23/2/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
山名義一師 船橋市 了源寺住職。
[ ]はhp制作者メモ。
■御讃題。
煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと
・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。
[火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人の総ては、そらごと、たわ
ごとであり、まことは一つもない。ただ阿弥陀如来の本願念仏のみがまこと
なのだ。歎異抄後序]
■死んだあと私はどうなるのか。ただのゴミになるのでは何か寂しい。「今まで
は 人が死ぬかと 思うたに 俺が死ぬとは こいつたまらん」と詠んだ人がい
た。多くの人は死をいつも考えてはいない、何かに出会ったときに死を考える。
本当は日頃から自分の死について考えることが大事。朝起きた時今日も生きて
いてよかったと思うことも大事。しかし私は生きていること、死ぬことを普段
は忘れている。何かによって思い出すことが大事。
■死んだあとのことを説いている釈尊。阿弥陀如来が浄土に行かせてくれる。
■どのようにすれは浄土に行けるのか。南無阿弥陀仏を称える。具体的には誰
かに教えてもらう、お寺で法座をきく。そこで釈尊の教えに触れるご縁ができ
阿弥陀如来に救っていただく事を知る。
■御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候ふ。そのゆえは、
もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力とし
て、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を一念発起入正定聚と釈し、
そのうえの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころ
うべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
■上宮寺山門前掲示板の言葉。
 花を咲かす見えぬ力を春という。人となす見えぬ力を仏という。
 (見えぬものの尊さがあります。合掌)
■新しい領解文・浄土真宗のみ教え。
南無阿弥陀仏「われにまかせよ・そのまま救う」の弥陀のよび声。私の煩悩と
仏のさとりは本来一つゆえ「そのまま救う」が弥陀のよび声。ありがとうとい
ただいてこの愚身をまかす。このままで救い取とられる自然の浄土。仏恩報謝
のお念仏。これもひとえに宗祖親鸞聖人と法灯を伝承された歴代宗主の尊いお
導きによるものです。み教えを依よりどころに生きる者となり少しずつ執らわ
れの心を離れます。生かされていることに感謝して、むさぼり・いかりに流さ
れず穏やかな顔と優しい言葉・喜こびも悲しみも分ち合い日々に精一杯つとめ
ます。
■以下はhp制作者メモ。
●善導大師。
「自分は深く重い罪悪をかかえ迷いの世界にさまよい続けている凡夫であり、
果てしない過去の世から今に至るまで、いつも迷いの世界に沈み、常に生れ変
り死に変りし続けてきた、そこから脱け出る縁などない身であると知れ」。
●親鸞聖人。
「阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてた本願を考えると、それは
親鸞一人を救うためであった。私は重い罪を背負う身であったのに、救おうと
思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか」。
●親鸞聖人が自身のこととして話したのは、私どもが、自分の罪悪がどれほど
深く重いものかも知らず、如来の恩が尊いものかも知らずに、迷いの世界に沈
んでいるのを気づかせるためだった。私は、如来の恩が尊いかを問うこともな
く、善いとか悪いとかをいいあっている。
●親鸞聖人は、「何が善で何が悪か私は知らない。如来が善と思うほど善を知り
尽くしたら善を知ったといえる、如来が悪と思うほど悪を知り尽くしたら悪を
知ったとえいえる。しかし私は煩悩をもった凡夫、この世は燃えさかる家のよ
うにたちまちに移り変わる世界で、空しく偽りで、真実といえるものはない。
その中で念仏だけが真実なのである」。
●経典や祖師方の書いたものに説かれた道理を学び、仏の教えの深い意味を十
分に心得ること。親鸞聖人がよく用いた聖教をよく読むとよい。ただし聖教は、
真実の教えと方便の教えとがある。方便の教えは捨て、真実の教えをいただく。
■清沢満之の言葉。
「人は死ななければならない。 人は死んでも滅びない。生ばかりが人ではなく、
死も人です。人は生死を合わせもつ。人は生死を越えた存在、人のいのちは生
と死の全体」
●遠い昔からのいのちの伝承があり今私がいる。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。
周りのおかげで生かされている。自分のやっていたことが、多くのおかげだっ
たと思いしらされる。決して自分一人だけでなかった。なんまん なんまん
 おかげさま。なんまん なんまん ありがとう。生かされている。念仏はも
ったいない。念仏はもったいない世界が見えてくる。その時、自分の姿が見え
てくる。自分の身体はいただきもの。無量寿のいのち。
■信心。
浄土真宗の救いのよろこびに、阿弥陀如来の本願はかならず救うまかせよと南
無阿弥陀仏のみ名となりたえず私によびかけます。このよび声を聞きひらき
如来の救いにまかすとき永遠に消えない灯火が私の心にともります。とある。
ここていう「永遠に消えない灯火が私の心にともります」が信心か。具体的に
はどのようなものか。定義してしまうとそれは自力であり他力とはならない。
日々念仏が自然と称えられていることか信心か。不可思議の世界を凡夫の私に
はわからない。信心を探す旅は続く、南無阿弥陀仏・なんまんなんまんありが
゜とう。なんまんなんまんありがとう。