22/12/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
[ ]はhp制作者メモ。
■全員で正信偈を称える。
■藤井智学師 常陸太田市 青蓮寺住職。
■ご讃題。
念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあ
ずけしめたまうなり
[念仏を称えようという思いがおこるとき、ただちに阿弥陀如来は、その光明の
中に摂め取って決して捨てないという利益をお与えくださるのです]

■親鸞聖人と上宮寺開基の弁円さまの出会いがなかったら、今私がここにいる
ことはない。不思議な感じがする。
報恩講のとき本多先生の話を聞いた。氷が転じて水になる。築地本願寺の夜間
で勉強していた時に本多先生に教わった。年齢は近かった。勉強の後、先生と
生徒でいろいろと話をした。生徒には72才の方がいた。真宗に興味を持ってい
た。今やっと勉強できるようになった。その方はよく忘れてしまうといってメ
モをとっていた。
転ずる、転悪成善という言葉がある。悪業を転じて善業と成すということ。
自分に都合の悪いことが転じて良いことになってくる。
念仏の利益、老いの徳という言葉もある。
■和田稠しげし師が言っている。
老いていくと、できていたことができなくなる。
老いて徳がある。老いて功徳がある。断念する。
荷物が持てなくなってくる。
そうすると出来なくなっても断念できないものが見えてくる。
これが老いの功徳。本当にやらなければいけないことが見えてくる。
周りのおかげで生かされていることが見えてくる。
自分のやっていたことが、多くのおかげだったと思いしらされる。
出来てあたりまえがそうではなかった。決して自分一人だけでなかった。
なんまん なんまん おかげさま。なんまん なんまん おかげさま。 
生かされている。念仏は もったいない もったいない もったいない。
念仏は もったいない 世界が見えてくる。
その時、自分の姿が見えてくる。自分の身体はいただきもの。無量の寿いのち。

■曽我量深先生「幾つになった?」
聞かれた人「70才です」
曽我量深先生「前途洋々だね」
70才を過ぎたからこそ開けていく世界があるという。
当たり前に出来ていたことが出来なくなる。断念せざるを得ない。
出来なくなった自分と出会う。当たり前ということに気付かされる。
自分の力で生きていると思っていたが実はそうではなかった。
気付かないところで自分の命を支えてくれているものがある。
[東井義雄先生が言っている。
喉ちんこ。食べ物を飲み込むとき、喉の奥で気管と食道と道がわかれる。
そのわかれ道で、食べ物が気管の方にいくと窒息してしまう。そうならないように、喉
ちんこは気管の入り口に蓋をする。それで食べ物が食道に進み、胃袋に入る。その
はたらきを知らなかった。「俺が生きてやっている」と生きている私のために、生まれて
乳を飲み始めたその時から働いてくれている。「目」があって見ることができ、「耳」が
あって聞くことができる、「呼吸」や「心臓」が休みなく働き続けてくれている。
不思議なことた。「生きている」と思っていた私が「生かされていた」。
私が頼んでやって貰っているわけではない。「私のために生かさずにはおかず、とい
う大きな願いが働いている。これが仏さまだったんだ」と分かった時、どうにも頭が上
がらなくなった]
800年前の親鸞聖人の教えが伝わっている。

■青蓮寺の開基は畠山重秀。
重秀は畠山重忠の次男。重忠は鎌倉幕府の有力御家人。埼玉県深谷市出身。
深谷市には重忠が源平一ノ谷の合戦で鵯越の逆落としのとき馬を背負って
山を降りる像があるらしい。重忠は北条時政に一族を滅ばされた。重忠が戦死
した場所は二俣川(神奈川県横浜市)、矢畑ともいうらしい。
重忠は次男重秀をこっそりと逃がした。重秀は京都明恵上人のところに出家し
た。明恵上人は華厳宗・父は平重国。明恵上人は戒律を大切にした聖道門の人。
修行により菩提心を得ると考えた。法然上人の念仏の教えを批判した摧邪輪ざ
いじゃりんを書いている。
重秀は明恵上人と一緒にいたと思われる。重秀は修行をすればするほど思いが
とけなかった。悩んだ重秀は父の墓を探しに関東へ来た。重秀が常陸にきたと
き青蓮寺は天台宗瑞巌寺だった。重秀は瑞巌寺の太子堂に泊り、太子の夢をみ
た。夢のお告げにより親鸞聖人に出会い、重秀は親鸞聖人の弟子となり名を性
證と改めた。性證は瑞巌寺に再訪した。寺は荒れ果てていた。性證は嘆き境内
を整え堂宇を建て浄土真宗の寺に改めた。 
その後、性證は未明に青い蓮の夢を見たことから青蓮寺と改めた。
重秀には親鸞聖人との出会いは、念仏による煩悩を転ずる救いの出会いだった。

●親鸞聖人の師・法然上人が仏道に入った理由。
法然上人が子どもの時、押領使・現在の警察官のような仕事をしていた父が夜
襲された。父は死の間際に法然上人に「敵に仇討をするな。怨みをかうことに
なる。仏道に入り弔ってくれ」と言った。それで法然上人は仏道に入った。
父の死が無かったら浄土宗・浄土真宗は無かったのか?

■沈石寺について。沈石寺の手伝いを少しすることがある。
沈石寺開基の日野左衛門尉頼秋は、1186年に京都日野の里に生まれた。
御所の北面を守る武士だった。文武にすぐれたが、傲慢な振る舞いがあり陰口
をいわれ、常陸国青蓮寺近くの大門に流罪となった。
4〜5年後に罪は許された。周りの人に慕われた。また金を貸していたこともあ
り、京都へ帰るのを延ばしていた。
親鸞聖人が布教をして歩いていた。雪が降り日が暮れてきた。親鸞聖人は、
京都日野という同じ出身地の懐かしさもあり日野左衛門に一夜の宿をお願いし
た。その日日野左衛門は面白くないことがあったのか機嫌が悪かった。
日野左衛門は仏道修行をする者は野や山に寝るのはあたりまえ、雪や嵐を苦に
宿を求めるとは何事かと言って追い出した。
弟子は宿を探そうとするが親鸞聖人は「この場去り難し」といって門の屋根の
下で門の扉止めの石を枕に横になった。親鸞聖人は日野左衛門をここで救わな
かったら、彼は一生苦しむだろう、邪険で傲慢な態度を直して救うのが私の務
めだと考えた。冷たい西風が親鸞聖人の袂に入ってくる。親鸞聖人は、西風は
西方浄土阿弥陀如来の風。ありがたい風だと思った。
「寒くとも たもとに入れよ 西の風 弥陀の国より 吹くと思えば」
日野左衛門は寝ていた。夢をみた。観音菩薩が夢枕に立った。
「おまえは大変な間違いをしている。一夜を求めた僧は阿弥陀如来の化身だ。
尊いお方である。苦しみの世界・悪業の結果堕ちる地獄道、餓鬼道、畜生道の
三悪道を逃れたいなら今がその時だ」
日野左衛門は驚いて起きた。門のところに行ってみると、親鸞聖人が石を枕に
横になっていた。日野左衛門は親鸞聖人の身体に光明を見た。 
日野左衛門は親鸞聖人に詫びて、家に入ってもらった。日野左衛門は、親鸞聖
人の温かい言葉を聞いた。その場で頭を剃って弟子にしてもらった。
親鸞聖人が枕にした扉止めの石が親鸞聖人御枕石・石には大心海と刻されてい
る。日野左衛門が刻した。
日野左衛門は念仏の世界に入った。
1年後、雪が降った日。日野左衛門は、わが身を顧みた。1年前、親鸞聖人に出
会い暖かい言葉をきいて、感動し改心し弟子になった。なのに、1年後のわが身
の生活は何だ。だらしない生活をしている。たった1年間でこのように変わっ
てしまうわが身なのか。わが身のどうしようもないだらしなさを恥じた。
そこで、親鸞聖人のところにいき親鸞聖人の横になっている姿を木像として刻
したい旨を親鸞聖人に申しあげ許しを得た。日野左衛門が刻した。
日野左衛門が初心を忘れず念仏申す日々をおくるために刻した。
[厨子に入った40pくらいの木像・雪中枕石之御真影]木像の下には寺を訪れた
安芸の人の「親鸞聖人が寒くないように」と願われ奉納された10枚ほどの布団
が敷いてある。
■北海道80数才の女の人が参拝にこられた。念願かなって来たと言っていた。
枕石をみて、涙ながらに なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ。
口からでてきて止まらない。親鸞聖人のご苦労がなかったら念仏はない。
親鸞聖人から800年、念仏の教え、無量の命、それを思うと念仏が自然に出て
くる・・・。念仏の功徳。
日野左衛門には親鸞聖人との出会いは、念仏による煩悩を転ずる救いの出会い
だった。

■上宮寺山門前掲示板の言葉。
敵をなくする道は 自分の内に 敵を見つけることだ。

相手と同じこころが 自分のこころのなかにも ないでしょうか。
それを発見した時 相手は敵ではなく 同じ仲間であったと 気づくでしょう。

●以下hp制作者のメモ。
私の悪業を転じるのも、煩悩の氷を解かすのも、阿弥陀如来の働き。
私には煩悩を断ずる力がない。他力により断じてもらう。
阿弥陀如来の本願は かならず救うまかせよと南無阿弥陀仏のみ名となり 
たえず私によびかけます。
このよび声を聞きひらき 如来の救いにまかすとき
永遠に消えない灯火が 私の心にともります
如来の大悲に生かされて 御恩報謝のよろこびに
南無阿弥陀仏を称えつつ 真実の道を歩みます。
親鸞聖人は正信偈で言う。能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃。
信をおこし阿弥陀如来の救いを喜ぶ人は、自分で煩悩を断ち切らないまま、浄
土でさとりを得ると。