23/1/3 ひたちなか市 国営ひたち海浜公園。
01みはらしの丘。

02古民家。和太鼓が披露されていた。

03紅梅。

04アイスチューリップ。

05アイスチューリップ。

06アイスチューリップ。

07アイスチューリップ・門松・だるまさん。

08歴史ギャラリー。

09翼のゲートをみる。

10大草原。

11大草原と大観覧車。

■ひたち海浜公園歴史ギャラリー。
以下のような説明が書かれていた。
■ひたち海浜公園の場所には以前は旧陸軍水戸東飛行場があり多くの少年飛行
兵が訓練した。その後、米軍射爆撃場となった。1973年に返還された。返還後
平和の象徴として公園が造られた。
■1939年・陸軍水戸東飛行場が開校される。陸軍の演習用・実験用射爆撃場を
付設。飛行場は当初教育飛行場・その後出撃基地兼用飛行場・更に特攻隊員養
成基地となった。多い時に600名以上の生徒がいた。特別攻撃隊員70余名が散
華していった。
■1945年・飛行場を空襲され約150名が亡くなる。
■戦後陸軍水戸東飛行場は米軍の訓練場となり水戸射爆場と呼ばれた。
■1946年〜1971年・水戸射爆場関係事故の件数。
爆弾投下114件・機銃誤射11件・墜落9件・不時着1件・落下物11件・
超低空事故1件・その他飛行機事故8件・交通事故18件・その他8件。
■1957年・米軍機による母子殺傷事件発生。
■1961年・米軍機による民家への誤銃撃事件。水戸射爆場返還推進本部を設置。
■1963年・防衛庁が水戸射爆場の代替地として御蔵島を発表。水戸射爆場返還
促進住民大会開催。
■1964年・水戸射爆場返還について臨時県議会開催。
■1965年頃・戦闘機がジェット化し飛来音はすさまじかった。
■1969年・水戸射爆場返還の閣議決定。
■1971年・水戸射爆場の演習停止。
■1973年・水戸射爆場返還。その後、訓練施設の後始末・跡地の利用計画作り。
地中の不発弾処理、兵舎・倉庫・監視哨・給排水塔の解体される。
■1975年・水戸東飛行場関係戦没者約1,000名の慰霊のため、遺族が飛行場跡
地の一画に水戸つばさの塔を建立。公園や港湾の開発が本格化する。
■1979年・国営常陸海浜公園(仮称)事業着手。
■1981年・国有財産中央審議会が国営公園用地350haを決定。
■1983年・国營常陸海浜公園基本計画決定・都市計画決定。
■1984年・国営公園つくり開始。
■1991年・開園面積70ha。
■2012年・開園面積 191ha。
■2017年・開園面積201ha。
■サツマイモ畑を自転車で走っていた母子が、超低空で飛来したジェット機の
車輪に触れ母は死亡・子供は重傷。
■民家に模擬爆弾が投下された。
■機銃弾が民家の屋根に撃たれた。
このような悲惨な事故が多数発生するようになった。陸と海を占拠する日米安
保条約は認めつつも抗議できない相手に対し、住民は怒りの声を上げた。戦闘
機からの誤射・誤爆から住民の生命と安全を守る返還運動が始まる。東海村に
原子力施設立地が進み危険が増大。米軍アジア戦略変更が加わる。
■水戸射爆場の跡地は1182ha。監視・管理用の施設を除けば草原・松林・砂地。
■みはらしの丘は水戸射爆場の的があった。返還後、大型トラック 20万台分の
土を運び・25年かけ作った。今はネモフィラ・コキアがいっぱいになった。
■米軍の演習区域は陸地・その先に広がる扇形の海域だった。射爆撃訓練は土・
日曜日を除いて朝7時〜夜8時、東京・埼玉基地の戦闘機が超低空で飛来・陸
上の標的に爆弾や機銃弾を打ち込む。陸上標的への誤爆防止に海中に標的が配
備・海に爆弾が打ち込まれた。阿字ヶ浦海岸は魚がいなくなったと言われた。
米軍の訓練内容は不明。
■水戸射爆場内部への許可無き立入は厳禁。鉄条網が張り巡らされていた。
学校の授業では騒音で声が聞こえなくなり大変だった。
■沢田川沿いの田は耕作が認められ演習休みの週末に入り耕作した。
■松林 の松葉は住民のサツマイモ栽培の苗床材に用いられていた。冬に許可を
受けて住民が松葉を拾った。
■使用済薬莢・模擬弾は住民が水戸射爆場に入り拾い業者に売却した。作業は
危険で負傷者もいた。
■4月7日に常陸二の宮静神社の神輿が浜まで来る神事があった。江戸時代には
村松大神宮から酒列磯前神社まで浜辺を6頭の馬が走り豊凶漁撈の有無を占っ
た。ヤンサマチと呼ばれた。1929年を最後に実施されていない。
■水戸射爆場の地は海岸沿いの砂丘とその背後の台地からなる白砂青松の地。
台地の一角には湧水がある。海岸沿いでは室町時代から製塩が行われ集落があ
った。この地は北東の強風・いなさが頻繁に吹く。1615〜1624年頃・大風が75
日間吹き海辺の集落が砂に埋まった千々乱風伝説がある。大半の家はこの頃に
周辺に移住した。