22/12/7 水戸・歴史に学ぶ会秋季移動教室。
水戸藩附家老中山家の松岡城下を訪ねて。
那珂市一乗院出発⇒高萩市松岡城跡・松岡小学校郷土資料室・丹生神社⇒
中山家墓所⇒たつご味噌⇒北茨城市五浦昼食⇒茨城大学五浦美術文化研究所⇒
那珂市一乗院解散。 ・
■高萩市松岡城跡・松岡小学校郷土資料室・丹生神社。
●●01松岡城のあった現在の松岡小学校への通り。

松岡城は高萩市下手綱にあった。かつては竜子山に本丸のある山城だった。
その後平坦部に中心を移して平城となった。現在の松岡小学校がその場所にな
る。松岡城に天守や櫓はなく、陣屋程度の規模だった。山頂に本丸を置き、麓
に二の丸御殿や家臣の住まいがあり、三の丸に役所・家臣の住まいがあった。
本丸は尾根の北西部最高地にあり標高約55m。
●●11/6/4に行った時の竜子山城御殿跡。
今回は山に入っていく道の状態が悪く登らなかった。

●●02松岡小学校入口。

松岡城跡の松岡小学校は、茨城県になる前の松岡県や松岡藩の県庁や藩役所な
どがあった。門を入るとすぐに松岡小学校郷土資料室があり、
佐川春久長久保赤水顕彰会会長の話を1時間くらい聞く。以下のような話だった。
赤水は高萩市出身の江戸時代の地理学者。水戸藩の学者に天文学・地理学を学
び・地図をつくるため情報収集や旅をした。1779年に『改正日本興地路程全図』
(赤水図)を作る・天文学をとりいれ地図に経線と緯線を書いた。実用性が高く
江戸時代の庶民に広く流通した。1821年に完成した伊能忠敬の『大日本沿海輿
地全図』は忠敬が自分で各地を歩き歩幅で測量し作った。赤水は情報を収集・
編集した編集図を作った。忠敬は測量による測量図を作った。赤水図は名所・
旧跡・温泉・港から湊までの距離が書かれ、見る人に分かりやすく丁寧に書か
れている。吉田松陰は赤水図を持って旅をしていた。伊能図は明治時代になる
まで一般には公開されていない。
●●03佐川春久長久保赤水顕彰会会長の話を聞く。

■赤水略歴。
1717年・多賀郡赤浜村の農家に生まれる。幼い時に父母を亡くし継母に育てられる。
1730年・近くの鈴木玄淳塾に通い、壮年期まで漢学・漢詩を学ぶ。
1739年・結婚する。
1741年の頃・鈴木玄淳らと水戸藩の儒学者名越南渓に師事し、朱子学・漢詩文・
天文地理を学ぶ。また、水戸藩の天文家小池友賢に指導を受けた。
1753年・松岡七賢人として水戸藩から賜金を給せられる。
1760年・奥州南部・越後を20日間旅する。
1767年・藩命でベトナムに漂着・帰国した磯原漁民を受け取りに長崎へ行く。
1768年・『改製日本扶桑分里図』完成。『新潮日本興地路程全図』完成。
水戸藩の郷士格になる。
1773年・農村で横行していた間引きを憂い啓蒙活動・間引きを減らした。
1774年・京都・大坂へ遊学・知識人と交流。
1775年・『新刻日本輿地路程全図』完成。
1777年・藩主治保の侍講となる・水戸藩江戸屋敷に居住。
1778年・治保に年貢米「再改め」による役人の賄賂・それによる農民の窮状を
書いた『農民疾苦』を命を賭け上申した。
1779年・経線と緯線が書き込まれた『改正日本輿地路程全図』(赤水図)が完成・
翌年大坂で出版。
1783年・『大清広輿図』完成。
1785年・『改正地球万国全図』完成。
1791年・江戸の水戸藩邸に留まり『大日本史』の地理志の編纂に専念。
1797年・帰郷。
1801年・赤浜村で死去85才。
●●04松岡小学校近く。

■松岡城略歴。
大塚氏はもと多珂郡大塚郷の地頭で菅俣城を居城としていたが、
1428年頃・大塚氏が下手綱に竜子山城を築き当地を支配した。
1485年・大塚氏は車城(華川町)を落した岩城氏に従属。
1502年・佐竹氏は岩城氏の援助を受け山入氏を討つ・佐竹氏は車城・竜子山城
を岩城氏へ割譲・多珂郡は岩城氏の支配下となった。
1568年・佐竹氏の多珂郡侵入時、大塚氏は佐竹勢を退けた。大塚氏は伊達氏の
南進に対抗して幾度か出陣した。
1595年・岩城領の検地を実施。
1596年・家臣の知行割替が行われ、大塚氏は折木城(現広野町)に知行替となる。
●大塚氏は下手綱に1428〜1596年・約168年間居城した。
1602年・岩城氏は領地を没収・戸沢政盛が出羽国角館から常陸小川を任じられ
た。その後、多賀郡下手綱の竜子山城主となる。石高は松岡3万3千石と常陸
小川7千石を合わせた4万石。松岡領は北は勿来の関、南は日立市成沢まで。
●●05戸沢政盛・郷土資料室にあったパネルの一部。

1606年・政盛は竜子山城を改修拡張を開始する。
1607年・竜子山城は改修され三の丸に平城が建設され山城は平山城になる。
竜子山城は松岡城と改称・領国支配の拠点となる。
1609年・中山信吉は水戸藩頼房の附家老となる。
1622年・戸沢政盛は出羽国 へ国替となる。松岡の領地は南部3万石を水戸領に、
北1万石は赤館(棚倉)領に編入された。
●戸沢氏は下手綱に1602〜1622年・約20年間居城した。
1623年・松岡の地は水戸藩領となり、松岡城は空城となる。
1628〜1772年・山間部で新田開発が行われ新田村ができた。
1646年・附家老中山信正が松岡領主となる。松岡城は荒れていた。中山氏ほと
んど松岡城にはいなかった。
1678年・光圀が大能野駒山を開設、馬産の基となった。野駒の繁殖に伴い作荒
被害が増大・農民の疲弊は急増・漁業は振るわず・特産物もなく、わずかに安
良川村・高萩村が宿場として市が立ち賑った。
1707年・中山信敏の時に太田へ知行地替え。松岡城は空城になる。
●中山氏は下手綱に1646〜1707年・約61年間居城した。
1802年・水戸藩は数村を郷・数郷を組とした。松岡嶺は、ほぼ手綱郷と中山郷
に組込まれ安良川組となる。
1803年・中山信敬の時・松岡に復帰し松岡領主となる。城下町を整備。
手綱郷と中山郷は現北茨城市域の水戸領分と併せ中山氏の知行地となった。中
山氏は松岡城跡を修補して館を建設、支配地を松岡附といい、別高支配となる。
別高とは水戸藩のうちで中山氏知行地は特別で中山氏が独自の行政を施行した。
●中山氏は太田に1707〜1803年・約96年間居城した。
1805年・中山氏の守護神で太田の館より丹生神社・天満宮を奉遷、稲荷神社と
ともに三社を合祀し三神社と称した。中山氏の遠い祖先が紀州丹生川流域の天
野村に丹生都比女命をまつったのが起源。
●●06丹生神社・拝殿扁額には三神社とある。

1816年・中山氏は水戸藩からの独立運動を開始。
1824年・大津浜に英国船員上陸事件起こり松岡軍勢が大津浜へ出動した。
1825年・館を内々城と呼称する。
1860年・松岡に就将館を創設・武士や農民の子弟が学ぶ。素読・講書・習字・
水練・馬術・砲術・弓術・槍術・剣術・居合術。
1868年・14代中山信徴の時・版籍奉還・松岡藩として独立。
1869年・中山信徴は松岡藩知事に任ぜられる。
1871年・廃藩置県で松岡藩は松岡県となる。同年に松岡県・水戸県・宍戸県な
どが統合し茨城県になる。当市域は茨城県の管轄となる。
●中山氏は下手綱に1803〜1871年・約68年間居城した。
■中山家墓所。埋葬されている人不明。
●●07中山氏墓? 

●●08中山氏夫人の墓?  台座が亀の形をしている墓。亀趺というらしい。

■たつご味噌。高萩市にある、
1854年創業。屋敷森に囲まれた庭園がある。
●●09美味しい味噌汁・味噌饅頭を頂く。

●●10メグスリノキ?

■茨城大学五浦美術文化研究所。
北茨城市五浦にある。1907年・岡倉天心は日本美術院の拠点を五浦にした。
横山大観・菱田春草・下村観山・木村武山が精進した。
●●11天心邸。現状は天心が暮らしていた頃の半分くらい。風呂棟・離屋敷・
天心夫妻の居室がなくなっている。左側に「亜細亜ハーなり」の石碑がある。

●●12亜細亜ハーなり。

●●13六角堂。六角形の東屋・東日本大震災のとき津波で流失・その後場所を変
え再建された。

天心記念館があり五浦釣人像・釣舟龍王丸などが展示されている。
■岡倉天心について。
1864年・天心は福井藩士岡倉覚右衛門の次男として横浜本町で生まれる。
本名は岡倉覚三。父は江戸藩邸詰め後、横浜で貿易商石川屋の支配人だった。
天心は幼少期より英語に親しんで育った。
1873年・母が亡くなる。天心は親戚の家に預けられた後、長延寺に預けられる。
開成学校へ入学。
1876年・父が東京で旅館を営むため天心は上京。
1878年・天心はフェノロサの日本美術研究のため通訳・翻訳などを手伝う。
1879年・基子と結婚。
1880年・東京大学を卒業・文部省に入る。・明治初年の廃仏毀釈による破壊・海
外流出から古美術品を守るためフェノロサと京阪地方の古美術を調査。
1884年・法隆寺夢殿で救世観音菩薩立像に絶賛。多くの宝物を調査・ランク分
けして国宝に指定する作業を推進・保護のための作業を進める。
1886年・文部省の美術取調委員としてフェノロサと欧州を巡る。
1887年・帰国。東京美術学校幹事・創設。
1890年・東京美術学校校長就任。横山大観・菱田春草・下村観山・木村武山を
育てる。帝国博物館美術部長を兼任。美術専門誌「国華」を創刊。
1898年・東京美術学校騒動で校長を辞任・校長職以外の肩書きも全て失う。
横山らは 美術学校を辞める。天心は日本美術院を創設。天心はインドへいく。
1903年・英国で「東洋の理想」を出版。ボストン美術館東洋部顧問になる。
1906年・「茶の本」を出版。
1907年・帰国。日本美術院の拠点を五浦に移す。
1913年・静養先の新潟県赤倉で亡くなる52才。
●●14五浦の海。

■松村任三じんぞうについて。
高萩市出身の人で松村任三という人がいる。
任三は日本の植物学の父牧野富太郎と関係がある。
1856年・任三は松岡藩家老の長男として多賀郡下手綱村に生まれる。
1870年・任三は大学南校に入学。
1876年・任三は東京開成学校退学。
1877年・任三は小石川植物園で働き・東京大学矢田部教授の助手となる。
1883年・任三は東京大学生物学科助教授になる。
1884年・富太郎は植物学を志し高知県から上京。東京大学の植物学教室を訪ね
る。そこで矢田部教授と任三助手にあう。富太郎は描きためた「土佐植物目録」
と標本を説明する。説明を聞いた矢田部教授は富太郎が植物学教室に出入りし
文献・資料を使用することを許可した。
1886年・任三はドイツに留学。
1887年・富太郎は共同で「植物学雑誌」を創刊。任三助教授は「植物学雑誌」
に文をよせる「今の日本で、植物図を描けるのは牧野富太郎ただひとりである」
富太郎は植物学者として高い評価を得て自信を深めた。
1888年・任三は帰国。
1889年・富太郎は新種の植物を発見、「植物学雑誌」に発表・日本で初めて新種
のヤマトグサに学名をつけた。
1890年・任三は東京大学理学部植物学科教授になる。富太郎は東京小岩でムジ
ナモを確認・日本での新発見で、自ら正式な学術論文で世界に報告・世界的に
名を知られるようになる。富太郎は矢田部教授・任三教授に植物学教室の出入
を禁止される・富太郎は研究の道を断たれ高知県の実家に戻る。
●●15

1893・学長になった菊池大麓が富太郎の才能を惜しみ・深い同情。矢田部教授
退任後・富太郎は任三主任教授に呼び戻される形で東京大学の助手となる。大
学職員として給料をもらい研究の場所があることは富太郎には好都合だった。
1897年・任三は小石川植物園の初代園長に就任。
1900年・「大日本植物志」を刊行するか任三の妨害で四巻で中断する。
1922年・任三は東京大学退官。
1928年・任三は東京の自宅で亡くなる73才。
●富太郎を追い出した任三自身、若き日研究に邁進する余り、周囲に対する配
慮を欠いていたことを認めている。後年、富太郎は任三が明治初頭の植物学の
第一の功労者であり、東京大学植物学教室の基礎を築いた人であると賞讃した。