23/3/5 水戸・ 歴史に学ぶ会 久慈川の水運。
高村恵美先生。
■水戸藩領の水運。
●東北地方・北関東の年貢米・廻米・荷物は、那珂川・久慈川より那珂川河口
付近へ運び、涸沼・涸沼川・陸送・北浦・霞ヶ浦・利根川を経由し江戸へ運ぶ
内川廻しを利用しだ。
●那珂湊は東廻り廻漕蕗として利用された。
●那珂川は上流域へ干鰯を運び・上流域から木材を運んだ。下野国では流通機
構や河岸業が成熟した。那珂川は内川廻し・東廻り海運に直結した。
●久慈川は、久慈浜で太平洋に注ぐ。内川廻し路には直結しない。
●奥州・棚倉・塙・保内郷の年貢米・廻米・楮・蒟蒻は、久慈川や那珂川の河
岸への陸送区間を挟み江戸へ運んだ。久慈川の利用が望まれ続けたが、急流で
大岩が点在し渇水期は水運が困難になった。
●●01
●久慈川は奥州南部棚倉〜水戸藩領北西部を流れ、瓜連あたりで東流し太平洋
に注ぐ。源流は八溝山・標高1,022mの北麓。総延長124km。流域面積1,490 km2。
支流 52。山方での流量は豊水期24u3/S・渇水期6m3/S。河床勾配は上流 源
流〜矢祭橋・1/20〜1/200。中流 矢祭橋〜岩井橋1/40〜1/900。下流 岩井橋〜
河口1/700〜1/2000。
●那珂川は下野北部の那須岳〜下野東部を南流、中流部〜南東に流れ常陸に入
り那珂湊と大洗の間を通り太平洋に注ぐ。源流は茶臼岳・標高1,915m。
総延長 150km。流域面積 3,270km2。支流176。野口での流量・豊水期81m3/S・
渇水期23m3/S。河床勾配は上流 那須岳〜川合流点1/80〜1/300。中流 川合流
点〜城里町上泉 1/30〜1/770。下流 城里町上泉〜河口 1/1000〜1/7000。
●久慈川は那珂川に比べ勾配が急で水量は少なく1/4。
●久慈川河口の直線化。
1648年頃・下土木内村〜下流では大きく蛇行していた。
1696年・下土木内村より下流がほぼ直線化している。
1975年・洪水を配慮し茂宮川が久慈川と合流しないように付け替える。
●久慈川下流部を直線化したが最下流部は水運に利用されない。
●●02
●難所の多い南郷道にほぼ並行して久慈川が流れ、多くの舟渡で南郷道に連絡
していた。下野宮より下流は舟運が行われた。上岩瀬より下流の河岸の記述は
ない。
●上流部・陸奥国の水運。
1658年・棚倉町検断により久慈川通船の目論見書提出される。
1674年・大原源右衛門が棚倉藩から久慈川舟運事業を許可され1679〜1723年に
通船された。
1681〜1688年・寺山河岸以南に通船。
1686年・岡村治兵衛が通船事業を願い出許可を得る。寺山河岸〜下野宮河岸間。
1687年・洪水により寺山河岸の船16艘が流失する。
1723年・洪水により川筋大破・道具流失、河岸守が棚倉藩に300両拝借願いす
るが藩主所替えのため借りられず。
1769年・棚倉城下町人幸七が1723年の洪水以後中断の通船再開を訴える。
台宿河岸に代えて八槻か寺山へ河岸立てを提案する。
1790年・塙流域村が通船積金拝借願い⇒村に河岸と船を作りたい⇒この時点で
下野
1819年・川下村重郎次が下野宮以北への通船願い。
1841年・水戸藩より通船許可。
1842年・塙代官所役人が久慈川の井堰・水門を見分する。
真名畑村茂左衛門が下野宮以南の河岸と小野・水戸・海老沢・吉影の運賃調査。
●久慈川上流部の南奥州で1658年頃〜1840年頃まで通船計画が続けられたが安
定した通船にならなかった。
●中下流部・水戸藩領の水運。
1693年・部垂村高和田河岸大賀家が河岸役銭を納め御城米川岸を自称する。
1704年〜1705年・下野宮〜大子間は陸送。
1709年以後・棚倉米は下野宮より水運で高和田河岸に運ばれ、
高和田河岸から那珂川の小野河岸へ陸送し小野河岸〜那珂川で運んだ。
●17世紀末〜18世紀初・久慈川中流・下流部では河岸や通船路が整備され、
陸送を挟み那珂川の河岸へ運んだ。
●●03
●久慈川の各河岸は重複しない営業範囲・営業範囲の中なら河岸場でなくても
荷の積み下ろしを行う⇒特権的に津役銭を得る権利を認めるよう藩に願う。
新興河岸の出現に対抗した。
●河岸場・所在(現在地名)・備考。
寺山・寺山村(棚倉町)・開設したか不明。台宿・台宿村(塙町)・開設したか不
明。落合・台宿村(塙町)・台宿河岸の代替河岸。下野宮・下野宮村(大子町)。
矢田・矢田村(大子町)。大子・大子村(大子町)。山造・下津原村(大子町)。頃
藤・頃藤村(大子町)。山方・山方村(常陸大宮市)。高和田・部垂村(常陸大宮市)。
上岩瀬・上岩瀬村(常陸大宮市)。門部・ 門部村(那珂市)。
●河岸には雇船乗りがいた。
●門部河岸は久慈川最下流の河岸。1802年・河岸として許可されず。
門部村三衛門が河岸願のため河岸役銭を納入。年1貫文上納と引換えに荷受け
を承諾される。年貢米・廻米は扱えなかった。
北浜筋から送られる干鰯・千粕を小野河岸や小場河岸へ陸送した。
●門部村流域は砂目土地で洪水の度に耕作地を減らした。川除普請が頻繁に行
われた。1700年頃以後・河口の浅瀬化が進んだ。通船に不向きだった。
●●04
■廻漕蕗。
●山方河岸・高和田河岸・上岩瀬河岸〜那珂川の河岸に陸送⇒内川廻しで江戸
方面へ運ぶ。
●大子の年貢米を那珂川の久那瀬河岸へ陸送⇒内川廻しで江戸へ運ぶ。
●生瀬の年貢米を天下野街道で那珂川の下江戸河岸へ運ぶ⇒内川廻しで江戸へ
運ぶ。
●年貢米を棚倉道で徳田宿に運び更に枝川河岸へ陸送⇒内川廻しで江戸へ運ぶ。
●金沢・守谷から山方河岸へ陸送、更に那珂川河岸へ陸送⇒内川廻しで江戸へ
運ぶ。
●大子地方から直接那珂川河岸へ陸送⇒内川廻しで江戸へ運ぶ。
●奥州南部から棚倉道経由で那珂川河口部に運ぶ⇒内川廻しで江戸へ運ぶ。
●不安定な河川環境から輸送の安全を確保するため、多様な輸送路を考えた。
●●05
●久慈川の河岸守は各河岸に1軒あった。舟数は河岸により異なり・舟乗もい
た。河岸守は津役銭・舟役銭を上納する。河岸の船で営業。営業範囲は川の両
岸または川の片側。隣り合う河岸と持前を規定し競合を避け利益を分配した。
●久慈川の河岸守は村役人を務める旧家が就任。営業範囲を決め利益を分配・
秩序化した組織だった。
●●06
●久慈川水運の困難さ。
久慈川上流部は川幅が狭く急流で年貢米輸送船の破船が心配だった。
恒常的な流路整備が必要とされた。
渇水期の年貢米輸送の遅れが懸念された。
漁具が通船の支障になった。
1649年・辰ノロ江堰通水。1650年・岩崎江堰通水。藩は江堰維持のため高和田
河岸〜山方河岸での荷揚げを指示。江堰優先は塙でも同し。
●水量が少ないため、水運と漁業・農業用水との対立があった。
●●07
●新河岸開設に伴う対立。
1720年・上岩瀬村伝右衛門の新河岸取立。
1830年頃・西野内村平五郎が新河岸取立願いをするが、山方河岸は山方河岸持
前の理由で藩に廃止願い⇒藩は津役銭上納と引き換えに新河岸を排除した。
1849年・頃藤村〜野上村・小貫村への蒟蒻荷が山方河岸を通さずに積み下ろさ
れ津役銭不払いだった。前年にも小貫村に荷下ろしを要求したが、頃藤河岸守
が拒否した。山方河岸守は河岸以外の地での積み下ろしを拒否・藩に訴えた。
山方河岸への荷下げで決着した。
●新河岸の台頭と特権河岸との対立⇒特権河岸が利権維持をはかる。
●●08
●額田運河開削計画。
1700年頃・水戸藩は大日本史編纂・文化事業で財政が窮乏し武士の困窮・農村
が荒廃した。1700年・領内の富民 153人に御用金が命じられた。
1706年から財政建直しのため宝永改革が始まり、1709年に中止された。
宝永改革は松波勘十郎を中心に進められ、農民生活規制強化・年貢増徴・新川
掘り・大貫運河、 紅葉運河の開削などが実施された。久慈川と那珂川を運河で
結ぶことも計画された。
松波勘十郎は美濃国の庄屋の家に生まれ美濃・三河賀茂郡の検地役人だった。
同時期に棚倉藩・備後国三次藩・大和郡山藩の財政立て直しを請負った。
水戸藩には招かれてきた。
●久慈川と那珂川を結ぶ額田運河は、額田で里川と久慈川の合流点〜額田城低
地〜向山〜横堀〜菅谷宮の池公園〜早戸川〜枝川のように考えられるか?
どこまで工事が進んでいたのかは不明。
1708年・農民に負担を強いる改革に対して宝永一揆が起きる。直接のきっかけ
は新川掘りでの日雇銭不払い・延べ130〜140 万人を動員。
1709年正月・守山藩主を通して江戸藩邸に越訴され、松波父子は追放され改革
は中止された。
■久慈川は那珂川への接続線にとどまらない地域の経済基盤として、
地域社会への影響を持ち続けた。