23/2/19 水戸市立博物館特別展 那珂川ヒストリー 水と共に生きた人々。
●●01
■那珂川と共に生きた人々の展示があった。那珂川は栃木県の那須連山の茶臼
岳を水源とする。水戸市などを通り太平洋へ流れる。長さ約150km。水戸は那珂
川の渡し場にできた城下町。江戸時代に産業・流通が発展した。那珂川は江戸
と各地をつなぐ水運幹線となった。
■■農業用水。水戸藩は那珂川左岸に小場江堰・右岸に赤沢江堰を作る。永田
茂衛が担当。1660年・小場江堰は用水路へ通水を開始。小場から取水された水
は、ひたちなか市 まで約30kmの田畑を現在も潤している。1656年・赤沢江堰
が御前山赤沢から水戸まで通水を開始、1757年・洪水で破損、その後不使用。
■小場江堰。
●●07
■■渡し。
■水戸城。
●●60
■水戸は那珂川と千波川に挟まれた台地上にある。江戸氏が水戸を整備
・常陸を南北に鎌倉街道下道が水戸で那珂川と交差した。その後水戸は佐竹氏
を経て水戸藩となる。1625年・頼房は水戸城下の整備を始める。那珂川渡河点
を海老久保の渡しから青柳の渡し・枝川の渡しとした。
■海老久保の渡し。水戸城二の丸三の丸間の北側の坂を下った地域を海老久保
という。そこは鎌倉街道下道の那珂川渡河点で城内を通る道とつながる渡しだ
った。1625年・頼房が水戸城・城下を整備・海老久保の渡しを廃止した。
●●63
■水戸城下上町側に設けられた渡し場。青柳津と呼ばれる川湊の場所か。
1625年・海老久保の渡しが廃止され、渡しとして利用された。江戸時代には那
珂川に海水が遡上する限度となる場所だった。
●●77
■指上申手形之事。1634年2月25日。茨城県立歴史館所蔵。水戸藩が船頭に命
じた4項目。住来の人にいつも舟を渡すこと。商人・荷物の船賃を先例以上の
額で取らないこと。坊さん・非人を船賃無しで渡さないこと。渡し舟 は常に掃除すること。
■水戸城下の細谷と那珂川左岸の枝川とを結ぶ渡し。水戸と岩城・相馬を結ぶ
街道が水戸城下を抜け那珂川と交差する地点。この渡しができる1625年以前は、
勝倉の渡しが使われた。
●●78
■青柳の渡し。水藩画図。1831年8月 水戸市立博物館所蔵。1831年に作られ
た絵図を写したもの。青柳の渡しに「湊迄三里 是迄潮満」と記され青柳渡のあ
たりは海水が混じる汽水だった。水戸城北東側では水戸藩士が水術を学んだ。
■阿波山の渡し。1960年3月。徳宿克夫氏提供。次第に見られなくなった。
●●85
■■漁労。那珂川とその支流には鮎・鮭・鱒・鯉・鰻など多くの魚がいる。鮎・
鮭・鱒は遡上する。鮎は江戸時代水戸城へ献上された。鮭は川に杭や網をしか
けてとる留漁が行われた。
■縄文時代にも魚をとっていた。中流の右岸にある三輪仲町遺跡から出土した
石錘とカラムシで復元した漁網の展示があった。那珂川町教育委員会所蔵。
三輪仲町遺跡は縄文時代中期前葉から後期前葉の大集落遺跡。
■鯉漁。鯉は網・ヤスでとった。1717年1月・那珂川の六所淵に大量の鯉が集
まった。鯉は地引網でとられた。
■江戸時代後期に水戸城下で鰻を蒲焼きにして売る人もいた。
■鮭漁。鮭漁は杭や網で川幅を塞ぎ遡上する鮭を捕える留漁が行われた留漁に
は竹の杭で川を塞ぐ竹留漁と船で川に網を張り川を塞ぐ留網漁がある。明治30
年代・9月〜12月は留網漁船が川に広がった。留漁は大規模な普請や多くの人
が必要で、佐竹氏・水戸藩が実施した。留漁は昭和40年代に中止された。
■竹留漁。竹を川幅いっぱいに立て簀子のようにし、下流に溜まる鮭をとる。
もとは中流域の野田・長倉で行われ、1661年頃は青柳で行われた。
■留漁ノ図。1880年5月。国立国会図書館所蔵。竹を両川岸から一直線に設置
・中央部は開けた。
●●27
■亥歳郷々人馬被召遣帳。1635年。茨城県立図書館所蔵 (茨城県立歴史館寄託)。
1635年・水戸藩による野田の竹留漁で留普請・補修・留番で延ベ約1800人が動
員されている。
■青柳は鮭漁の中心地だった。
●●26
■留網漁に使われた鈴が展示されていた。昭和時代。中村盛昭氏所蔵。留網漁
では鈴をつけた木の棒が網に結ばれ鮭が網にかかると鈴が鳴る。船に人が泊ま
り鈴の音を頼りに鮭をとった。
■留網漁の様子。昭和30年代。水戸百年掲載写真。明治以降の鮭留漁は川に船
を並べ行った。船と船の間に網をかけた。
●●34
■鮭の網揚げ。昭和30年代。個人蔵。留網にかかった鮭の引き揚げ様子。
●●35
■竹竿を用い船を操る漁師。昭和30年代。個人蔵。
●●36
■漁へ向かう漁師。昭和30年代。個人蔵。万代橋から約150m上流の青柳の船
溜から留網漁に向かう漁師。夕方から朝まで泊まり込みで漁をする。船に1間
の櫓を組み炊事道具・布団を積んでいた。
●●37
■鮭は贈り物として使われた。
■徳宿太重郎日記。1846年1月4日。徳宿克夫氏所蔵。中流域の阿波山上神社
神官の日記。年始に餅と塩引鮭を隣家・城下商家に贈っている。
■徳川光貞書状。1694〜1700年8月18日。吉澤秀之氏寄贈。水戸藩から紀州藩
に贈られた鮭に対しての紀州藩光貞の礼状。水戸藩内でとった鮭が紀州在国の
光貞まで届けられた。
■■流通。那珂川は人や荷物を運び奥州・下野・江戸と水戸を結びつけた。上
流の黒羽〜下流の那珂湊は船が航行した。江戸時代・船が人・荷物を運んだ。
烏山〜野田は水深が浅く岩もあり船底の浅い小鵜飼船を使用した。野田〜那珂
湊は水深が深く荷物を野田・長倉・野口で大船に積み替えた。涸沼川から水運
と陸送で江戸へ荷物を運んだ。江戸に向かう高瀬舟が水戸周辺を航行した。
■■運んだもの。
■武茂の年貢米・産物は船で城下ま運んだ。那珂湊は北方面から江戸へ荷物を
運ぶ中継地だった。水戸から荷物・年貢米を江戸の水戸藩邸へ那珂川・内陸水
を利用し運んだ。丸水の旗を掲げた藩船が往来した。
■水戸藩御用札。1865年6月吉日。芝山敏子氏所蔵(水戸市立博物館寄託)。
城下の薬種問屋芝山家に伝わる水戸藩御用荷物を扱う家を示す札。水戸藩を示
す丸水の印とともに、商座の印が焼き付けられている。
●●46
■水戸藩御用の文箱。江戸時代。個人蔵(小美玉市小川資料館寄託)。水戸藩の
船頭の家に伝わる水戸御用の文箱。水戸から江戸の藩屋敷へ文書を届ける時に
使用。小川・串引・塔ヶ崎の河岸の船頭は江戸へ年貢米・薪炭を運んだ。藩士
の書簡・荷物も運んだ。
●●47
■那珂川を利用し年貢米を運んだ。上中流域で集めた年貢米は河岸問屋が城下
に運んだ。那珂川は他藩年貢米の輸送にも利用された。城下の杉山に水戸藩
・他藩の年貢米保管蔵があった。
■黒羽まで船は航行、黒羽藩・烏山藩の荷物を運んだ。上流は山林が多く炭が
城下へ運ばれた。武茂・烏山は葉煙草・楮・和紙を生産・水戸藩の専売品とし
て江戸商人が江戸へ運んだ。会津藩・白河藩の年貢米は那珂川を利用し江戸へ
運んだ。
■那珂湊・磯浜・大貫の海産物・魚肥・塩は船で下野へ出荷された。干鰯・〆
粕の魚肥は綿・菜種の肥料。房総・常陸沿岸で盛んに製造された。江戸時代に
全国へ普及した。
■干鰯は俵に詰めて出荷した。干鰯俵模型。千葉県立中央博物館所蔵。
●●56
■〆粕模型が展示されていた。千葉県立中央博物館所蔵。生の魚を窯で煮て油
を搾った後の残りかすが〆粕。当初は鰯で作ったが蝦夷地で鰊漁が盛んになり
鰊の〆粕も全国的に普及した。
■杉山河岸。水戸藩の荷物・商人の荷物を取扱った。上流からは木材・薪炭・
米・雑穀・煙草・コンニャク・和紙・石材が運ばれ、下流からは醤油・味噌・
酒・砂糖・魚・肥料・金物・雑貨・塩が運ばれた。河岸の辺りには米蔵・材木
蔵・船蔵・川番所があった。
■■船の種類。
■小鵜飼船は船首が箱型に突き出た形状の小型船。小さく吃水も浅く、川底が
浅くても航行できた。上流〜中流で使用された。上流の黒羽河岸、中流の小野
河岸で利用された。上流から小鵜飼船で運ばれた荷物は、野田・長倉で大きな
船に積み替えられ下流方面へ運ばれた。
■胴高船の模型。那珂川町教育委員会所蔵。鳥山や武茂の上流では、小鶴飼船
と並んで胴高船が使用された。胴高船は小飼船とほぼ同じ大きさだが約30cm高
く、積み荷に水がかりにくかった。胴高船・小飼船は2人で乗るのが多かった。
●●11
■■河岸。
■河岸は川にできた湊。船が着岸でき周囲に市場・人々の居住・宿泊施設があ
った。河岸には河岸問屋があり人足を雇い船荷物の積み下ろしをした。船が航
行可能な上流の黒羽から下流の那珂湊の間に多くの河岸があった。水戸には複
数の河岸があった。城下の商人を通して物品を流通させる水戸藩の統制策のも
と多くの産物が水戸を通過した。烏山は商品作物が集まる場場で河岸があった。
黒羽は奥州方面からの荷物の積出しの場で河岸があった。中流域から上流域に
かけて川底が浅く途中で船の乗り換えが必要だった。中流では下流の荷物を別
船に乗せ換える河岸が多くあった。
■野田河岸。野田は荷物の積み替え場として那珂川水運の要衝だった。
●●25
■下江戸河岸の取扱帳簿が展示されていた。1759年。那珂通裕氏所蔵。下江戸
河岸は那珂川を上る荷物の中継河岸。湊・磯浜・大貫からの物資を扱った。1759
年・干鰯488俵・〆粕1940俵・五十集荷物8個を扱った。
■下江戸河岸。諸荷物請払帳が展示されていた。1789年3月。那珂通裕氏所蔵。
1789年・下江戸河岸で扱われた荷物の依頼人と数量が書かれている。1789
年11月27日・29日に那珂湊明神町から各々五十集19樽が送られている。下江
戸河岸で塩鰯・若布・塩引・干物が扱われた。
■陸路・那河川水運で多くの人や荷物が水戸に集まった。水戸に集まった荷物
を江戸に運ぶ物流が盛んだった。水戸は江戸と奥州・下野の中継地となった。
城下下町に多くの河岸ができ水戸を出入りする荷物を扱った。
■水戸城下之図。1681年〜1682年。水戸市立博物館所蔵。下町に藩の年貢米を
保管する蔵があった。額田藩・保内藩の蔵もあった。1661年・額田藩・保内藩
ができ藩主は江戸に住んだ。藩から江戸へ運ぶ荷物を蔵に保管した。
■吹付板。明治時代。清水邦明氏寄贈。大杉山にあった清水製材所の吹付板。
板に墨を吹付け清水製材所と材木に記した。那珂川を利用し木材を運んだ。杉
山河岸が荷揚場だった。大杉山付近は製材所や材木店が多かった。
■水戸藩士石河明善日記。1853年9月条。長山憲昭氏・行伸氏・安宏氏寄贈。
明善は杉山屋敷の普請で町付村半兵衛と打ち合わせ・使用材木は現物を見てか
ら相談とした。明善は杉山河岸で材木を見ている。
■諸色留。1696年・茨城県立歴史館所蔵。1696年・保内藩の水戸屋敷での政務
日誌・佐野藤八が記した。保内藩主頼隆は江戸屋敷居住のため年貢米・荷物を
保内から江戸まで運んだ。保内から水戸まで結ぶ南郷道沿いの村々 (小祝村・
後台村等)、水戸から江戸までの水運の要地(島田村等)を所領として保持し、保
内から水戸を経由し江戸まで荷物を運ぶ搬送路を押さえていた。
■水戸城。上が那珂川。
●●80
■常陸街道絵図。江戸時代。茨城県立歴史館所蔵。那珂川・鬼怒川・利根川・
江戸川の流域と周辺街道の様子を描いている。河川や街道には流通を扱う河岸
問屋と陸問屋が描かれている。那珂川流域では戸〜野田、久那瀬〜矢倉に河岸
が多い。那珂川から陸路を通じて白河方面、水路を通じて利根川・江戸方面と
接続している。
■高瀬河岸と徳宿河岸。1625年または1661〜73年。高瀬河岸は、阿波山下流の
下圷にできた。年貢米・湊からの魚類を扱った。磯浜・湊から烏山・茂木方面
へ干鰯など荷物を中継した。明治時代・徳宿河岸ができ岩船村産石材・木材・
穀物・木炭を下流に積出した。戻り船で磯浜・那珂湊から海産物や水戸の雑貨・
味噌・醤油を運んだ。1931年頃高瀬河岸・徳宿河岸は廃止になった。
■徳宿太重郎日記。1844年〜1860年。徳宿克夫氏所蔵。徳宿家の当主太重郎が
日々の営み・近隣河岸に運ばれた荷物・近所の事件を記した日記。1844年〜1860
年の内7年分の記録。
■小野河岸。中流域左岸の小野に上河岸・中河岸・下河岸があった。上河岸は
宇留野家が1764〜71年に開き、最盛期に8艘の船を所持したという。中河岸は
四倉家が1658〜61年頃開き、後に下河岸を合併した。小野河岸は近隣の村の荷
物、久慈川上流の保内藩の年貢米を扱かった。久慈川沿いの山河岸から小野河
岸まで荷物を陸送する道が確立されていた。久慈川を利用して運ばれた産物を
那珂川へ運ぶ中継地点として小野河岸が機能していた。会津から江戸に向けて
出荷された茶も久慈川を経由して到来した。久慈川流域や奥州方面からの荷物
を扱ったことで 小野河岸は栄えた。
■小砂焼。江戸時代。那珂川町教育委員会所蔵。武茂の小砂陶土を使用。1851
年・農民大金彦三郎の民営窯で始まる。小砂陶土は那珂湊の反射炉製造に広瀬
河岸から船で運ばれ使用された。
●●51
■烏山宮原八幡宮奉納絵馬。1734年5月吉日・宮原八幡宮所蔵。烏山城下の宮
原八幡宮に奥州白河の商人が奉納した巴御前を題材にした絵馬。
●●53
■常葉村原分田畑反別絵図。1848年7月。水戸市立博物館所蔵。常葉村の田畑
を小字ごとに記録した絵図。常葉村庄屋が残した。常葉村に常葉河岸があった。
川番所が置かれ船が係留されていた。上流中流からの荷物の荷揚げ場所だった。
■■内川廻し。那珂川水系を通じて運ばれた荷物は、涸沼川から霞ヶ浦・北浦
を経て利根川・江戸川を通って江戸に運ばれた。この航路を内川廻しという。
常陸・奥州・下野からの荷物を江戸へ運ぶ経路として利用された。内川廻しで
涸沼から霞ヶ浦・北浦へと至る区間は陸路で荷物を運んだ。江戸時代初め涸沼
沿岸海老沢から霞ヶ浦沿岸小川まで10km以上を人馬で運んだ。1651年・磐城平
藩今村仁衛門が巴川水運を通した。そこで下吉影まで陸路を進み巴川を通り串
挽まで荷物を運び、北浦経由で江戸に運ぶ航路も利用された。水戸藩は内川廻
しの要地の海老沢・霞ヶ浦沿岸の小川・北浦沿岸の串挽・利根川沿いの潮来を
藩領とし航路に影響力を持った。
■巴川は笠間・鉾田・北浦に注ぐ約32kmの川。内川廻しにおける陸送区間が大
幅に短縮された。
●●92
■内川廻しは途中陸路となる難点があった。陸路区間に水路開削が計画された。
水戸藩松波勘十郎による紅葉運河・大貫運河の開削が行われた。
■1707年・涸沼〜巴川の約20kmを通船させるため勘十郎は紅葉運河を開削した。
1708年・工事に動員される農民の反対により失敗した。現在堀の一部が残り勘
十郎堀と呼ばれている。
●●94
■常陸名所図屏風。17世紀後半。個人蔵 (奥州市牛の博物館寄託)。近世前期の
常陸の景観を描いた。袋田の滝・平磯・那珂湊・木下・海老沢・串挽・銚子・
潮来・利根川などが描かれている。屏風中央部を那珂川か流れている。
●●123
■那珂湊。賑わいを見せる町場・帆や船印を備えた船が係留されている。毛槍
や吹き流しを立てた大型船が航行している。
●●106
■木下。木下は涸沼川沿いの要衝。大貫方面への渡しがあった。水運の材木を
荷揚げする場所だった。
●●105
■海老沢。涸沼川を経由して航行する船の荷物を陸揚げする場所。内川廻しの
中継地点。
●●101
■串挽は内川廻しで巴川を経て北浦に乗り出す場所。船の荷物を積み替える河
岸があった。
●99
■銚子。利根川河口部にある。内陸水運と外洋交通との出入口。銚子入口付近
は海流が複雑で岩礁も多く船の難所。
●●103
■潮来。潮来は利根川舟運と太平洋を通る東廻り航路の結節の地。水戸藩の飛
び地だった。仙台藩は江戸へ廻米を行うのに藩役人を置き現地の人を穀宿とい
う役に任じた。
●●104
■利根川。利根川は江戸まで内陸水運でつながっていた。水戸藩・諸藩の船が
江戸まで年貢米を運んだ。多様な旗を掲げる船が往来した。
●●100
■那珂川。帆に風を受けた船が河口方面に向かっている。
●●102
■那珂湊和田の高台に1836年に築かれた台場が描かれている。
●●107
■那珂湊は那珂川河口左岸にある。江戸時代・太平洋沿岸を往来する船の寄港
地として賑わった。東北地方の船、蝦夷地の船、酒田・佐渡・敦賀等の日本海
沿岸の船、江戸・大阪などの船があった。寄港する船との間で海産物・林産物・
農産物・生活用品が取引された。
■常陸湊村町内別明細絵図。1856年〜1857年。ひたちなか市教育委員会所蔵。
斉昭の天保検地後の湊村検地絵図。湊村の字毎に土地の景観・面積・屋敷居住
者名が描かれている。和田・那珂川沿いの小川に多くの船が係留している。
■君臣丸の扁額。江戸時代。ひたちなか市教育委員会所蔵。水戸藩の兵船君臣
丸の扁額。光圀は数10艘の船を造った。5艘は大型船。君臣丸は大型船だった。
朱塗りの兵船という。
■軽よう丸の扁額。江戸時代。ひたちなか市教育委員会所蔵。水戸藩主の遊覧
船軽よう丸の名が刻まれた扁額。光圀の造った大型船・朱塗りの船という。1760
年・幕府巡見使を迎えるため軽よう丸が那珂湊周辺で就航した。
■水戸街道絵図。常陸大宮野口の裕福な家で作られたか。野口を中心に江戸ま
での水路や霞ケ浦、北浦、涸沼など街道が描かれた。河岸や問屋の情報が文字
で記されている。
■■水害と共に生きる。那珂川は豪雨時に増水し洪水となり流域に被害をもたらした。
上流の武茂・中流の野口から那珂西にかけては度々流路が変わり境界争いを起こした。
■水戸市域の洪水。
1602年・大洪水・水戸城浄光寺門まで水に浸かる。
1723年・暴風雨で下町の武士屋敷町が浸水被害を受ける。卯年ノ水と呼ばれる。
1728年・洪水・卯年ノ水の時より水位は約50cm低い。
1757年・卯年ノ水以来の大洪水。
1779年・洪水・「卯年ノ水」の時より水位は60cmくらい低い。
1786年・集中豪雨による大洪水・下町の大部分が浸水・復旧に数年を要した。
1910年・低気圧接近に伴う洪水・那珂川中流部の被害が大きかった。
1938年・年に4回の大洪水が発生・下市を中心に広範囲で浸水。
1941年・豪雨による洪水・下市を中心に浸水被害を受ける。
1986年・台風による大洪水・水府・青柳を中心に浸水被害を受ける。
1998年・台風による洪水・青柳町などで大きな浸水被害を受ける。
2019年・台風接による大洪水・水戸市北西部が数日間水に浸かる。
■1723年8月大洪水之次第。1723年8月。茨城県立図書館所蔵(茨城県立歴史
館寄託)1723年8月8日〜10日・台風接近に伴う暴風雨により大洪水になる。
増水した那珂川の水が桜川を遡り水門御堀の辺りで溢れた。水戸城東側台地下
から谷田・坂戸の台地下まで水に浸った。
■享保日記。1728年7月8日条。茨城県立図書館所蔵(茨城県立歴史館寄託)。
1728年7月・大雨で洪水になる。千波沼からの浸水が無く城下下町の被害は少
なかった。那珂川の増水で細谷付近は大被害がでた。1602年佐竹殿御代ノ大水・
1723年卯ノ年之洪水と比較の記述がある。
■1786年7月16日洪水記。1786年7月。水戸市立博物館所蔵。1786年7月12
日〜16日まで断続的に降り続いた雨により、水戸は城下下町のほとんどが浸
水・深刻な被害となる。藩士吉川常元が避難状況・大洪水の教訓を後世の手控
として記した。
■内済為取替札。1864年9月5日。那須烏山市所?。那珂川洪水で黒羽町の渡
し舟が流失、瀧田村で大破した。烏山城下の町人が間に入り和解を試みている。
■1938年6月28日からの雨は29日は豪雨になり30日まで降った。下市・偕楽
園下から水戸停車場・柵町まで浸水。死者3名、家屋流出28棟、全壊41棟、
半壊91棟、床上浸水3543棟、床下浸水14766棟、罹災17008人の被害がでた。
増水した水は各地の橋梁を流し海門橋も流した。8月27日・9月1日・10月21
日にも那珂川が氾濫した。
■日赤入口附近より食品市場方面を望む。1938年6月。杉山健人氏提供。
日赤入口付近の水没状況。中央に水戸工兵隊の鉄船。
●●138
■常陽銀行下市支店前。1938年6月 杉山健人氏提供。水害時の常陽銀行下市支
店前の様子。銀行前で新聞号外を読む人がいる。
●●139
■浸水地区を進む。1938年6月 杉山健人氏提供。水没した地区を手漕ぎの船で
通過しようとしている。水害時は船が有効な移動手段ととなる。
●●140
■石垣橋付近。1938年6月。杉山健人氏提供。床上浸水の店舗。多くの家財道
具が水没している。
●●142
■筏を組む人々。1938年6月・杉山健人氏提供。筏を作るため木材を組む人々。
水害時に船を準備できないとき筏を組み災害救助・移動に利用された。
●●143
■本一丁目通り。1938年6月・杉山健人氏提供。水害直後の下市本一丁目通り。
浸水路面を歩く人・船で移動する人もいる。
●●144
■七軒町通り。1938年6月・杉山健人氏提供。船を押し被災した人を救助する
水戸工兵隊兵。下市地域の避難民救助に工兵隊鉄船と兵30名が派遣された。
●●145
■柵町五丁目通りの崖崩れ。1938年7月 杉山健人氏提供。1938年6月の洪水
で発生した崖崩れ跡。住宅とバスが被害を受けた。
●●146
■■文化財レスキュー活動。
■2019年10月12日・台風の豪雨で那珂川が氾濫。茨城史料ネットは資料救済
活動をした。水戸市下国井赤沼山薬師堂の文化財保全作業を行うた。また大曽
根家文書をみつけ現在資料を整理中。
■茨城史料ネットは水害直後に歴史資料保全を訴えるチラシを水害地域を巡回
し配布した。
■氾濫する那珂川。2019年10月・常陸河川国道事務所提供。西田川・藤井川の
合流付近で那珂川堤防が決壊。飯富・岩根・渡里が浸水・水が引くまで数日か
かった。
●●149
■国田大橋東交差点附近。2019年10月。小田倉康家氏提供。
●●184
■水戸北スマートIC附近。2019年10月。 小田倉氏提供。
●●185
■浸水地域を通る常磐自動車道。2019年10月。小田倉康氏提供。
●●186
■茨城史料ネット活動流れ・大曽根家文書の場合。
行李から資料の状態を確認しながら取り出す。刷毛を用い資料の汚れを取り除
く。汚れとりが終わった資料を中性紙封筒に一点ずつ入れ整理番号を付ける。
整理が終わった資料を一点ずつ撮影する。成果報告会・資料展示を行う。
■■赤沼山薬師堂の文化財保全作業。
■赤沼山薬師堂は807年創建。堂内に2体の薬師如来像・7体の仏像がある。
水戸藩の寺社整理後赤沼山薬師堂は地域の人に守られている。2019年10月・洪
水で薬師堂内まで浸水。法具が水に浸かる。茨城史料ネットは乾燥処置を行い
資料を保全した。
■薬師堂内
●●178
■百万遍念珠。1988年12月8日。上国井自治会薬師樹林を再生する会管理。
百万遍念仏に用いる数珠・108の玉からなる。江戸時代から豊作祈願の天道念仏
の時に百万遍念仏が行われた。複数人で念珠を廻し念仏を称えた。念珠は住人
が奉納・薬師堂に保管していた。
●●183
■■大曽根家文書。
■古文書は浸水した納屋にあった。念仏興行・川除普請・小場江堰改修・村政・
国田尋常小学校建設の資料がある。茨城史料ネットにより整理作業中。
■納屋に保管されていた小場江堰関連資料や天道念仏関連資料。
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■下国井村川除御普請人足控帳。1864年3月 大曽根正巳氏所蔵。那珂川の川除
普請の人数や用途を記録した資料。竹で杭打ち・蛇籠で堤防を補強した。川除
普請は中里・戸・古徳の人も参加。
■下国井村川除御普請村人足割合帳。1865年4月・大曽根正巳氏所蔵。川除普
請に動員する人数合帳。水戸藩の郡奉行が関わり行われた。
■下国井村溜池御普請人足控帳。1850年2月。大曽根正巳氏所蔵。溜池を直す
工事の動員記録。戸の人も参加している。
■下国井村溜池普請人足帳。1850年2月。大曽根正巳氏所蔵。溜池普請に動員
された人の人名記録。溜池小奉行・水番が主体と人を集めた。
■下国井村江桁廣御普請人足帳。1851年2月。大曽根正巳氏所蔵。小場江用水
を渡す桁を広げる工事にでた下国井村の人・馬を記録。
■明治32年度歳入出豫算成議録。明治32年度。大曽根正巳氏所蔵。明治期以
降は小場江堰普通水利組合が小場江堰の管理を行った。
■鎮主普請?学校木栖買入控。1881年5月。大曽根正巳氏所蔵。下国井村鎮守
春日神社・1875年開設国井小学校の工事費用記録。
■役場新築費負担に付木杯下賜。1889年6月3日。大曽根正巳氏所蔵。1889年・
市町村合併で国田村ができ村役場新設の寄附金への礼状。
■■以下は常設展示でみたものです。
■角閃石花崗岩・蛇灰岩・透角閃石かんらん岩・コートランド岩・凝灰質砂岩・
含高温石英礫岩が展示されていた。
■千波湖の誕生。約2万年前・千波湖一帯は谷だった。
那珂川は50mくらい低い谷。やがて気候が暖かくなる。氷が溶け 海水面が上昇。
海の底になった谷には泥や砂礫が積もる。約6,000 年前をピークに海が退きは
じめる。氾濫する那珂川の堆積物にせきとめられ千波湖の原型ができた。
出典: 築地書館 ・茨城の自然をたずねて14頁。
■隆起は地面が海面より高さを増すこと。プレートの動きにあわせて地面が盛
り上がる、また海の水が減って海岸線がさがることで起こる。地球は10万年単
位で寒い時代・暖かい時代を繰り返している。隆起により河岸段丘や海岸段丘
など階段状の地形の変化が起こる。水戸市街地がある台地は、海岸段丘により
できた地形。海沿いの崖が削れけらが堆積、隆起により陸地になり水没せず段
丘になった。
■水戸周辺の模式地質段面
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202■上市台地の構造と湧水。
台地に降った雨が長い年月をかけ地中に浸み込み、水をとおさない水戸層の上
から浸み出す。
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