23/3/29 水戸・歴史に学ぶ会春季移動講座・中世の豪族結城氏を追って。
■コース。一乗院⇒乗国寺⇒慈眼寺⇒結城城⇒昼食⇒水戸御殿⇒称名寺⇒
一乗院。
■乗国寺。住職さまにいろいろと説明いただいた。

見龍山覚心院乗国寺寺。曹洞宗。結城家の菩提所。
1449年・三国山福厳寺として開山。12代結城持朝の開基。
三国山は下野・下総・常陸三国の境界を意味する。
福厳寺は鬼怒川と田川に挟まれ度々洪水があった。
1479年・大洪水で伽藍を失う。結城家14代氏広は現在地に寺を移転。
見龍山覚心院乗国寺と改称した。以後、結城家の位牌所として確立。
徳川秀康が結城家の養子となり徳川幕府より御朱印約61石の寺領を賜る。

■慈眼寺跡。
慈眼院跡地に結城家歴代城主の墓がある。

■結城城跡。





●結城城の歴史。
1168年・結城朝光は下野国小山政光の子として誕生。母は源頼朝の乳母寒河尼。
1180年・頼朝を烏帽子親として元服。小山七郎宗朝と名のるが後に朝光と改名。
1183年・志田義広の反乱鎮圧の功で下総国結城郡の地頭となり結城氏を名乗る。
1438年・足利持氏と上杉憲実が対立し持氏は敗れる。
1439年・持氏と嫡子義久は自刃。持氏の次男春王丸・3男安王丸・4男永寿王丸
が結城城に逃れる。
1440年・武蔵・上野・信濃の幕府軍は結城城・古河城・関宿城を攻撃。
1441年・春王丸・安王丸は捕まる。氏朝・一族は城外で自刃、結城城は陥落。
結城合戦。氏朝の末子七郎は佐竹義憲に庇護された。持氏の遺児は京に護送さ
れ春王丸・安王丸は美濃で斬殺。永寿王丸は助かる。
1447年・永寿王丸は鎌倉公方足利成氏として復活。結城七郎は結城成朝として
結城氏を再興。
1454年・結城成朝らが上杉憲忠を襲撃・殺害。
1455年・足利成氏は古河に移り古河公方となる。
1457年頃・結城成朝は成氏とともに戦う。
1471年・成氏は古河城を長尾景信に攻め陥とされ下総佐倉城に避難。
1472年・結城氏広、烏山城那須資持らが古河城を奪還。
1499年・結城政朝は多賀谷和泉守の居館を急襲し誅殺した。
1514年・政朝は宇都宮忠綱と戦い忠綱は鹿沼城に逃れた。
1534年・結城・下妻城多賀谷は敵対する。
1537年・多賀谷・小田連合軍は結城城を攻撃、結城政勝は古河城足利晴氏、下
野祇園城小山高朝の援軍を得て反撃、和睦した。
1539年・政勝は宇都宮俊綱を攻める。
1548年・下館城水谷治持・真壁城真壁氏幹は結城勢と同盟、下妻城多賀谷重政
を攻め重政は降伏。
1555年・結城連合軍と小田勢の戦で小田氏治は小田城を陥され土浦城に撤退。
1560年・下妻城多賀谷政経が離反、小田氏治・佐竹義昭・宇都宮広綱らが結城
城を攻撃、古河公方の調停で和睦。越後長尾景虎の関東出陣、小山高朝・山川
氏重・多賀谷政広・水谷勝俊ら結城勢も景虎軍に参じた。
1563年・上杉謙信の関東出陣、謙信は祇園城小山秀綱を攻め秀綱は降伏開城。
1564年・謙信が越後に帰る。北条氏政は祇園城小山秀綱を攻撃、秀綱は逃げる。
1590年・小田原の役後、結城家は徳川家康の次男秀康を養子として迎えた。
秀康は結城城に入り、秀吉から10万1千石を安堵された。
1601年・関ケ原の戦いの後、秀康は越前に移封となり、結城城は廃城となる。
1700年・能登より水野勝長が1万8千石で封じられ結城城は再興、結城藩の藩
庁が置かれた。
戊辰戦争のとき佐幕派が城を占拠、新政府軍の攻撃で城は多くを焼失。
現在は城跡歴史公園となっている。
■昼食
結城つむぎセンター。

■水戸館跡・江戸重道之碑。

江戸重道は水戸城を居城としていた。本丸は江戸氏の居城・二の丸は一族重臣
の屋敷地・市が設けられたという。
1590年・佐竹義宣は秀吉から常陸国を安堵され、江戸重道に水戸城の譲渡を要
求する。これを重道は拒否した。義宣は水戸城を攻撃し落城させた。
重道の妻は結城家より嫁いでいた・重道は晴朝のもとへ逃れ結城で亡くなった。
■三国三公頌徳碑。江戸重道之碑が右にある。

碑の高さ約4m。下野・下総・常陸三国に縁のある平貞盛・藤原秀郷・結城朝光の
ことが書かれている。
平貞盛・藤原秀郷は協力して平将門を討った。結城朝光は結城氏初代当主。
碑の題字を榎本武揚が書いている。
■称名寺

新居山称名寺。 浄土真宗本願寺派。
結城家初代朝光が真仏を開基として建立。真仏は常陸の豪族平国香の血をひく。
境内に朝光の墓があり、この墓に2代朝広・3代広網・4代時広も納められている。
住職さまより寺の歴史・宝物について説明があった。
また、親鸞聖人について話しがあった。青蓮院での得度の様子・比叡山延暦寺
での修行・悩み・比叡山麓で仏に救いを求める女性に「なぜ女性は山にはいれ
ないのか」を問われ誰もが救われるにはどうすればよいのかを考える。吉水の
草庵の法然上人の説く念仏の教えに出会い、法然上人の弟子となる。念仏弾圧
により越後へ流罪・関東へ念仏の教えをひろめる。