22/10/16 水戸 歴史に学ぶ会 水戸藩 慈愛の郡奉行 小宮山楓軒。
仲田昭一先生。
[ ]はhp制作者メモ。
●●01

[小宮山楓軒・1764〜1840・立原翠軒に学ぶ。彰考館で16年間大日本史編さん・
その後紅葉組郡奉行を21年間務める。善政は領民から慕われた]
■藤田東湖の和文天祥正気歌に或殉天目山、幽囚不忘君とある。楓軒の先祖・
小宮山内膳は勝頼家臣の長坂鈞閑・跡部勝資と口論し勝頼に禄を剥がれ蟄居と
なった。勝頼への不平を言わず謹慎した。
■1582年・勝頼は信長に攻められ天目山に逃れる。内膳は勝頼の下に駆けつけ
許しを得て奮戦し戦死する。この時、長坂・跡部は老臣らと逃亡し、勝頼の
従者は43人だった。これを後で聞いた徳川家康は内膳の忠節に感じ入る。
●●02

■1749年・楓軒の尊敬する寺西封元は安芸国浅野家の旧臣寺西家に生まれた。
■1764年・楓軒は水戸で生まれた。楓軒は父東湖から内膳殿が天目山で殉じた
心を心として忘れるな・主君に誠を尽くすを最善とせよと幼少から教えられた。
楓軒は毎年正月に武田信玄の画像を床に掲げ礼拝した。父東湖は彰考館に勤め
た。楓軒は父東湖から酒と囲碁を40才まで禁じられた。楓軒は生涯酒と囲碁を
やらなかった。
■楓軒の母は手綱村の細金佐野。佐野は早く母に死別、祖母に育てられた。
祖母は行儀良く常に端座していた。父は誠実な人だった。佐野は誠実・勤勉で
使用人に慈悲深く食物は上下の区別がなかった。東湖が中風になり看護のため
熟睡せずに3年を過ごした。
●●03

■1772年・寺西封元は幕臣となる。
■1777年頃・楓軒は太平記を読み楠木正成を尊敬する。水戸吉田神社に願を
たてる。 君侯の武運長久・両親の息災延命・軍法で名を立てる。
■1779頃から楓軒は立原翠軒に学ぶ。
■楓軒は兵学・剣術・弓術・馬術・槍術・砲術・居合いを学び免許印可を得た。
剣術師匠の教え。剣術の免許を得たとは人に斬られるほどの腕前になったこと。
更に学んだら人を斬っても人に斬られない。免許を得られない者は自分が及ば
ないことを知っているから人に斬られるようなことはしない。だから免許を得
た者が人に斬られる。
●●04

■1783年・楓軒20才・楓軒は外出時に父に挨拶する。父の返事に元気がないと、
門を出てから戻った。家の者が父に言った。父は「戻って来るな。早く行け」
と言った。それを聞き安心して家を出た。父は58才で亡くなる。楓軒は父の
あとを受け彰考館勤務となる。刻苦読書・精力人に絶す。その敏ぶりは後進の
及ばないところといわれた。
■1786年・彰考館総裁が立原翠軒になる。楓軒は翠軒を補佐して活躍した。
■1789年・楓軒26才・稲垣平之允の娘香16才と結婚する。
■1790年・楓軒は藩主治保の侍読となる。国史を講義。
黒羽藩執政鈴木武助を上野国の高山彦九郎が訪ねた。彦九郎は武助に奥州の
天明の飢饉の惨状を話した。武助は衝撃を受け急ぎ、飢饉之憂い・天災地変の
事・餓死人の事・貯穀・農業全書を読む事など10ヶ条にまとめた農民懲誡篇を
作った。
■立原音吉は久慈郡岩手村佐兵衛の子。父が病気のとき日夜看病にあたり孝子
として評判となる。天下野の木村謙次が孝子立原音吉傳を書く。
■1791年・治保は孝子立原音吉傳を読み音吉を太田で表彰した。画工に肖像を
描かせ「共養不怠 出于具類 誠事親孝子不匱」と書いた。鈴木重宣に音吉の
伝記を書かせた。
楓軒は木村謙次の孝子立原音吉傳を読み書孝子音吉傳後を書き、音吉と表彰し
た治保の徳を称えた。
●●05

■1792年・寺西封元は陸奥の天明の飢饉後の農村復興のため白川郡塙代官にな
る。その後小名浜・桑折などの天領を管轄した・代官在職36年。
■1793年・寺西封元は塙代官の時に寺西8箇条を領内に配布、農村の教化に努めた。
[■1ケ条・天は恐るべし。毎日人の心を天は見ている。良い事をする人には、
どこかで恵みがある。悪いことをする人は罰にあたる。恐るべきことです。
■2ケ条・地は大切。人々の食物・着るものは地より作られる。地を粗末にする
と自然に罰になる。食物にも困ることになる。少しの地でも大切にすること。
■3ケ条・父母は大事。人並に育ち働く身体になったのは父母のおかげ。面倒を
みてもらい養ってもらった。父母の大恩限りなし、大事にせねばならない。
■4ケ条・子は不憫で可愛い。子を不憫で可愛いと思うのは生きてるもの皆同じ。
1人の子ても、5人でも皆我肉を分けた子。皆同じく大事に育てる。年老いては
子や孫以外は頼れない。子を粗末にすれば、天の理にそむき悪いことになる。
■5ケ条・夫婦むつまじく。夫婦は天地自然の道なり。夫は女房を不憫に思い頼
みにする、女房は夫を大事にし夫の心に背かない。一生睦しく暮すこと。
■6ケ条・兄弟仲よく。兄弟は前後に生れた違いで同体なり。仲よくし互いの力
になるべき。
■7ケ条・職分を出精。田畑の耕作など百姓のすべきことをいつも油断なく精出
すこと。精出せぱ諸事整い段々に栄える。油断すれば貧乏し苦労する。衣類・
食物など贅沢せずに倹約すること。
■8ケ条・諸人愛嬌。人に憎まれては災・苦労が絶えない。相互に情深く美しく
世を渡る事を心掛ける。難儀な事・腹立つ事を勘忍し愛嬌をもつこと。
■8カ条を心掛け守れば人の道にかなう。子孫まで栄える。守らない者は改めの
上急度とかめを申しつける。
●●06

■1799年・楓軒は政治・経済・民政について持論を提言・家老中山信敬に認め
られ、南郡の南野合組14か村の郡奉行になる。
■1800年・楓軒は紅葉村の陣屋に移った。組名は紅葉組と変えた。楓軒配下の
西野孝平が楓軒について書いている。
■朝は日の出前に起き・手水・うがい後机に向かう。夫人・子供が起床し挨拶
する。子供は楓軒に挨拶後就寝する。
■夜中は枕元へ留火に付け木を添えて寝る。用があり起こそうとすると、2度め
には起きる。外泊時は必ず大小刀を脇に置いて寝る。
■茶付けは食べず強飯を食べた。美食を嫌い粗食を好んだ。常に一汁一菜で
三膳の量は守る。珍膳でも多く食べず。三度の菜は、皆に等分に配分した。
珍魚の類が少ない場合は自分の分を減らし皆に分けた。
■任地の村は 痩せ地が多かった。農民は酒におぼれ・博打をし働く意欲に乏し
かった。かなり貧しかった。楓軒は農民の実態調査のため村をまわり教化に努
めた。寒中に夜具もなく老母を凍えさせ、綿入れもなく裕を着ているのみの母
親、その子に着せる物もない。哀れに思いよく事情を調査し、藩へ申しでて
夜着・布団・綿入・子供 には花絞りの綿入を仕入れた。母子等に与えた。
老婦は数珠を持ち神仏へ詣でた如く涙を流して楓軒を拝したとか。村の農民は
楓軒に帰依していった。
●●07

■1802年・郡制改革により支配地域が4郡から11郡になり、郡奉行は城下から
郷宅勤めとなる。農民と意志の疎通がよくなり、善政をめざす藩主の意向が行
き届くはずだった。
楓軒は文章と絵入れて絵入寺西8箇条を作り村に配布した。文字の読めない
農民に対し教えを絵で教えようとした。8カ条を心掛け守れば人の道にかなう。
子孫まで栄える。守らない者は改めの上急度とかめを申しつけると村に伝えた。
この教えが直ちに効力を発揮したわけではない。
■1803年・治保から楓軒に改革は急がずに人心の教化に努めよとあった。
■1805年・郡奉行達の郷村触れ案文に焦りが見える。
郡制改革3年後も博打・放蕩の悪事は減らない。孝行・貞節で表彰される者も
あるが数は少ない。成果が上がらないのは我々の農民に対する努力が足りない
からであり、 誠に申し訳ない。
懸念は楓軒治下の紅葉郡では徐々に薄れていった。
■1808年・行方郡冨田村羽生惣助は農民懲誡篇の写しを入手・楓軒の許しを得
て近隣の村へ配った。
■1809年・常陸太田三才村鈴木成允が農民懲誡篇を写した。
楓軒の母の病気が重くなり楓軒は昼夜枕辺に付き添い看病した。団子をもらい
楓軒はその一つを母の口に勧めたが食べられない。口の中に含んでいる団子を
母の口に手を入れてだし自分で食べた。幼い子が口から出したものを親が食べ
るのと似ている。母佐野が72才で亡くなる。楓軒は母の遺骸を亡父の坂戸墓所
へ埋葬したかったができなかった。天界寺へ埋葬した。天界寺は紅葉陣屋から
遠く生井沢村薬王寺に遺髪を埋めて仮墓をつくった。
■1810年・長谷川藤三郎が農民懲誡篇を写した。
■1811年・農民懲戒篇は農諭として刊行され、周辺の村々に広く配布された。
●●08

■1820年??・楓軒は郡奉行を辞めて水戸に戻る。楓軒との離別を惜しむ農民の
姿に楓軒の善政がわかるという。楓軒は吉田明神に参拝、治めた地域の領民が
25,000人余りになり3軍の将と似ているので祈願が叶ったと感謝した。
■1827年・寺西封元は桑折陣屋で亡くなる。
楓軒は入江正身・酒井喜昌らと鳴子温泉へ湯治にいく。楓軒は寺西は慈悲者で、
育子は重視していたがと民に問う。民はそれは昔のこと、今はそれにあらずと。
楓軒は嘆き驚く。しかし、相馬領の熊川では、違う驚きと喜びとなる。帰途に
桑折に行き寺西封元のことを問う。既に寺西の発喪があって帰一寺に埋葬し、
100箇日の法会も済んでいた。寺西とは30年来の知己にして手紙のやりとりも
絶えない関係だった。是非とも墓参をとの思いであった。
楓軒の寺西封元に対する敬意と哀惜の念が表れている。

■藤田東湖が小宮山楓軒を理解した逸話。
■1836年・藤田東湖は側用人に登用された。斉昭は天保の改革を逡巡する楓軒
の姿勢を「姑息にて有為の念なし」と嘆いた。東湖は「楓軒は一国の老成にて
人望の帰する所なり。その学術・人物議すべきものなきにあらずといへども、
江水執政の信用する所なり。されば、これを疎んじ執政らの望みを失うよりは、
少し顔色をかし玉い、議論を尽させても亦人君の御職なるべし」と、藩主とし
ての度量を求めた。楓軒の人望の厚さを認める東湖であった。
■1840年・楓軒亡くなる。
楓軒は農村の実態を見て民心・民福に視点を置いて民政に務めた。
両親・家族への孝養と同様に領民への愛情と実践力があった。
奉行をやめて水戸に帰って家をなおそうとしたとき、紅葉組郡のひとがそっと
届けてくれた木材が楓軒の家の前に朝あったという。
[小宮山楓軒顕彰碑が鉾田市紅葉の陣屋跡にあるとのこと。
碑はかなり高い 3m??。講演会場に拓本が掲げられた。
楓軒が紅葉陣屋を去る際に詠んだ詩を刻している。
楓軒の自筆らしい。楓軒の書いた書物から採ったようだ。
字は丁寧な行書体に思えた。
「辭紅葉廰即事 楓軒
静観天地氤?いんうん中 万物生々造化工
二十年来作何事 庭前養得一株楓」
と書かれているらしい。
紅葉の地を離れる時の気持を詠んだ。
静かに思うに 天地の活力は盛んで 
すべての生きている物は活動が活発である。
私は20年間紅葉組の地で何をやってきたのだろうか。
庭にある一本の楓の樹木を育てただけではなかったのか。
といった意味か?? 控えめな楓軒である]
●●09

■吉田松陰は、民の心を掌握し、勤労意欲を高めるには、各人の力を十分に発
揮せしめると共に、民の生活の保障・福祉・教育の向上に務める。西洋先進国
は整っている、是は是非見習うべきであるという。松陰は民政も腐心していた。
■新聞に掲載された記事。7年間母の在宅介護をした。恩返しをさせてもらった。
母が夏の暑い日突然いなくなった。その日から母の介護が始まった。
母の失禁への応対。いつしか3人の娘も私の対応を真似て手伝ってくれた。
3人の娘は時々母を車イスで散歩してくれた。母が亡くなるとき3人の娘は病室で
童謡を1時間歌い続けた。3人の娘の歌を聞きながら母は亡くなった。野辺の送りに
3人の娘は海近くで育った母に浜辺の唄を歌った。