23/3/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
合群信哉師 栃木県益子町 清浄寺住職。
[ ]はhp制作者メモ。
■御讃題。
南無阿弥陀仏 「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声
私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ 「そのまま救う」が弥陀のよび声
ありがとう といただいて この愚身をまかす 
このままで 救い取られる 自然の浄土
仏恩報謝の お念仏 これもひとえに
宗祖親鸞聖人と法灯を伝承された 歴代宗主の尊いお導きに よるものです
み教おしえを依りどころに生きる者となり 
少しずつ 執らわれの心を 離れます
生かされていることに 感謝して むさぼり いかりに 流されず
穏やかな顔と 優しい言葉 喜びも 悲しみも 分かち合い
日々に 精一杯 つとめます
[御讃題は新しい領解文。浄土真宗本願寺派は、2023年1月に門主より、新しい
領解文が発表された。時代にあった言葉で表現したとされる」
●●

●南無阿弥陀仏・これは正信偈の最初・帰命無量寿如来・南無不可思議光とい
うこと。
●法蔵菩薩はよりよい浄土をつくろうとした。
●48の願を立て阿弥陀如来になった。
●18願には阿弥陀如来の名号を称えれば誰もが浄土に往生できるとなっている。
南無阿弥陀仏が阿弥陀如来の名号。
●仏教の教えに、諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教ということばがあ
る。悪いことをせず・善いことをしなさい・そして自分の心を清らかにする
・これが釈尊の教え。
●しかし私たちは善いことができない。この末法の世。心のなかには善いこと
がうかんでこない。
●悪人正機。
[阿弥陀如来の本願は罪深い悪人を救済することであり、悪人こそ阿弥陀如来の
教えを聞いて悟りを得る能力・資質を備え、往生するにふさわしい者であると
いうこと]
●正信偈は教行信証の一部。親鸞聖人は亡くなるまで教行信証の見直しをおこ
なっていた。
●教行信証にアジャセ王のはなしが書かれている。父を殺し王位を奪った極悪
非道のアジャセが救われるのが涅槃経に書かれている。何故アジャセが救われ
るのか。
[善人でさえ浄土に往生することができる。まして悪人はいうまでもない。自力
で修めた善により往生しようとする人は、一途に本願のはたらきを信じる心が
欠けている、阿弥陀如来の本願にかなっていない。
煩悩をもつ私は、迷いの世界にいる。阿弥陀如来は、そんな私を哀れみ本願を
おこした、それは私のような悪人を救い仏にするためだ]
法然上人は悪人と云わず愚者といった。
親鸞聖人の生きた鎌倉時代は、ひにんといわれる人がいた。[ひにんは悪人とい
われた] ひにんは魚をとる人・狩りをするひと・行商をする人のことをいった。
真宗の教えはただ念仏すればよい。
しかし私は他のこともやりたくなる。
悪人は藁をもつかもうとする一途な気持ちで念仏する。そこに迷いがない。
阿弥陀如来の本願にかなっている。
●念仏弾圧・念仏者が増えてくると延暦寺などは朝廷に訴えるが朝廷は動かな
い。後鳥羽上皇が吉野巡幸にいったとき朝廷に仕える2人の女官が念仏をして
いるところにいき泊まった。後鳥羽上皇はこれを知り念仏を弾圧した。
法然上人は四国・親鸞聖人は越後に流罪。
●悪人であっても救われるということから悪事を働く人が増えてきたことが念
仏弾圧の背景にあったようだ。
[親鸞聖人は関東の門徒に手紙で「いくら薬があるからといって、好きこのんで
毒を飲むものではない」と書いて、誤った考えの門徒にやめさせるため何回も
手紙をだした]
70才になった親鸞聖人は長男の善鸞を関東に派遣するがダメだった。
●造悪無礙ぞうあくむげ。
[悪を造っても往生の障りとはならないから、悪業を控える必要はないとする考
え方。浄土教を曲解したもので大きな誤り。法然上人は七箇条制誡で厳しく戒
めている。また、造悪無礙の考え方は親鸞門下の関東地方の一部で流行した]
●[親鸞聖人は私たちは煩悩をもった凡夫である。この世は燃えさかる家のよう
にたちまちに移り変わる世界である。すべては偽りで、真実といえるものは何
一つない。ただ念仏だけが真実なのだ」といった]
●聴聞が大切。
聞は念仏すること。南無阿弥陀仏の名号を聞く。
ダウン症の女の子、じいさんの死を受け入れら利なかった。13回忌のときにな
んとなくわかってきた。じいさんの声をききたい。念仏を一緒にとなえた。で
もじいさんの声は聞こえない。3回目も同じ。自分の声はきこえる。それは阿
弥陀如来の声でありじいさんの声。女の子は「何をいっているかわからない」
しかし念仏とはこのようなもの。
●二河白道。
釈尊は東の岸から大丈夫渡れる。阿弥陀如来は西の岸から大丈夫そのままこ
い・それが弥陀の称号・弥陀の呼び声。
●本願招喚の勅命。
[衆生に帰せよと命じる阿弥陀如来のよび声。衆生に対して「帰せよ」と命じる
如来のよび声のこと。摂取して衆生を必ず救うという仏意を表す。「帰命は本願
招喚の勅命なり」と]
●私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつなり。
死ぬまで煩悩をもつ私は阿弥陀如来の誓願の不可思議なはたらきに救ってもら
い、浄土に往生する。阿弥陀如来は摂め取り捨てない。
阿弥陀如来の本願はだれもをわけへだてない。
ただ、本願を聞きひらく信心がかなめであると心得なければならない。
●機法一体ということばがある。機は衆生の信心、法は阿弥陀如来が衆生を救
う力・はたらきのこと。両者は一つであって異なるものではないという。
[如上人は御文章で、南無は衆生の阿弥陀仏を信ずる機。
阿弥陀仏の4文字は、弥陀如来の衆生をたすける法。
機法一体の南無阿弥陀仏といえる。と、衆生の「信心」(機) と阿弥陀仏が衆生
を救う力・はたらき (法) とは別のものではないといっている]
●四苦八苦。    
四苦、生・老・病・死の4つの苦しみ。
八苦は四苦に愛別離苦・愛するものと別れる苦しみ、怨憎会苦・憎むものと出
会う苦しみ、求不得苦・求めても得られない苦しみ、五陰盛苦・心身の苦痛を
加えたもの。四苦八苦で、ありとあらゆる苦しみのこと。四苦八苦からのがれ
ようとする煩悩をもつ。
●聖道門は煩悩を消してさとりを得ようとする。しかし、親鸞聖人は延暦寺で
の修行でどうしても煩悩を消せないことを体験する。
●自然じねんの浄土。
[親鸞聖人の手紙に「自然というは もとより しからしむるという言葉なり」
とある。自然は阿弥陀如来のはたらき。自然は、私の意識を超えて、もともと
そう仕向けられている。私の口から南無阿弥陀仏と名号がこぼれ出てくださる
のは、私の思いより先に、阿弥陀如来の願いに仕向けられていた]
●●

■御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候ふ。そのゆえは、
もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力とし
て、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を一念発起入正定聚と釈し、
そのうえの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころ
うべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
■上宮寺山門前掲示板の言葉。
 他人と過去は変えられないが自分と未来は変えられる。 

どんな自分と未来を想像し創造していきますか?
そこにお念仏がありますか? 合掌