留米水天宮祠官真木和泉守保臣は木村重任が水戸から持ち帰った会
沢正志斎の新論に感激し水戸に出立する。保臣は土浦の尉信を水戸へ行く前に
訪ねる。 保臣は田制・高山彦九郎の遺書の話した。
■色川三中。1801〜1855。
三中は矢田部村の今川伝左衛門の3男・色川家の養子となる・醤油醸造を営む。
三中は経済力を活用し図書収集・筆写に努め・学者・佐久良東雄ら志士の活動
を援助した。三中の敬神尊王の思想は著書田令図解抄に王政復古を説き、片葉
雑記・世事要言に外夷に対し国防の必要・調練の急務を説く。土浦の尉信と三
中は親密で、1833年・尉信は三中と義兄弟の契りを結ぶ。1846年6月・水害時
尉信は色川薬種店に家族で避難・7月水害に再度避難・長期滞在している。
尉信は彰考館から筆写したものを三中に提供・三中が古文書の筆写・収集をす
ることになる。田制・税制史料を中心に収集。三中は諸大名が藩を一国家と考
えた幕藩体制の時に、日本全体を古代以来天皇が統治する単一国家と見る国学
者としての勤王思想家だった。土浦藩を国家と見るのではなく、神ながらのす
めらみくにと見ていた。しかし、佐久良東雄のように尊王攘夷運動に奔走する
ことなく、自分の家業に精進することこそ尊王の道と確信し実践し、家業の益
を農民鉄砲隊育成・勤王運動家援助とした。尉信と三中は尊王思想をもちなが
ら運動に走らなかった。
■観音寺住職康哉。1789〜1832.
新治郡下林村観音寺住職は万葉集を研究・万葉法師と呼ばれた。1825年・ 住職
は真鍋の善応寺に移る・歌道門人は増える。1829年・住職は再び観音寺に戻る。
1831年・尉信は住職を訪ねたが、住職は大和長谷寺へ遊学中で会えず。
1832年2月・住職の病を聞いた尉信は筑波山麓の慶竜寺に移っていた住職を見
舞う。後日、住職は重体のまま観音寺に向かう・途中尉信の家に立ち寄る。
3月・43歳で亡くなる。
■佐久良東雄。1811年〜1860。
1811年・東雄は新治郡浦須村に生まれる。9歳・下林村観音寺に入り住職康哉
の弟子になる。住職は万葉集を研究・東雄は歌人としての力と純粋な精神を養
った。1832年・住職が亡くなり東雄は尉信を頼る。東雄は尉信宅に数日泊まり、
義盟の杯を酌み交わす。1835年・東雄は真鍋の善応寺に移る。尉信・三中・藤
森弘庵・大久保要・桜任蔵・加藤桜老が善応寺の東雄を訪ねる。1836年・東雄
は飢饉の時、蔵書を手放し困窮民を救済する。1840年・光格上皇崩御・東雄は
三中と鹿島神宮神霊慰めに桜苗木千本を献木する。1841年・東雄は三中・尉信
と霞ヶ浦に舟を浮かべ月見をする。1843年・土浦に移った尉信は東雄の還俗の
近いことを知り夏衣・和歌を贈る。東雄は常陸式内社巡りに出る・心境を尉信
に書き送る。東雄は自己の信念を貫くことを選び、行動を別にする三中・尉信
と距離が出てくる。尉信は東雄が残した万葉集和歌抄を保存する。1845年正月・
世は春になりにけらしもあたらしき 衣よそひ着て人のゆきかふと詠み尉信に
送っている。東雄は伊勢神宮参拝後・大坂南繁信の世話で信太大明神神官とし
て3年を過ごす。しばしば京都に行き尊王運動をする。1849年・大坂坐摩宮の
祝部となり和学歌道の指導・出版をする。1859年・東雄は、ひたすらにかみに
いのりてきみにつかへ おやにつかふる ひとのありさま と詠み尉信に送って
いる。ひたすらに尊王運動に邁進している。東雄は 安政の大獄で追われてい
た桜任蔵を保護したが任蔵は病死する。大久保要も安政の大獄に連座・病死。
1860年3 月・桜田門外の変。東雄は高橋多一郎父子を匿った疑いで幕府に逮捕
された。高橋父子は天王寺で自刃した。東雄は大坂から江戸宅に送られた。6月・
東雄は獄中絶食し亡くなる。1863年・安政の大獄・桜田門外の変に連座した人
の水戸へ改葬があった。1864年・尉信の日記。東雄が屍体を寺が懇ろに埋葬し
た。水戸御目付同心に畑弥兵衛がいた。大坂で囚らわれ・自殺した人を弥兵衛
は大坂へ残り調べた。東雄に咎めはない・ただ皇国学に志し疑いをうけ囚われ
亡くなった。・・・尉信は東雄の死を悼むとともに若い弥兵衛に感謝している。
東雄の墓所は土浦市の善応寺に改葬されている。
■松浦武四郎。1818〜1888。
1818年・武四郎は伊勢松坂に生まれる。1845年・東西蝦夷地を探査。1845年・
水戸藩の会沢正志斎を訪ね教えを受ける。1846年・北蝦夷・樺太を探査。1849
年・千島を探査。我が国最初の蝦夷大概図を上梓する。1850年・三航蝦夷日誌
35巻を完成。1853年・水戸藩の加藤木賞三を通して斉昭に会う。武四郎は、当
時の蝦夷通として世上に名を知られていた。1849年・武四郎は尉信を土浦に訪
ね10日ほど逗留し時勢を話した。武四郎について尉信は、身体は小さいが、胆
大き人だ。31歳とのこと。頼もしい人と記し将来性を高く評価し期待していた。
■加藤桜老。1811〜1884。
1811年・桜老は水戸藩士佐藤政祥の子として生まれる。7歳・笠間藩士加藤惣
蔵の養子となる。水戸藩の会沢正志斎・藤田東湖・後に昌平黌に学ぶ。尉信は
子息復平・郁平を尊敬・信頼する桜老に師事させた。桜老は尉信と湊の堀川潜
蔵を常陸の2老翁と尊敬していた。1844年・斉昭が幕府より蟄居謹慎される
・桜老は江戸で雪冤運動に奔走した。 1849年・笠間藩から隠居を命じられ書屋
に入り10余年読書する。その間、長州の高杉晋作が訪ねて来る。1858年・桜老
は京都へ行く途中、土浦で尉信に会う。桜老は心境を3日朝長島翁年78、曳杖
郊外数百歩の外に、筑波山を顧みて、必ず再びと契り、別れをつぐ、心中の名
残思ひやられて憐れなりと書き残している。1863年・長州藩から招かれ萩で6
年間を過ごす。その後藩校明倫館・私塾で教授。明治維新後・京都大学准博士。
その後安房神社・湊川神社の神官になる。1884年・74歳で亡くなる。
■加藤木賞三。1815〜1894。
1815年・賞三は孫根村の名主の家に生まれる。14歳・鈴木武助の農論を読み、
備荒貯蓄に心掛ける。1836年・飢饉に籾100俵・雑穀150俵を差出す・水戸藩
士分となり藩士・他藩士と交流する。1848年・土浦の尉信を訪ね天下情勢・松
浦武四郎について話す。賞三は武四郎について尉信に手紙で、伊勢の生まれで
諸国漫遊を好み、中国・九州・北越・佐渡など旅し土地の古実を探っている。
九州高千穂の峰を調べている。蝦夷地探索もゆき届いている。南朝ひいきで義
気慷慨の人。高山彦九郎・蒲生君平を慕っている。この度も蝦夷へ行き探索を
続ける。今年の冬江戸へ戻ったときに南朝宗良親王の新葉集を再刻するとのこ
と。自分はそれを願っていたが自力では実現できない。武四郎は自分の宿願を
叶えてくれる。自分から尉信のことは話した。今後北行の時に訪ねたいといっ
ていたと書いた。武四郎は蝦夷地往復の途中、尉信を訪ねている。賞三は、廃
藩置県後は茨城県庁に勤め貯穀の仕事をした。退職後は桑栽培・養蚕に励んだ。
1894年・78歳で亡くなる。水戸市神応寺に葬られる。
■池田碩一郎。1806〜
1806年・碩一郎は但馬村岡に生まれる。江戸の湯島聖堂に学び、漢学・詩作・
武技を修めた。水戸の会沢正志斎の塾に学ぶ・藤田東湖とも交流した。
1844年・尉信とともに土浦へ入り、 しばらく尉信の家に逗留。大久保要と尉信
宅で情報交換している。久留米藩の真木保臣が来宅、尉信とともに懇談する。
8月・碩一郎は東北石沢・平泉の視察に出立する。
■大窪詩仏。1767〜1837。
1821年・多賀郡大久保村の詩仏は尉信を訪ねる。尉信の母が病で接待・懇談が
できず、ただ大瓢に詩仏は筆をとり唐人去りて後幾千年 此裏の苦辛誰か識る
を得んと書いた。1835年・土浦を訪ねた詩仏に尉信は、齡69にしてまさに剛健、
都下の人士心服し 老人の書画を請ふもの夥し。実に一盛事と称すべしと記す。
尉信より楠木正成画像に賛を求められた詩仏は、雄略山の如く施すを得ず、湊
川の一戦またなんぞ疑はん、勤王義士知ること多少、ただ有り忠臣楠氏の碑と
詠んだ。1837年春・亡くなる。
■羽田正輔。
1844年・相馬の正輔が尉信を訪問し情報を交換している。
■島田虎之助。1814〜1852。
豊前小倉の虎之助は土浦藩校郁文館の武館の剣道指南、尉信と宿泊を含めしば
しば歓談している。