23/1/15 水戸・歴史に学ぶ会新春特別講演会。
農政学者・小田村庄屋長島尉信の生涯。
仲田昭一先生。
■長島尉信やすのぶは壮年期は名主を精力的に務め、引退後は新たな学問に挑
戦しそれを活かし活躍した。また心酔者に傾倒し人脈を通しその顕彰に努めた。
地道に誠実に生きた。農政学者といわれ生涯学習の先駆者だった。
●●つくば市小田・小田城・鎌倉期から戦国期まで小田氏の居城・本丸あたり・
11/4/17撮影。

■以下はhp制作者メモです。
■1747年・高山彦九郎は上野国新田郡細谷村の郷士高山家に生まれた。林子平・
蒲生君平と並び寛政の3奇人といわれる。勤王家・孝道の実践者・全国を旅し
地域の実情を旅日記に記録。久慈 (岩手県) の琥珀発掘や奥羽地方の天明の飢
饉の惨状を記録。善政を奨励・救民運動を支援。
■1777年・高山彦九郎の自筆日記「丁酉春旅」。
■1780年・高山彦九郎は富士登山の際に、身を慎み清め、大小便をしないよう
に努めた。山を信仰の対象と考えた。
■1781年・尉信は筑波郡小田村の小泉吉則の長男として生まれる。
■1782年・高山彦九郎の自筆日記「江戸日記」・「京都日記」。
■1783年・高山彦九郎の自筆日記「京都日記」。
■1790年・高山彦九郎は蝦夷地渡航を決意・途中水戸の藤田幽谷を訪問。日記
には「幽谷と大義の談有りける、幽谷能く義に通ず」「才子にして道理に達す、
奇也とて、よろこび語る事ありける」と記す。
■1793年・高山彦九郎は憂憤と焦りからか久留米の森嘉膳宅で自刃。 47歳。
■1795年・船橋随庵は関宿藩に生まれる。
■1801年・尉信20歳のとき長島家の養子となる。
■1808年・尉信は28歳で小田村の名主になる。
■1809年・小野寺鳳谷は仙台郊外松山藩の農家に生まれる。伊達氏一族で松山
茂庭氏の家臣。
■1810年・村上量弘は筑後国久留米で生まれる。
■1826年・尉信45歳は名主を長男尉敏に譲り隠居。江戸の秋山泰徳に授時暦法、
江戸の普門律師に天応暦法・度量・測量術を学ぶ。検地に応用した。その後、
税金・土地測量を研究。さらに毎日1万字の書写を日課とする。その
結果は15年間に15箱になった。
■1830年・尉信は水戸藩と交流があった。
■1833年・佐久良東雄は観音寺住職康哉歿後、尉信と義兄弟の契りを結ぶ。尉
信も義兄弟の契りを結んでいた北条の古宇田文斎歿後1年のことだった。尉信
は東雄の万葉集和歌抄を保存、義兄弟色川三中の弟美年が読み仮名を付す。尉
信は色川三中と義兄弟の契りを結ぶ。色川三中は醤油醸造を営み・図書収集・
筆写・学者を後援し佐久良東雄らの活動資金を提供。尉信は水戸からの借用書
写史料を三中に提供・三中の古文書の書写・収集を促進。
●●水戸八景めぐり・太田落雁・19/4/24撮影。 

■1835年・小野寺鳳谷は仙台藩医福井道元宅で、尉信の道元への手紙を見て尉
信を知る。水戸八景碑が建立される。尉信は水戸八景碑を訪ね模写。僊湖莫雪・
青柳夜雨・太田落雁・水門帰帆の4か所。湊の敬業館を訪問。尉信は高山氏遺
書漫録の1を作成する。小野寺鳳谷は小田村の尉信を訪問した。2人は「旧友の
如く」であったと尉信は記している。その後鳳谷は筑波山からの帰り尉信を訪
問。鳳谷は尉信を評して「性質卓、不覇の士なり、余の資あれば必ず書籍を購
う」と称えている。尉信は鳳谷に小田氏14代小田政治の肖像画を描いてもらい・
水戸藩の小宮山楓軒・藤田東湖に題辞を依頼・尉信が収拾の三村清冷院極楽寺
の古瓦片の拓本で表装した。極楽寺は小田氏の祖八田知家が創建。楓軒は
「旧主の徳 思うべし」と題し、東湖は「気象の雄 曽将の弓箭関東を震わす」と
揮毫した。
■1836〜1839年・尉信は高山彦九郎の高山紀行集・高山氏安永四年北国日記・
高山子遺書漫録・2・3・4・5、古河渡の記・小田原行・武江旅行記・赤城従行・
小股行」「沢入道の記・子安神社道記・武州旗羅を筆写する。尉信は蒐収した高
山彦九郎の遺書を藤田東湖・市毛幹規・杉山忠亮・桜任蔵・村上量弘・加藤桜
老・大久保要・藤森弘庵・有馬新七に分与。尉信は太田の益習館を訪問する。
市毛幹規が水戸彰考館に入る。市毛幹規は太田の西山御殿を訪問・尉信のため
に竹の葉とウメモドキの葉を拾い持ち帰った。現在も尉信の蔵書に挟まれてい
る。矢嶋行康が生まれる。
■1837年・水戸藩は検地のために尉信を招く交渉。尉信は田制の一端を記した
田芹を寄稿し藩主斉昭に提出。
■1838年・尉信は市毛幹規と小田村の湯地蔵石仏龕を訪問・1289年の文字を認
め、小田氏関連遺跡であることを確信する。
●●水戸市・水戸城大手門・22/1/1撮影。

■1839年・尉信は水戸藩に出仕・土地方郡方勤として領内総検地を指導。尉信は
湊の敬業館とい賓閣を訪問・い閣内を詳細に記録。尉信は多賀郡大久保村の
郷校興芸館を訪問・見取図を記録。尉信は小田村の尼寺入口付近で「楽寺」と
刻された瓦片を拾い、極楽寺と付属の薬師堂・尼寺の存在を確信する。
●●つくば市小田・三村山清冷院極楽寺跡・11/5/3撮影。

■1840年・尉信は城中の検地方役所へ出仕。尉信は追鳥狩参加。尉信の記録に
「雨降り、夏至に入り、田崎高明が輯あつめた江水規式帳を借り写す。関宿藩
士船橋随庵は「尉信の筆力は一日一万字」と評した。尉信は杉山忠亮に高山彦
九郎26歳の時の前髪・櫛・小刀・水滴を贈る。尉信は高山彦九郎の書簡
・和歌の遺墨をまとめた冊子への序文を杉山忠亮に依頼する。
■1842年・杉山忠亮は題高山処士遺墨と題し冊子への序文を書く。尉信は追鳥
狩に参加・追鳥狩御行粧記を残す。村上量弘が水戸に入る。
●● 土浦市大手町・土浦城本丸・10/4/10撮影。

■1843年・尉信は土浦藩に招かれ土浦城の修復や検地を行う。村上量弘は会沢
正志斎の塾に学ぶ。村上量弘は水戸見聞録の中で土地方御正しの事として水戸
藩の検地を記し、尉信の功績を称える。水戸を去る尉信に「長島翁の土浦へ帰
るを送るの序」を記し「田制において、その一二を知るを得るは、皆翁の賜物
なり」と感謝している。
■1844年・斉昭が幕府から隠居謹慎・藤田東湖は蟄居謹慎の処罰を受ける。尉
信は「悲歎問堪え難し」と憤る。水戸の会沢正志斎を訪問時の記録に「涙のほ
かなし」と記す。市毛幹規は江戸彰考館に移る。
■1848年・市毛幹規が亡くなる。墓は水戸塚の本行寺。
■1849年・小野寺鳳谷が西遊の帰途、土浦の尉信を訪問・追鳥狩に参加した尉
信の武装肖像画を描く。鳳谷の「長島祐卿翁小伝」と併せ軸装されている。
■1851年・土浦藩は尉信の測量術で城域を測量・城郭の修理を諮問・御城御屋
形向御修理御用掛として本丸館の修復を命じた。尉信は測量結果を末広御備御
本丸御二三丸分間歩詰図を作成した。尉信は矢倉修復を命じられた。領内検地
の命が下る・名主の反対・免除の嘆願がある。矢嶋行康は16歳で上田の国学者
成沢寛経に入門・江戸に出て平田鉄胤の門下生。
■1852年・尉信は東崎町分地改御用掛となり推進役を務める。色川三中が「国
家の大害・恐るべきことなり・悲しむべき次第なり」と反対する。
■1854年・矢嶋行康は高山彦九郎を敬い慕い彦九郎の遺墨遺品を蒐集・譲り受
けできないものは訪ね行き書写・大部分を集めている。林鶴梁家・長島家も高
山彦九郎遺書の蒐集のため訪問している。尉信自筆本「高山子遺書漫録」「高山
仲繩紀行集」「安永四年北国日記」は現在矢島家が所蔵。行康は集めた彦九郎関
係資料を表装整理・その複製本をつくり玉能御声・高山錦嚢にまとめている。
群馬県太田市の高屋彦九郎記念館蔵。
■1860年・佐久良東雄は桜田門外の変に連座し獄中で絶食し餓死する。
■1865年・尉信は土浦藩を致仕小田村へ戻る・志願成就を謝し田向延寿院に獅
子頭を奉納・生涯を顧みて「ひとらしき 我にあらねど ひとまねに まこと
ひとつを 置き土産かな」と詠み「やす信」と署名している。
■1866年・鳳谷は亡くなる。
■1867年・尉信が亡くなる・87才。小田田向の延寿院に墓がある。
■1872年・船橋随庵が亡くなる。
■1872〜1873年・矢嶋行康が長島家を訪ね彦九郎関係資料を書写・収集。
■1895年・船橋随庵先生水土功績之碑が建立される。随庵の治水に関する学問
は尉信に学ぶところが大きく後年尉信の記を著す。
■1935年・彦九郎の自筆日記は尉信の子孫長島弥一郎が、重要美術品に認定、
現在は茨城県立歴史館に寄贈されている。
●●東京都文京区湯島・湯島聖堂・11/10/14撮影。

■長島尉信は高山彦九郎に心酔していた。彦九郎が各地の人と交流し情報交換
していたように尉信も各地の人と交流し情報を交換した。
尉信に関連した人。
■如蓮大寅禅師・土浦藩神龍寺住職・「これら皆彦九郎の血誠、紙面にあふれて
いる。一字一涙なくしてはいられない」と香を焚いて礼拝。
■福井道元・仙台藩医。

■高山彦九郎・1747〜1793年・上野国新田郡細谷村の郷士高山家の2男。18歳
の時家を出て各地を遊歴・勤皇論を説く。
■小宮山楓軒・1764〜1840年・水戸藩士・儒学者・民政家・立原翠軒)に学ぶ。,
■大窪詩仏・1767〜1837年・多賀郡大久保村・漢詩人。江戸で山本北山に学ぶ。
■長島尉信・1781〜1867年。
■会沢正志斎・1782〜1863年・水戸藩士・藤田幽谷に学ぶ。
■市毛幹規・?〜1848年・水戸藩士・石川桃蹊・小宮山楓軒に学ぶ。
■宮本茶村・1793〜1862年・潮来村の名主・儒者。江戸で山本北山に学ぶ。
■船橋随庵・1795〜1872年・関宿藩士・学者。農政・治水について詳しく、利
根川の洪水防止と農業用水確保のため水路を作った。
■大久保要・1798〜1859年・土浦藩士・文学を松崎慊堂、兵学を竹中茂村、
平山子竜らに学ぶ。藩校郁文館の館頭。
■藤森弘庵・1799〜1862年・播磨国小野藩士・その後土浦藩士・学者。

■色川三中・1801〜1855年・土浦藩城下・薬局と醤油製造業を経営・文献考証
や郷土研究の地方文化人。
■杉山忠亮・1801〜1845年・水戸藩士・古賀精里、藤田幽谷に学ぶ。彰考館総
裁・高山正之伝を著す。
■藤田東湖・1806〜1855年・水戸藩士・儒学者・藤田幽谷の息子。
■小野寺鳳谷・1810〜1866年・仙台藩茂庭氏の家臣・藩校養賢堂指南役。各地
を歩く、詩文や書画にすぐれ各地の人と交流があった。
■佐久良東雄・1811〜1860年・新治郡浦須村郷士の長男・国学者、歌人。
9歳で観音寺に入り、住職康哉の弟子となる。康哉に万葉和歌を学ぶ。康哉没後
に観音寺住職。藤田東湖・会沢正志斎・加藤桜老・色川三中らに学び交友した。
■加藤桜老・1811〜1884年・笠間藩士・尉信が子息を師事させた儒者。
会沢正志斎・藤田東湖に学んだ後足利学校・上野国・会津・仙台・土浦に遊学。
その後江戸の昌平で学び諸藩の人と交流する。
■桜任蔵・1812〜1859年・水戸藩士・尊皇攘夷運動家・藤田東湖に入門・
彦九郎の生家を訪ね遺品の大半を譲り受ける。
■加藤木賞三・1815〜1894。孫根村(城里町)の名主。
■池田勣一郎・1816〜1882年・但馬国村岡・・山名家重臣・池田家で生まれた。
15歳の頃より全国各地を遊学、33歳で帰郷・藩校明倫館教授・家老。
■松浦武四郎・1818〜1888年・伊勢松坂生まれの北方探検家。

■村上量弘・1819〜1850年・筑後久留米藩士・江戸の昌平黌に学び・会沢正志
斎に学ぶ。
■木原老谷・1824〜1883・土浦藩士・儒者・教育者・藩校郁文館教授藤森弘庵
の弟子・江戸の昌平に学ぶ。
■有馬新七・1825〜1862年・薩摩藩士・学者。
■重野安繹・1827〜1910年・薩摩藩士・漢学者・歴史家・藩校造士館・江戸の
昌平黌に学ぶ。
■安達清風・1835〜1884年・鳥取藩士・開拓者・大坂・京都・江戸・水戸に学
ぶ。頼三樹三郎・池内大学・僧月性らと交遊があった。
■矢嶋行康・1836〜1895年・国学者。信濃小県郡の人。平田銕胤に学ぶ。高山
彦九郎の遺徳をしたい,全国各地を遊歴・その遺墨遺品をあつめた。