22/8/7 水戸 歴史に学ぶ会 ロシアの南下と水戸藩。
仲田昭一先生。
[ ]はhp制作者メモ。
●●01
■1685年・光圀が蝦夷へ快風丸派遣。航海は悪天候で中断。
■1686年・光圀が蝦夷へ快風丸派遣。松前藩の反対で引き返した。
■1688年・光圀が蝦夷へ快風丸派遣・目的は蝦夷反乱の実態調査・殖産交易の
可能性探索・義経伝説調査。[快風丸蝦夷聞書。船出・松前で松前藩に蝦夷地
探検の許可を求めた。商船扱いで石狩までの航行を許される。6月石狩河口到着・
約40日間停泊・周辺調査。約940人のアイヌに酒を振舞う。多くの鮭が船の
櫓にあたる。生鮭100本を米1斗2升と交換。アイヌは川端に住む。両岸は木
が茂り往来は船で行う。アイヌの村に1人の大将・石狩川流域惣大将が1人いる。
干鮭を細かく切り湯煮して鮫の油をかけ指で食べる。生鮭は氷頭部分を食べる。
熊笹でふいた家は水生植物を編んで囲み1か所開けて出入りする。
夜は家族が1ケ所に寝る。家の中に囲炉裏を掘り木を燃やす。船が難破漂着し
この地に留まりアイヌ人を妻として居住する和人が10数人いる]
シャクシャインとの戦い後、松前藩はアイヌから刃物・武器を没収した。
12月・快風丸は熊皮・干鮭・塩引鮭・ラッコ皮・トド皮を積み那珂湊に帰港。
■1779年・カラフトを北蝦夷と改称。
■1787年・仏国ペルースは欧州人初の宗谷海峡を発見する。立原翠軒が幕府
松平定信へ3大患、露国の蝦夷南下・一向宗・朝鮮使節待遇を建白する。
■1789年・クナシリのアイヌ反乱・商人飛騨屋の不正。米国捕鯨船団が太平洋進出。
藤田幽谷が高山彦九郎から露国南下の予想を聞く。木村謙次が足民論を書く、
農村改革策に間引き禁止・郡方役人山横目の不忠打破・賄賂流行是正・
学者の不正・役人への学問奨励・・・農政の混乱は為政者の学問不足。
■1790年・木村謙次の足民論を藩主治保に呈上。孝子音吉伝を撰す・
積善の家必ず余慶有り。
■1791年・藤田幽谷の正名論。
10月・本村謙次が高野昌碩の書を読み師立原翠軒に北辺警衛を懸命訴状。
■1792年9月・露国ラクスマンが大黒屋光太夫を伴い根室へくる。松平定信は
伊豆・房総・相模沿岸を巡視、番所設置・露国開国要求への備え。藩主治保は
立原翠軒に対策尋問の親書。フランス革命でパリ共和制。
■1793年1月・藩命で木村謙次・武石民蔵・エゾ地探検・北行日?を書く。
■1794年・露国植民団ズウェズドチョトフら58人がウルップにくる。
■1797年・藤田幽谷の丁巳封事、ロシア南下を警戒・藩政改革実現を。
●●02
■1798年・鯉淵幸蔵を松前へ派遣、交易促進を図る。近藤重蔵・最上徳内・
木村謙次が千島諸島へ・日本恵登呂の標柱を建立する。本村謙次の蝦夷日記。
「右の如く刻し、夕方リコツクに建つ、建て終り又七翰墨不朽、信じて・・・」
アイヌ人12名は日本名を与えられ記されている。島南端ペルタルペ丘に建立拝、
寛政10年戊午7月 大日本恵登呂府 近藤重蔵・最上徳内・善助・金平・孝助・
唐助・弟助・勘助・従者下野源助・武助・藤助・勇助・阿部助・只助・太郎助。
■1804年・露国レザノフが長崎来航・貿易開始は武力行使以外にないと決意。
露国植民団ズウェズドチョトフらウルップを退去。
■1806年・露国フォストフが樺太・択捉を襲撃。間宮林蔵ら防戦。
南部藩・津軽藩・仙台藩・会津藩・秋田藩・庄内藩へ警備出動命令。
■1807年・幕府が全エゾ地直轄。近藤重蔵が西エゾ探検。露国のエトロフ襲撃続く。
7〜10月・水戸藩は秋葉友衛門・奥谷新五郎をエゾ派遣・フォストフ事件を調査。
報告書・北遊記。
■1808年・間宮林蔵・東海岸北上、松田伝十郎・西海岸北上の樺太探検。
藤田幽谷の戊辰元旦の詩・攘夷の警鐘決意・那珂市蒼龍寺本堂内陣柱に墨書。
8月・フェートン号事件・英国軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げ
長崎港に侵入・オランダ商館から食糧・薪水を奪った。
■1810年・間宮林蔵の東韃紀行・北蝦夷図説。
■1811年・ゴローニン事件・千島列島測量中の露国軍艦ディアナ号艦長
ゴロヴニンらが国後島で松前藩に捕縛された。
■1820年・米国・英国捕鯨船団が日本近海の捕鯨漁場を見つける。
■1821年・幕府は松前に樺太など北方を一任する。
■1823年・那珂湊沖へ異国船現れる、那珂湊・大洗・川尻・小木津沖で漁船員が
異国船より酒・菓子をもらう、青山延于・杉山復堂が派遣される。
■1824年5月・大津浜事件・水戸藩領の常陸大津浜に英国捕鯨船員12人が上陸、
水戸藩は12人を捕え会沢正志斎・飛田逸民が取り調べを行う・会沢正志斎の諳夷問答。
■1825年2月・幕府異国船打払い令。
会沢正志斎の新論・変通論から時務策開国論へ。吉成信貞は海防のため川尻詰。
■1828年・シーボルト事件。オランダ医師シーボルトが帰国時、所持品に国外
持出禁止の日本地図があった。地図を贈った高橋景保ら10数名が処分された。
■1832年・吉成信貞の海防上書・開国論。
●●03
■1833年・斉昭は山野辺の那珂湊土着を考える。斉昭は老中大久保忠真に
蝦夷地開拓願書を提出する。
■1834年・斉昭はエゾ地拝領願いを提出。斉昭は銚子を譲渡受け山野辺の土着を考える。
斉昭の考え、水戸藩は北国抑えの任・赴任のため隠居も可・大船建造解禁・士分の2男・3男を
土着・死罪者一等減じ遠島者とし移し開拓・ヤソ教でなく鹿島明神で精神修養。
■1836年・那珂湊に砲台を築く。山野辺義観が助川へ土着・助川海防城。
■1837年・モリソン号事件。日本人漂流民7名を伴い、通商を求めて来航
米国商船モリソン号を幕府が異国船打払令により砲撃し退去させた。
■1838年・斉昭は大内清衛門をエゾ地へ派遣。斉昭は幕府へ大船建造解禁願い。
■1839年・吉成又右衛門の大船建造準備。
●斉昭の北方未来考、吉成信貞・大内清衛門を派遣し経営者にする、
石狩川流域に築城、南部・津軽より牛馬を移動、農兵を仕立て海防警備の
年番制・海岸までの烽火制と関所を置く、蝦夷人への教育・敬意と日本人化、
育子館設立と養子の容認、国名は蝦夷日出国、分割数カ国設置・入植心得・・・。
●斉昭の山海二策、本朝66ヶ国、壱岐・対馬を入れて68ヶ国なれば、松前・
蝦夷西はカラフト・東はシコタン等、北は千島よりカムサッカまでを北海道と
定、新たに国名御附に相成、粒立たる島へは夫々連枝を取立候はば、後世蝦夷
の防禦も行届、徳川家も数々出来可申との愚案也・・・。
大国の 力見せばや 我手もて 石のカラフト 開とそ思ふ
北海道は松浦武四郎命名説、斉昭と武四郎の交流を考えると武四郎は斉昭の
影響を受け北海道の名称があったか?
■1844年・斉昭隠居謹慎処分。松浦武四郎は東蝦夷地を巡検・帰途会沢正志斎を訪問。
■1846年・伊豆韮山代官江川太郎左衛門が伊豆七島を巡検し海防意見を提出。
松浦武四郎は蝦夷地再航。英国軍艦・仏国軍艦が琉球に来航。米国捕鯨船員7名が
エトロフ漂着。米国東インド艦隊ビッドルが浦賀に来航し通商を要求。
仏国インドシナ艦隊セシュが長崎に来航し薪水給与・漂流民保護を要求。
孝明天皇は幕府へ海防厳の勅論・海防勅論。幕府は外国船来航状況を朝廷に
伝える・文化度に倣い。
●●04
■1853年6月・米国ペリー来航。帰途に琉球を威嚇、貯炭所建設権利獲得。
7月・斉昭が幕府海防参与になる・海防愚存。藤田東湖は水戸藩海防掛となる。
露国ニコライ1世の東方進出策・露米会社に樺太占拠命令。斉昭は豊田天功に
露国の考え・北蝦夷の考え・千島の考えの調査・提出を命令。天功の父信卿は
木村謙次に師事・天功は藤田幽谷門人・北方の関心があった。ロシア極東艦隊
プチャーチンが長崎に来航。筒井政憲・川路聖謨・原市之進応対、原市之進の
目撃談、露国軍艦プチャーチンの居室に地緯50度を日露の境界としたオランダ
人刊行の地図があった。話し合うこと数10回。樺太の境界を互いに譲らず。
プチャーチンは外国人の地図は根拠にならない。緯度は天に属し土地により画しない。
山河の形勢は度数で分画できる。以前から要請の国交樹立・樺太国境画定・
薪水食料提供に4年も待つの遅い。幕府は外国との交渉は急ぐべからず。
川路は交渉は命懸け・戦起これば命を捨てる覚悟。終日の心痛実に感服・
中々以てわが及ぶべき所に非ず。
8月・松浦武四郎は加藤木賞三に託し蝦夷日誌を斉昭に献上する。
9月・松浦武四郎は藤田東湖を訪問する。幕府は大船建造解禁する。
10月・クリミア戦争開始。[露国とトルコ・英国・仏国・サルデーニャ連合軍
との戦争]。斉昭は幕府へ大砲 74 門を献上。
11月・水戸藩へ大船建造命令。阿部正弘の艦船購入の件、外国へ人物派遣案・
斉昭は自ら赴く意志があり、中浜万次郎を招き造船・海外事情をきく。
12月・露国プチャーチンが長崎に来航・国境などを協議。
■1854年1月・米国ペリー再来航。
3月・日米和親条約締結。
斉昭は長崎で石炭供給か出交易を可とし国内交易は不可を主張。
プチャーチン再々来航。エトロフへ立ち入らず、カラフトへ手出しせず、
兵隊は引き払う・カラフトのアニワ湾以外は露国領・エトロフ以北の千島は露国領。
長崎談判以前に日本人アイヌの居住地は日本領。
3月〜8月・幕府織部正利熙ら蝦夷探検・榎本武揚が随行。
6月・斉昭の箱館上地案・有志の士を樺太へ移住させる。
7月・松浦武四郎は斉昭に蝦夷地図を献上。幕府は日章旗を日本国総船印に制定。
斉昭は豊田天功に蝦夷地の取調書提出を再度命令。
英国東インドシナ艦隊スターリングが長崎に入港。
9月・豊田天功が北島志を完成。
10月・日英和親条約。露国プチャーチンは下田へ移る。筒井政憲・川路聖謨・
岩瀬忠震ら北島志を参考に交渉。老中阿部正弘は北島志は大有用の書という。
11月・大地震津波でプチャーチンのディアナ号沈没。
■1855年2月7日・日魯通好条約が調印・択捉島とウルップ島の間に国境が
確認された。択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島は日本の領土。樺太雑居・
これまでしきたりの通り。現在2月7日を「北方領土の日」としている。
斉昭は反対・全樺太を主張。仙台藩は国後・択捉、秋田藩は北蝦夷=樺太、
津軽藩、南部藩、松前藩に警備命令。
10月・大地震後は江戸町人の北地移住を奨励する。
■1856年・斉昭は幕政参与になる。斉昭が渡米の意志を示す。出交易論。
8月・米国ハリスが下田着任。
●●05
■1857年・斉昭が海防参与を辞任。幕府は朝廷に米国との条約締結を報告する。
6月・露国がナヨロへ上陸する・駐屯の既成事実化・幕府は抗議する。
11月・越前藩士橋本景岳の日露同盟論。
■1858年・朝廷は条約調印に反対。水戸藩石狩役所を設置・慶応まで機能する。
6月・日米修交通商条約調印。将軍に慶福を決定。オランダ・露・英・仏と条約。
7月・斉昭・慶永ら謹慎。
8月・朝廷より水戸藩へ戊午の密勅が届く。露・清のアイグン条約・露国は
黒竜江・アムール川左岸を入手・沿海州は共有。
■1859年5月・英国駐日領事オールコック着任。
7月・日露修好条約。
8月・斉昭永蟄居・慶篤差控え・慶喜隠居謹慎、安政の大獄。
蝦夷地警備に仙台藩・秋田藩・津軽藩・南部藩・松前藩・会津藩・庄内藩。
米国ペンシルベニア州で油田発見、鯨油・灯油・捕鯨業が後退する。
露国ムラビヨフが全樺太領有を認めさせようと品川へ来航・幕府拒否・
下田条約での日露雑居を主張。
■1860年1月・軍艦奉行木村喜毅・勝安房ら咸臨丸で渡米。
3月・桜田門外の変。
10月・北京条約・露国は沿海州領有・亜細亜局長イグナチエフ。
■1861年2月・露国軍艦ポサドニックが対馬占領を狙う・英国船が退去要求。
8月・露国軍が対馬を退去。
11月・竹内保徳・松平康直・京極高朗・福地源一郎・福沢諭吉ら38名は、
露国との条約締約・開港延期・樺太談判に出発。英国・仏国・蘭国・独国経由
で露国にいく。交渉相手は露国イグナチェフ。
■1862年・幕府の樺太境界 50度説。オランダが幕府に献上した世界地図に
樺太50度を境に北が青色、以南は日本と同じ色となっていたので幕府は
樺太境界を50度とした。
8月・露国ペテルブルク会談。
9月・榎本武揚・内田正雄・赤松則良・加藤弘之ら16名がオランダ留学。
モール信号機研究・開陽丸注文。榎本は万国海律全書を入手。
●●06
■1867年・米国は露国よりアラスカを720万ドルで買収する。
■1868年・露国はクシュンコタンへ移民200名が上陸。
堀基と岡本監輔は移民300名を募集・樺太へ送る。
■1869年5月・箱館戦争で榎本武揚ら降伏・榎本は万国海律全書を黒田清隆に渡す。
堀基は樺太島民の飢餓救済を黒田清隆に懇願・樺太経営を進言。
7月・開拓使設置・箱館を函館に改める。
8月・英国パークスが樺太放棄を勧告。水戸藩昭武が蝦夷相応地の分割を希望請願・
天塩国が許可される、苫前・天塩・上川・中川・麟島。希世之御大業と
喜び開拓希望者を募る。岩間金平・郷士西丸帯刀・五藤謙次郎・清水尚兵衛・
川崎八衛門らを派遣する。太政官布告734号・蝦夷地を北海道と改称し
11ヶ国に分け国名・郡名を定める。
■1870年2月・政府は樺太開拓と露国の南下に備え樺太に開拓使を設置。
3月・水戸藩昭武が北海道へ出発。西丸帯刀の後水戸より4戸入植
3町8反4畝11歩開拓。水戸藩からの出稼ぎ者310人。
5月・黒田清隆が樺太開拓次官になる。
7月・黒田清隆に樺太事務全権委任。
8月・英国パークスは日本が樺太問題仲介を米国に依頼しを怒り樺太放棄を勧告する。
9月・黒田清隆は樺太で露国ウェルチュクと会談。日露両国民の協業・和睦を
約束する。黒田清隆の視察報告。樺太雑居の形勢はあと3年は待てない。
米国パークスも同案。上策は樺太放棄・中策は第二境界面定・
下策は雑居が困窮して後に放棄。水戸藩昭武が北海道から帰藩。
11月・黒田清隆を欧米へ派遣。
■1871年6月・黒田清隆は米国ケプロンら招聘し帰国。北地開拓意見を上奏。
樺太より北海道開拓を重視。米国のアラスカ買収は意義少いと考えた。
7月 廃藩置県。
8月 水戸藩は北海道の開墾地を開拓使へ返上。樺太開拓使を開拓使に合併する。
11月・副島種臣が樺太を200万円で買収する案・大隈重信は同意・国内不可論。
■1872年1月・榎本武揚特赦で出獄・親類宅で謹慎。
3月・榎本武揚放免となり北海道開拓使に任官する。露国ビュッオフ来日。
副島の買収案とビュッオフの千島・樺太交換案。
■1873年5月・黒田清隆が樺太放棄を建議する。
6月・堀基は黒田清隆に樺太出兵を建言する。
8月・西郷隆盛の朝鮮派遣・朝鮮派遣使節を閣議決定・平和的な交渉。
10月・岩倉具視らの国内政治優先の主張で朝鮮使節派遣は無期延期になる。
●●07
■1874年・日露境界日本政府案、雑居止め境界設定・ウルップ以北と樺太交換・
樺太売却しウルップとその北2島を取る。
■1875年5月・千島樺太交換条約・サンクトペテルブルク・露国ゴルジャコフ
対榎本武揚・南樺太の権利喪失・樺太在住アイヌ人は北海道へ移住、・北方4島、
歯舞諸島・色丹島・国後島・択捉島は日本固有の領土。
■1904年2月・日露戦争始まる。
■1905年9月・ポーツマス条約・N 50以南南樺太を回復する。日露戦争終わる。
10月・桂太郎首相と米国ハリマンの満鉄共同経営覚書も閣議で取消しとなる。
■1917年3月・ソビエト政権樹立。
■1920年3月・ニコラエスク事件。アムール川河口のニコラエフスクを
パルチザン部隊が日本軍守備隊を殲滅・老若男女数千人の市民を虐殺した。
■1925年1月・日ソ基本条約。ソビエトはポーツマス条約の効力存続を認める。
■1941年4月・日ソ中立条約調印。
■1945年2月・ヤルタ秘密会談・ソ連の太平洋戦争参戦条件は
樺太南半分返還・千島列島の譲渡。
7月・ポツダム宣言発表。
8月・ソ連が日ソ中立条約を破棄・参戦通告。ソ連が南樺太へ侵入。
太平洋戦争終わる。ソ連軍シュムシュ島砲撃・上陸・停戦協定・
日本の武装解除・樺太豊原市へ猛攻空襲・南樺太作戦終了・
ソ連軍の歯舞群島占拠・千島列島全体占拠。
■1946年2月・ソ連は1945・9・20 にさかのぼり南樺太・千島列島を
ハバロフスク州に編入。
■1947年2月・サハリン州に改編。
■1951年9月・サンフランシスコ平和条約第二条[c]項「日本国は、千島列島
並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した
樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を
放棄する。」
■1956年12月・日ソ共同宣言・平和条約締結後に歯舞・色丹2島を日本へ引き渡す。
■2016年12月・ラブロフロシア外相「平和条約締結は北方領土問題の解決と
同義ではない」