23/4/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
松岡満優師 富岡市 蓮照寺住職。
[ ]はhp制作者メモ。
■御讃題。
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり。正像末和讃。
[阿弥陀如来が法蔵菩薩の時に48願をたてた。
それは多くの苦悩をもつ私を見捨てないためだった。
阿弥陀如来の功徳を私に与えることを第一に考えられた。
南無阿弥陀仏の名号で私の苦悩を解き放つという大慈悲を完成された。
私の苦悩を何とかしたいという阿弥陀如来の願いは南無阿弥陀仏の名号に込め
られていつも・どこでも私に届けられている。
南無阿弥陀仏の名号は私の口から称えられる]
●●

■歳をとると人生がむなしいという念仏者に会った。
本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし。
というがなぜかむなしい。
[●本願のはたらきにあったならば、もはやいたずらに迷いの生死を過ごす人
はない。宝の海のような功徳が身に満ちみちて、私の煩悩の濁水も往生成仏の
妨げにならない。
本願力を信ずる人は、南無阿弥陀仏の広大な功徳に恵まれる。
煩悩を抱えながらも再び迷いの生死を繰り返さない]
●本願力にあったらむなしくないはずなのにこのむなしさはなんなんだ。
むなしいは私のはからいと思う。私は多分死ぬまでむなしいと思うだろう。
むなしい・むなしいと言って死んでいくと思う。
ただ阿弥陀如来からの想いとしては、あなたがどう思おうと・どう感じようと、
あなたの人生は決して無駄ではないというはたらきかけが届けられている。
しかし煩悩具足の身には人生むなしくなかったとは言えない。
だからこそ逆説的に阿弥陀如来の願いが届けられていると言えるのではないか。
一生懸命生きてもむなしいと感じるのが凡夫である私なのだ。
凡夫である私は煩悩から離れることができない。
●●

●凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、
はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして臨終の一念にいたるまで、
とず、きえず、たえず。一念多念文意。
[凡夫の私の身には無明煩悩が満ちみちて、欲も多く・怒り・腹立ち・嫉み・
妬みの心が起こり命が終わろうとする時まで止まらず・消えることなく絶える
ことがない]
[無明とは真理があることを知らず、何も見えない闇の中にいる状態のこと。
無明であるため私は思い悩み・煩悩が生じる。
煩悩は次から次へと湧き起こってくる。煩悩はなくなることはない]
●そこを目がけてはたらいてくれるのが阿弥陀如来の回向です。
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 
回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり。
阿弥陀如来が法蔵菩薩の時に48願をたてた。
それから長い期間修行され阿弥陀如来になった。
阿弥陀如来の功徳が私の苦悩を取り去ってくれる。
阿弥陀如来は功徳を私に与えることを第一に考えられる。
[阿弥陀如来の本願・必ず救うまかせよといつも私に呼びかけてくれている。
南無阿弥陀仏の名号で、私の苦悩を解き放つという大慈悲を完成された。
阿弥陀如来は私の苦悩を何とかしたいという願いを南無阿弥陀仏の名号に込め
て私に届けてくれる。南無阿弥陀仏の名号は私の口から称えられる]
●●

●曽我量深先生は宗教は情緒であると言っている。
情緒は想い・その人に対する心であり想いである。そういったことが大事。
情があるから悩み苦しむ。あれもつまらない。これもつまらない。
しかしそれを粛々と受け入れるしかない。
●米沢英雄さんは、南無阿弥陀仏は自分の宿業を引き受けたという領収書であ
るという。
[医師・米沢英雄さんの話。
子ども2人が難病にかかった若い奥さんへの米沢さんの話。
私の息を出入りさせているものは私の力ではない。
医学はこれを自律神経ということで説明しただけ。
私が息をしている事実は不思議というほかはない。
貴方が個人的な意志や願いにそわないお子さんを持たれていることも、不思議
といわざるをえない。
これは厳粛な事実としかいえない。
どうしてなのか、理由は私たちにはわからない。
仏教ではこれを宿業という。
私たちは、私たちを生死させている大きな力の前では無力です。
私たちに出来ることは、その宿業を身に引き受けて力いっぱい、生き抜かせて
いただくという、謙虚な態度だけです。
真実の信心というのは、これ以外はありますまい。
与えられたものを宿業として、これは逃れられないのです。
身に引き受けて、生き抜かせていただく。
この生き抜く力も私たちには、不思議に与えられています。
私たちはこの力を見くびっているようです。
何か外の力、他人を頼り、すがると、なんとかなると思っている。
そして、右往左往する、これを迷いと言うのです。
自分が自分であることに満足すること、南無阿弥陀仏ということは、宿業を引
き受けた、自分を自分として引き受けたことではないか。
南無阿弥陀仏は自分を引き受けた、確かにいただきましたという領収書です]
●強く明るく生き抜く。しかしなかなかうまくいかない。
まさかがおきる。次々と欲望がおきる。
凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、
はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして臨終の一念にいたるまで、
とどまらず、きえず、たえず。
常にいただいて強く明るくいきぬくしかない。
●仏智満入。
[仏智とは、弥陀のたすけるぞの仰せのこと。その仰せをいただいたのが
仏智満入。仏智とは南無阿弥陀仏であり、その名号をいただいたのが仏智満入]
●独生独死 独去独来。
[仏説無量寿経の中に書かれている。人は結局は独りで生まれ・独りで死んで
いかねばならない。
生きている時に多くの人や物と出遭っても一人で死んでいく・根本的には人は
孤独なのだと釈尊はいう]
●慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、
かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、き
はめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈
大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、い
かにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始
終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと
[云々]。[歎異抄 第4条]
[慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがある。
聖道門の慈悲とは、すべてのものを哀れみ、いとおしみ、はぐくむことだが、
思いのままに救いとげることは、極めて難しい。
浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、大慈悲の心で、思いのままに
すべてのものを救うことをいう。
この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思い
のままに救うことはできない、このような慈悲は完全なものではない。
ただ念仏することだけが本当に徹底した大慈悲心なのだと親鸞聖人はいった]
●●

■御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候ふ。そのゆえは、
もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力とし
て、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を一念発起入正定聚と釈し、
そのうえの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころ
うべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
■上宮寺山門前掲示板の言葉。
身を削り 人をば救う すりこぎの その味知れる 人ぞ尊き。
●すりこぎとはすり鉢の棒。自らの身をけずり人のために料理を作るはたらき
をして下さる、そんな働きをなさっている人を尊い人というのでしょうか。
そういう人に手の合さる人を尊い人というのでしょうか。意味深です。合掌
■以下はhp制作者メモです。
■歎異抄(九)
唯円「念仏していても大きな喜びの心が湧いこない・またはやく浄土に往生し
たいという心も起こってこない。どう考えたらよいでしょうか」
親鸞「私もなぜだろうかと思っていた。唯円も同じ心だったのか。
よく考えると、ますます往生は間違いないと思う。
喜ぶはずの心が抑えられて喜べないのは煩悩のしわざです。
そうした私どもであることを阿弥陀如来ははじめから知っているのだ。
煩悩を身にそなえた凡夫であると知っている。
本願はこのような私どものために、大慈悲の心でおこされたのだ・ますます頼
もしく思われる。
浄土にはやく往生したいという心がおこらず、少しでも病気にかかると、死ぬ
のではないかと心細く思うのも煩悩のせいだ。
私は果てしなく遠い昔からこれまで生れ変り死に変りし続けてきた。
苦悩に満ちたこの迷いの世界は捨てがたい。
まだ生れたことのない安らかなさとりの世界に心ひかれないのは煩悩のためだ。
この世の縁が尽き命を終える時浄土に往生させてもらう。
はやく往生したいという心のない私を阿弥陀如来は哀れに思ってくれる。
法蔵菩薩が大慈悲の心で起した本願はますます頼もしく、往生は間違いないと
思う。
大きな喜びの心が湧きおこり・はやく浄土に往生したい思うなら、煩悩がない
のだろうかときっと疑わしく思われる」