23/3/12 那珂市本米崎 上宮寺永代経法要 真宗本願寺派。
安間秀常師・山口県。
[ ]はhp制作者メモです。
■ご讃題。
煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらしたもう。
[高僧和讃・源信讃・私の眼は煩悩の雲霧に覆われている。しかし阿弥陀如来の
大悲は私の煩悩に関係なくいつも私を照らしてくださる]
●●

■先祖を大事にしないと罰が当たるというが本当か。ご参詣のかたもいずれご
先祖になる。そのとき大切な子ども・可愛い孫を罰するか。罰したりしない。
子どもや孫の幸せをつねに願うはず。それが親というもの。阿弥陀如来も同じ。
どうしようもない私たち凡夫を罰したりしない。いつも見守って下さる。仏縁
をいただけば自然と私の口から南無阿弥陀仏の感謝の念仏を称えられるもの。
そして自然と両手があわさるもの。
■煩悩を捨てられない私たち。
●木村無相さんは自動式エレベータという詩を書いている。私の心はエレベー
タ、いつも休むことなく私の心は動いている。ある時はいかりの階・ある時は
そねみの階・ある時はねたみの階と上に行ったり下に行ったり・休むことなく
動いている。それが私の心と言っている。
●親鸞聖人は 凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、
いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念に
いたるまでとどまらず、きえず、たえずと。
[私の煩悩は生きている間は消えることかにないようだ]
●コロナよりこわかった.のは人間だった。
ということばがある。人間はしぶとい。
●給料が上がればよい。年金が上がればよいなどと考える。
●私が20年間山にこもって修行したとする。その時私は他の人とは違うと思い
相手を見くだすかもしれない。邪見驕慢の心が起きてくるのが私。
■三毒五欲の煩悩という。
●三毒とは、
貪欲・むさぼり。瞋恚しんに・いかり。愚痴ぐち・おろかさ。をいう。
●五欲とは、
財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲。をいう。
●貪欲。欲しい欲しい車が欲しい。
●いかり。足袋を間違えられいかる。
●愚痴。しまった・しまった・なぜ**した。
●財産欲。新しいものが欲しい。
●色欲。男女の関係。
●名誉欲。名刺の肩書き。
●食欲。よく食べる。
●睡眠欲。眠たい。
●自力の宗教は何とか煩悩・三毒五欲をとりさろうとする。でも煩悩は捨てが
たい。
■一休さんと蓮如さんのはなし・曲がった松。
一休さんと蓮如さんは同時代に生きた人。ある道に曲がった松があった。
そこに一休さんが立て札を立てた。「この松をまっすぐに見た人にお金をあげる。
一休」道を通る人はいろいろと見方を試みるが松はまっすぐに見えない。
そこに蓮如さんがきた。立て札を見るなり「まっすぐに見た」といって一休さ
んのところに行った。
蓮如さんは一休さんにいった。「私は曲がった松だと真っ直ぐに正しく見た」
一休さんと蓮如さんは顔を見合わせて大笑いした。しかし、一休さんは蓮如さ
んにお金をあげなかった。立て札の裏に「本願寺の蓮如だけは除く」と書かれ
てあった。
一休さんは自分でさえ真っ直ぐに見れるのだから蓮如さんなら見れるはずと考
えていた。
日頃から私は曲がった根性をしているのに、私以上に素直な者はいない、立派
な者はいないと曲がった見方をしている。正しく松を見ることはできない。
一休さんと蓮如さんは、曲がった松は曲がったように見えるところに正しさが
あるといっている。阿弥陀如来は私を曲がった松と見る。
人の悪いところを非難するが、自分の悪いところは何かと理由をつけ正当化す
るのが私。集合写真をとれば最初に自分を探して見る私。私が一番かわいいの
が私。
親鸞聖人はいくら修行しても煩悩は捨てられないことを知った。
私がそむいてもそむいてもその私を救おうとしてくださるのが阿弥陀如来の本
願。
■東井義雄先生の本に書いてあったはなし。
三重県で2週間の全国花嫁講座があり、岐阜県のはなこさんが参加した。
研修の終わりの前日、はなこさんは修了終了後3時間研修会場に残りたいとい
った。研修会場のひとは理由を聞いた。はなこさんはいった。
小学生のとき母が亡くなった。その後継母が嫁いできた。
はなこさんはどうしても継母をおかあさんと呼べなかった。
10年間継母をあんたと呼んできた。
継母にとってはつらい言葉だったにちがいない。
研修終了に継母をおかあさんと呼んでみたい。
明るいところで継母を見ておかあさんと呼ぶのははずかしい。
夕方になり暗くなった台所で継母をおかあさんと呼んでみたい。
3時間遅く帰れば家に着くのが夕方になる。
研修会場に3時間残ることを許され家に帰った。
駅に着き改札口を出て驚いた。そこに継母が待っていてくれた。
友達は3時間前に帰ってきていた。はなこさんの帰りが遅いので継母は駅で3
時間待っていたのだった。
はなこさんと継母は荷物を一緒に持って田んぼのあぜ道を並んで歩いた。
その時はなこさんの口からおかあさんということばがでた。
継母は思わず立ち止まった。継母の眼からは涙が流れていた。
継母は家に帰り仏壇の前に座り線香をたて亡きはなみさんの母に報告した。
継母はいった。いたらぬ私でした。いたらぬ私を今日はなこさんがおかあさん
と呼んでくれました。ありがとうございました。
はなこさんは継母に10年間も意地をはりつづけた。
そんなはなこさんを継母は見捨てることなく深い慈悲を持って見守っていて
くれていたのだった。
はなこさんは継母にただただお礼のことばしかうかなかった。
[阿弥陀如来は煩悩にまみれた私を見捨てることなく必ず救うまかせよと南無
阿弥陀仏の御名となりたえず私によびかけてくださる。ありがたいことである。
なんまん・なんまんありがとう。
永代経法要はご先祖を偲び、またご先祖が私をいつも見守っていることを再認
識する日なのかもしれない。
阿弥陀如来に救っていただく事を知る日でもある]
●●

■御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候ふ。そのゆえは、
もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力とし
て、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を一念発起入正定聚と釈し、
そのうえの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころ
うべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
■上宮寺山門前掲示板の言葉。
 他人と過去は変えられないが自分と未来は変えられる。 

どんな自分と未来を想像し創造していきますか?
そこにお念仏がありますか? 合掌