22/11/6 那珂市 「博愛の政治家たち」文明開化のあけぼのを見た男たち。
水戸 歴史に学ぶ会 秋季講演会。
谷口邦彦先生。
[ ]はhp制作者のメモです。
●●01

[明治のはじめ、佐野常民・高松凌雲・大給恒・渋沢栄一がいた。
博愛社・後に日本赤十字社、同愛社の設立により貧民救済・戦争負傷者救済を
行った。常民はパリ万国博覧会の赤十字の展示を見て敵味方の区別なく救う赤
十字精神に感動した。常民は佐賀藩からパリ万国博覧会にいっていた。
凌雲と栄一は慶喜の家臣で将軍名代昭武をパリ万国博覧会随行者だった。
常民と栄一はパリ万国博覧会で出会う]
●●02

■1820年・フローレンス・ナイチンゲールがイタリアで生まれる。
■1823年・常民が佐賀で生まれる・佐賀藩士下村三郎左衛門の5男。
■1828年・アンリ・デユナンがスイスで生まれる。
■1831年・常民は佐賀藩医佐野常徴の養子となる。
常民は佐賀藩校・弘道館に学ぶ。
■1837年・高松凌雲生まれる・筑後国御原郡古飯村の庄屋の3男。
■1837年・常民は養父のいる江戸へ遊学・古賀?庵に学ぶ。
■1839年・大給恒は江戸奥殿藩邸で生まれ・奥殿藩第11代藩主となる。
常民は佐賀に帰り弘道館で考証学・松尾塾で外科術を学ぶ。
■1840年・栄一は埼玉県の百姓渋沢市郎右衛門の長男として生まれる。
■1846年・常民は京都で広瀬元恭の時習堂に入門。
■1848年・常民は大坂の緒方洪庵の適塾で学ぶ。
常民は紀伊国で華岡青洲が開いた春林軒塾に入門。
●●03

■1849年・常民は江戸で伊東玄朴の象先堂塾に入門・塾頭となる。
■1851年・常民は長崎に移り家塾を開く。
■1952年・独国のエルバーフェルトで救貧制度ができる・地域社会単位でボラ
ンティアによる個別援助で行われた。
■1853年・常民は佐賀に帰り佐賀藩の精煉方頭人となる。
クリミア戦争始まる・露国軍対トルコ・英国・仏国連合軍。
ナイチンゲールはクリミア戦争で訓練された看護師チームを率い、現地の英国
軍の病院で活動した。
■1855年・幕府が長崎海軍伝習所を開設・佐賀藩から常民ら48名が参加。
■1856年・クリミア戦争終わる。
■1857年・常民は佐賀藩が蘭国から購入した飛雲丸の船将となる。・
■1858年・常民は三重津海軍所の監督になる。
●●04

■1859年・凌雲は江戸で幕府奥医師の石川桜所の門人となる。
イタリア統一戦争。北イタリアのソルフェリーノ村で戦闘があった。デユナン
は村で呻き苦しむ傷病者に駆け寄り手当をした。戦いが終わりデユナンはジュ
ネーブに帰り戦争犠牲者の悲惨さを伝え、ソルフェリーノの思い出という本を
書いた。傷病者は武器をもたないからもう軍人ではない。戦列を離れた人の命
は守られるべき。戦争のとき直ちに傷病者を救いにいける国際的な救護団体が
あれば、敵味方の区別なく傷病者を救護できる。看護にあたる人たちは互いに
攻撃しない約束が必要。デユナンは国際的救護団体が必要と考えた。
■1861年・凌雲は大阪の緒方洪庵の適塾に入門する・洪庵が幕府奥医師兼西洋
医学所頭取になり江戸に移る・凌雲も江戸にいく。
■1863年・常民は三重津海軍所で幕府注文の蒸気鑵を製作する。
ジュネーブで国際的な救護団体の検討が始まる。
■1864年・欧州12か国の代表が初のジュネーブ条約調印。戦地の戦傷病兵の救
護・救護者の中立性保護を規定した。条約により各国に赤十字社が創立された。
凌雲は横浜の医師ヘボン英語学校で勉強。
■1865年・凌雲は一橋家軍制所付医師となる・慶喜が将軍になると奥詰医師と
なる。
■1867年・幕府はナポレオンに敬意を表し将軍名代昭武をパリ万国博覧会に派
遣・パビリオンを設けた。凌雲は昭武付の医師として随行。常民は藩命でパリ
万国博覧会に参加・有田焼を展示販売・蘭国に軍艦を注文。
国際赤十字がパビリオンを設け医療器具・救急車を展示、各国に協力を訴えて
いた。常民は展示を見て敵味方の区別なく救う赤十字精神に感動した。
常民と栄一はパリ万国博覧会で出会う。
凌雲は昭武が欧州巡歴からパリへ戻ると職務を解かれ留学生としてパリ市民病
院ホテルデユーで医学を学ぶ・下宿で家庭教師に語学を学ぶ。
●●05

■1868年・常民は帰国。
凌雲は鳥羽伏見の幕府軍敗戦を聞き学問をやめ外科道具・顕微鏡を持ち帰国。
凌雲は軍艦開陽丸で品川を脱出・函館で病院を開設・函館戦争が激化し病院に
運び込まれる怪我人を敵味方の別なく治療した。凌雲は赤十字社の精神で病人
の命を救い敵味方から尊敬された。
■1869年・函館戦争終わる。
■1870年・普仏戦争。フランス帝国対プロイセン王国。
■1871年・ドイツ帝国成立・普仏戦争終わる。
■1873年・常民はウィーン万国博覧会に政府派遣団責任者として参加。
■1877年・西南戦争・明治政府軍対薩摩軍の戦い。
常民と大給恒は多数の死傷者が出る悲惨な状況に救護団体による傷病兵の救護
の必要性を感じ博愛社を設立。博愛社の救護員は現地に急行・両軍負傷者の救
護にあたる。
●●06

■1880年・栄一は博愛社社員に加入。
■1883年・常民は大日本私立衛生会会頭就任。
■1886年・日本が万国赤十字条約に加盟。
■1887年・博愛社を日本赤十字社と改称・常民は初代社長に就任。
■1888年・日本赤十字社が磐梯山噴火災害に救護班を派遣。
■1891年・日本赤十字社が濃尾大震災に救護班を派遣。
■1894年・日本赤十字社が日清戦争で戦時救護のための救護班を派遣。
■1899年・日本赤十字社が管理する病院船博愛丸・弘済丸が完成。
■1902年・常民亡くなる・80才。
■1908年・栄一は日本赤十字社の機関誌に説いている。
「パリでパリ市民に声をかけられチャリティーバザーを初めて知った」
「帰国後しばらくしてから慈善事業をするきっかけとなった」
「人助けをするにも金が必要。金持ちはその金で何をするかが大切だ」。
高松凌雲は、野にあって貧民救済の為の同愛社を運営しているが、栄一はその
応援を続けた。
■1910年・ナイチンゲール亡くなる・90才。大給恒亡くなる・72才。
デユナン亡くなる・82才。凌雲亡くなる・80才。
■1923年・関東大震災・栄一は義援金大震災善後会の企画者として救済活動・
国民の共感の結集が大きな力になることを実証。 赤十字運動の理念と一致する。
■1931年・栄一亡くなる・91才。
●●07

■常民が博愛社を設立し凌雲に協力を求めた・凌雲は陸軍管轄を理由に協力を
断り町医者に徹した。
■凌雲は貧民救済を目的とする同愛社を結成し社会事業に貢献した。
栄一はその応援を続けた。
■凌雲は慶喜・昭武への恩で昭武の家族の脈を取り続けた。
■栄一は博愛社の支援者だった。常民が栄一に直接協力を依頼した。
■ピクテの赤十字諸原則・基本諸原則・人道。赤十字は苦痛と死に対して戦う。
赤十字は人間がすべての場合において人間らしく取り扱われることを要求する。
●●08

■社会福祉。
[国民の医療・教育・職業の保障を含む社会的方策。生活困窮者・身体障害者・
児童・老人の保護方策。対象者が自力で生活できるよう必要な生活指導・更生
補導・援助育成を行なう]
■相互扶助。
生活困窮者を救済・援助する。共通の信仰をもつ人・同じ地域の人・同じ職業・
共通の生活不安をもつ人の間で極端な生活困窮者を救済してきた。救済する者
は他人の苦痛を自分の苦痛と感じ自然に生活困窮者を援助する。
701年大宝律令。「自存しわざる者は近親をして収容せしめ、もし近親なければ
坊里に伏して安じゅうす」
中世欧州では同業組合・英国友愛組合。
■慈善事業。
他人への援助は宗教的動機による慈善事業があった。19世紀からは金持ちの博
愛活動もあった。
宗教的慈善事業は、施しを与えるものは神の恩恵を受ける。 慈善はこれを施す
者の幸福であるといわれた。貧困者の救済が施与者の必要から生まれた。
相手が施しを望んでいるか・必要としているか・相手にどんな影響を与えるか
を考えていない。
■産業革命により起きた社会問題を解決しようとした。
富める商人・工場主は病院・学校・ 図書館に寄付する。持てる者が持たざる者
に与える。 上から下に施す事業。
直接生産性の能率をあげるために、工場主は労働者に集会所・住宅・賞与金を
与え・労働条件の緩和に努力。
貧困が当時の社会経済制度から必然的に生み出された結果であることを理解し
ないで、金持ちの商人や工場主の婦人は、単純な感傷・気まぐれから貧民街を
訪れ贈り物をする。
身分高く生まれたものは、高潔にして寛容な行為をする義務がある。
博愛事業の本質は、個人の善行という道徳的基礎の上に立っている。
何が善行かは善行者個人の道徳的良心が判断する。無制約的な善行者個人の自
由意思博愛行為の基礎をなしている。これは社会福祉とは異なる。
博愛主義者は自分の経済的、社会的優越性を保持することにつとめ、みずから
の道徳的優越性をも主張する。
近代的社会福祉は、サービスを与える側の者と、そのサービスの対象者との間
に道徳的優劣を持ち込まない。