22/11/20 水戸・歴史に学ぶ会 岩上二郎と妙子夫妻。
那珂市ふれあいセンターごだい。
齋藤郁子先生。
[ ]はhp制作者メモです。
●●01

[岩上二郎と妙子夫妻はともに参議院議員として活躍・二郎は茨城県
知事も長く務めた。妙子夫人は二郎を支えた。また、悩む岩上夫妻を
支えた人にビクスラー神父とアンナ夫人の存在があった]
[■1896年・米国人神父O.D.ビクスラー生まれる]
■1913年・二郎は瓜連町古徳に生まれる。父孝太郎・母とくの長男。
家は40数町歩の土地と山林を所有・醤油醸造業・運送業を営む。
■1918年・妙子は平潟に生まれる。神官の5人兄弟の末っ子。
■1920年ころ・ビクスラー神父とアンナ夫人は塩田村長沢にくる。
■1922年・ビクスラー神父夫妻は山方・塩田・小瀬へ伝道。ビックスラー神父
の巧みな茨城弁・アンナ夫人はビスケット・アイスクリームで多くの村人と接
する。
■1927年・ビクスラー神父夫妻は一時帰米。
●●02

■1930年・[ビクスラー神父は栄養状態のよくない食生活の問題に心を砕き、長
沢教会の隣にヘルス・フーズ・インダストリーという自然食品の会社をつくり
操業を始める。原料となる牛乳を得るため、常陸太田に牧場とミルク処理場を
開いた] 妙子は平潟小を卒業・福島県立磐城高女へ入学。
■1934年・妙子は磐城高女を卒業。・帝国女子医専へ入学する
■1937年・妙子の父が亡くなる・63才。
■1938年・アンナ夫人は病で帰国。
■1939年・妙子は帝国女子医専を卒業・東京警察病院耳鼻科へ入局。
●●03

■1940年・二郎は京都帝国大学法学部を卒業・ブリヂストンに入社。
二郎と妙子が結婚・東京目黒に住む。二郎は召集により戦地へ。
■1941年・妙子の母が亡くなる。妙子は東京から瓜連に移る。長男一宇が産ま
れる。
■1945年・終戦・二郎は未帰還・妙子は戦争未亡人を覚悟・医院開業届を出す。・
診療室が出来るまで家の座敷で診療をする。
ビクスラー神父はマッカーサーの招きで他の宣教師たちと再来日。伝道・社会
事業・教育・衛生・婦人の啓蒙に尽力・米国を数回往復し衣料品・粉末大豆を
調達・供与した。
■1946年・二郎が復員・青年団活動・農協運動に専念する。
●●04

■1947年・二郎は瓜連町長となる・町長職に悩む。瓜連キリスト教会伝道者菊
池政一の紹介で二郎・妙子はビグスラー神父より洗礼を受ける。2男哲郎が産ま
れる。
[敗戦直後の問題・戦災孤児を養育する施設「チルドレンズホーム」が額田に作
られた。ビクスラー神父はその開設時から創設者鈴木通夫に協力し、運営に携
わった。長沢教会兼住宅は、ビクスラー神父が帰国時にチルドレンズホームに
寄付され、ビクスラー記念館として移築された。現在も一部が保存され、使用
されている]
■1948年・長女素子が産まれる。ビグスラー神父は菊池政一の創設した養老施
設を援助しナザレ園と命名。
■1950年・ビクスラー神父は繁国良八とシオン学園を創設。
●●05

■1951年・二郎は瓜連町長職を辞める。
■1952年・妙子は瓜連町教育委員・婦人会長となる。二郎は米国ペパータイン
大学に留学・地方自治や社会福祉を学ぶ。
■1953年・二郎は米国留学を終え帰国。
■1955年・二郎は町長に復帰する。茨城高等学校長を兼ねる。
■1959年・妙子は二郎の知事選挙戦のため診療所を臨時休診する。二郎は茨城
県知事となる。妙子は診療所を後任医師に引き継。知事公舎へ引っ越す・県庁
の延長で家庭的な雰囲気はなかった。
■1958年・ビクスラー神父は御茶ノ水教会改築に和風邸宅1棟を寄贈する。
■1960年・妙子は谷田部町婦人会で初めて講演をする。
●●06

■1962年・政府は全国総合開発計画を閣議決定・都市の過大化防止と地域格差
是正を目的とした。茨城県では鹿島開発があった。鹿島に臨海工業地帯を造成、
国民経済の発展に寄与することを目的とした。以下は鹿島港にある記念碑文の
一節。
この港づくりは、だれからの要請でもない。この一帯の貧困からの解放をめざ
し、1400年前の鹿島文化の遺跡と、徳川幕政から明治初年にわたる掘割川の歴
史との・・・血の出るような農民の土地を生かそうとする農工両全の思想展開
の動機付けでもある。
■1963年・妙子はお茶の水女子大学の児童精神衛生研究生となり乳児高死亡
率・小中学校長期欠席児童増加・非行少年増加を研究した。
茨城県は鹿島臨海工業地帯・筑波研究学園都市開発・米軍水戸射爆場返還を推
進・農工両全の地域開発を目指した。
■1968年・ビクスラー神父は米国で亡くなる・72才・日本政府より50年に亘
る功績に勲四等旭日章を授与される。
●●07

■1974年・妙子は参議院議員となる。茨城県で第29回国民体育大会が開催され
る。二郎は主催者として開会宣言した。
■1975年・二郎は茨城県知事を退任・茨城県歴史館長となる。
■1976年・二郎は歴史資料保存利用機関連絡協議会を結成・会長になる。
■1977年・二郎は清真学園創立に尽力する。妙子は難病で入院。
妙子の句・死ぬなよと 夫の一言 ちちろ澄む。妙子は参議院議員を辞任する。
■1978年・二郎は参議院議員となる。参議院文教委員会で歴史資料の保存につ
いて政府の考えを問い確かめる。
■1980年・日本学術会議が文書館法の制定について(勧告)を政府に提出した。
[公文書の取扱いについての国の基本方針を明らかにし、官公庁資料の系統的
な収集、整理、保存、公開、利用の体制を確立するため、文書館法の制定を勧
告する]
●●08

■1981年・妙子は半ば人生を著作する。
■1983年・妙子は俳句同人誌かびれ第31回新人賞を受賞・続・半ば人生を著作。
1984年・歴史資料保存利用機関連絡協議会を全国歴史資料保存利用機関連絡協
議会と改称。
■1986年・国際文書館評議会・ICAに加盟。
■1987年・二郎は勲一等瑞宝章を受ける。
公文書館法が成立時の二郎。図書館・博物館・美術館の充実も大事。公文書館
も重要。公文書を整理できる学芸員が必要。
■1989年・二郎は議員在職中に亡くなる・76才。
二郎は国際文書館評議会から栄誉を受ける。
■1992年・那珂市古徳の岩上家墓所に二郎の慰霊碑が建てられる。
・・・高潔な政治家として活躍した。敬愛の哲学を説き農工両全の理念を掲げ
知事として、鹿島開発・筑波研究学園都市建設・米軍水戸射爆場返還に心血を
注ぎ、本県飛躍の礎を確立。・・・歴史と文化を大切にし、参議院議員として、
宿願の公文書館法の制定を実現・・・
副知事山本満男撰文。
■2000年・妙子が亡くなる・83才。
●●09

■ビグスラー神父夫妻は「何事にも主イエス・キリストを第一に」全て教会に
捧げる。
■二郎座右の銘は一粒の麦。新約聖書ヨハネ伝第12章・一粒の麦は地に落ちる
ことにより無数の実を結ぶと説いたキリストの言葉から。人を幸福にするため
に自らを犠牲にする人。またその行為。
■妙子の句。
蕎麦掻きの 固さ加減に 亡母を恋ふ。
団扇持つ 娘の指は 夫に似て。
指やせて 指輪くるくる 竹の秋。
妻母医師 すべて半端に 六十路の春。
草餅に 黄粉たっぷり 雨の午后
孫に甘きを 娘に叱られて 秋団扇。
孫は来てよし 帰ってもよし 松過ぎる。
●●10

■岩上家の墓に刻されている文字。 
二郎の墓・ひとつぶの麦。
妙子の墓・起されて つづき見まほし 春の夢。
■1968年・二郎のビクスラー神父の思い出記。
●町長になり農地改革に取り組む。力を尽しある結論付けをする。しかし支持
者の利益の問題になったとき・・・。 私は悩み何が正義か・何が信じ得るか私
の去就を決めなければならなくなった。私はビクスラー神父に悩みを話した。
神父により妻とともに洗礼を受けた。
●養老施設ナザレ園建設の時、議員の一部に珍しい構想・時期尚早と反対され
た。ついに菊池と相計り精神的に貧困な当時の日本人には世話にならず、ビク
スラー神父に頼むことになり種々指導を戴き、今では200名を超える施設がで
きた。ビクスラー神父の理解と協力に感謝している。
●茨城県知事になり10年、難問に直面し決意を迫られた。支配者の孤独という
言葉がある。岐路に立ったとき、その最終的な決定を下す立場にある者は孤独
だった。こうした心境にしばしば立たされた私の心を支え勇気を与えてくれた
ものは、神の声であり、身近なビクスラー神父の励ましの言葉だった。
●最大の課題・鹿島開発も既成の利権や長い歴史の中で培われてきた精神的風
土に対する新需要や思考態度との間に生ずる摩擦の解決に対決するとき、いつ
もビクスラー神父のあのにこやかな大きな顔が、私の心を支えてくれた。
●●11

●米軍水戸射爆場返還のため渡米・米国政府に陳情することになった。私の願
いでビクスラー神父は通訳を引き受けてくれた。ビクスラー神父は米国内の知
人を通じ駐日大使ライシャワー・ハワイ軍司令部・国務・防衛・上院・下院の
要人・報道陣に信仰の立場から訴えた。ビクスラー神父の努力・援助を忘れる
ことができない。
●米国の地方自治研究のためペパーダイン大学へ留学した。ビクスラー夫人が
図書館長を務めていた。ビクスラー神父夫妻には物心両面でお世話になった。
後年ペパーダイン大学から名誉法学博士の学位を戴く、渡米したとき私を自分
の子供のように喜び祝ってくれた。
■幼少期のマイナス体験が二郎を大きく飛躍させた。幼少期は虚弱体質・背丈
の低さ・左利きが積極的な意欲を欠かせていた。右利きへの矯正に努め、かえ
ってドモリとなり登校拒否となりいじめられっ子となった。転機は茨城中学校
の剣道部教師のことば「左利きを利用し右利きにすれば上達も早い」発想の転換
である。これにより、だんだんと上達しそれが喜びとなり、自信となった。 そ
れに伴い成績も向上した。二郎の政策は「マイナスからの脱却」が根底にある。
農地解放・無電燈部落解消運動・鹿島開発・筑波研究学園都市建設・米軍水戸
射爆場返還運動・田園都市構想・霞ヶ浦用水事業計画・重度心身障害者施設
コロニーの建設はすべ て貧困からの解放・マイナスからの脱却を目指した
ものである。
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[■茨城県歴史館創設。二郎の考え。
茨城県史編纂事業の手がかりは光圀の大日本史編纂にある。大日本史編纂の着
手は1657年、完成は1906年・250年かかった。個人的推論を避け事実を事実と
して明らかにしようとした。史資料を発掘・収集・整理・保存することなく歴
史の評価はできない。客観的に郷土の過去を追求・最新方法で判断・通用する。
歴史編纂は過去の事例を羅列・記録することではない。過去の事実を調べ・
先人の業績の時代的意義を覚り・現在私たちの立ち位置を見極め現状を正しく
把握する。私たちが未来に処する正しい態度を取り得る。
発掘・収集・整理・保存・調査研究・成果を展示・刊行し県民の共有財産とす
るのが歴史館。
[■公文書館法の制定。二郎の考え。
茨城県史編纂事業で県内の史料が活字化され、多くの人の目にふれる。
史料を永遠に保存する作業も必要。県史編纂と史料の保存は一体だ]