22/7/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
■全員で正信偈を称える。
■稲木義友師 宇都宮市 観専寺住職。
■ご讃題。
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる (浄土和讃)
■生老病死。
生・喜ばれる。老・じゃま。病・嫌がられる。死・忘れられる。
生れてこなければ死はない。

■往生礼讃偈。極楽往生を願う偈。
日没讃より。
●第一につつしみて大経に釈迦仏、阿弥陀仏の12光の名を礼讃して往生を求願
せよと勧めたまふによりて、19拝、日没の時に当りて礼す。中・下の懺悔を取
るもまた得たり。
●釈迦牟尼仏等の一切の三宝に南無したてまつる。われいま稽首して礼し、
回して無量寿国に往生せんと願ず。
[この一仏(釈尊)は現にこれ今時道俗等の師なり。「三宝」といふはすなはち
これ福田無量なり。もしよくこれを礼すること一拝すれば、すなはちこれ師恩
を念報して、もっておのが行を成ず。この一行をもって回して往生を願ず]
十方三世の尽虚空遍法界の微塵刹土中の一切の三宝に南無したてまつる。
われいま稽首して礼し、回して無量寿国に往生せんと願ず。
[しかるに十方虚空無辺にして、三宝無尽なり。もし礼すること一拝すれば、
すなはちこれ福田無量なり、功徳無窮なり。よく心を至してこれを礼すること
一拝すれば、一々の仏の上、一々の法の上、一々の菩薩・聖僧の上、一々の
舎利の上に、みな身口意業に解脱分の善根を得、来りて行者を資益し、もって
おのが業を成ず。この一行をもつて回して往生を願ず]

●西方極楽世界の阿弥陀仏に南無したてまつる。
願はくは衆生とともにことごとく帰命せん。ゆえにわれ頂礼してかの国に
生ぜん。
[問ひていはく、なんがゆえぞ阿弥陀と号けたてまつる。答へていはく、
弥陀経および観経にのたまはく、「かの仏の光明は無量にして十方国を照らすに
障礙するところなし。
ただ念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てたまはざるがゆえに阿弥陀と
名づけたてまつる。
かの仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祇劫なり。ゆえに阿弥陀と名づけ
たてまつる」と。また釈迦仏および十方の仏、弥陀の光明に12種の名あること
を讃歎し、あまねく衆生を勧めたまへり。称名し礼拝し相続して断えざれば、
現世に無量の功徳を得、命終の後さだめて往生を得。『無量寿経』(上・意)に
説きてのたまふがごとし。「それ衆生ありてこの光に遇ふものは、三垢消滅して
身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず。もし三塗勤苦の処にありて、この光明
を見たてまつれば、また苦悩なし。寿終りて後みな解脱を蒙る。無量寿仏の
光明顕赫にして十方を照耀して、諸仏の国土は聞えざるはなし。ただわれのみ
いまその光明を称するにあらず、一切諸仏、声聞、縁覚、もろもろの菩薩衆
ことごとくともに歎誉したまふこと、またかくのごとし。
もし衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して、心を至して
断えざれば、その所願に随ひてその国に生ずることを得。つねにもろもろの
菩薩、声聞の衆のためにともに歎誉してその功徳を称せらる。
仏(釈尊)のたまはく、〈われ、無量寿仏の光明の威神巍々殊妙なるを説かんに、
昼夜一劫すとも、なほ尽すことあたはず〉」と。
もろもろの行者にまうす。まさに知るべし、弥陀の身相・光明は、釈迦如来
一劫に説きたまふとも、尽すことあたはざるものなり。『観経』にのたまふが
ごとし。「一々の光明あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨て
たまはず」と。いますでに『観経』にかくのごとき不思議増上の勝縁ありて、
行者を摂護したまふ。なんぞ相続して称・観・礼・念して往生を願ぜざらんや、
知るべし]
●西方極楽世界の無量光仏に南無したてまつる。
願はくは衆生とともにことごとく帰命せん。ゆえにわれ頂礼してかの国に
生ぜん。以下略。

■阿弥陀経。
是の如く、我聞く。
釈尊は舎衛国の祇園精舎にいた。1,250人の弟子も一緒だった。
釈尊は舎利弗にいった。
「ここから西方へ十万億仏土を過ぎたところに極楽がある。
そこに阿弥陀仏如来がいる。今現に教えを説いている」

その国の人々は、何の苦しみもなく、楽しみだけを受けているから極楽という。
極楽は七重の玉垣と七重におおう宝の網飾りと七重につらなる並木がある。
極楽は池がある。池の中には大きな蓮の花があって、青い花は青い光を、
黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち、美しく、
香りは気高く清らかである。
極楽の人はいつも、すがすがしい朝に、それぞれの器に美しい花を盛り、他の
国々の数限りない仏がたを供養する。

極楽には白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命鳥などの美しい鳥がいる。
鳥は昼夜6時に鳴き、鳴き声は五根・五力・七菩提分・八聖道分などを説く。
極楽では鳥の鳴き声を聞いて仏を念じ、法を念じ、僧を念じる。鳥が罪の報い
として鳥に生れたのではない。極楽には地獄や餓鬼や畜生のものがいない。
鳥はみな、阿弥陀如来が法を説きひろめるために、いろいろと形を変えて
現されたものである。
極楽では美しい音楽が流れている。音色を聞くものは、だれでも仏を念じ、
法を念じ、僧を念じる心を起す。
阿弥陀如来の光明は限りがなく、すべての国を照らす。如来の寿命と極楽の人々
の寿命に限りがない。
阿弥陀如来が仏になり今日まで十劫が過ぎている。
阿弥陀如来のもとには多くの声聞の弟子がいて、みな阿羅漢のさとりを得て
いる。また多くの菩薩がいる。
極楽に生れる人々はみな不退転の位に至る。
一生補処という最上の位の菩薩たちも多くいる。
わずかな功徳を積むだけでは、極楽に生れることはできない。

しかし善良なものが、阿弥陀如来の名号を聞き、その名号を心にとどめ、
あるいは1日、あるいは2日、あるいは3日、あるいは4日、あるいは5日、
あるいは6日、あるいは7日の間、一心に思いを乱さないなら、その人が命を
終えようとするときに、阿弥陀如来が多くの聖者たちとともにその前に現れて
くださるのである。
そこでその人がいよいよ命を終えるとき、心が乱れ惑うことなく、ただちに
阿弥陀如来の極楽に生れることができる。
極楽に生れたいとすでに願い、または今願い、あるいはこれから願う
なら、みなこの上ないさとりに向かって退くことのない位に至り、極楽に
すでに生れているか、または今生れるか、あるいはこれから生れるのである。
阿弥陀如来の教えを信じる善良なものたちは、
ぜひとも極楽に生れたいと願うべきである。

■一休さんと蓮如さんの話・ババには近道・南無の一声。
年齢は一休さんが21歳上だった。
一休さんは蓮如さんに一句を詠んだ。
極楽は 十万億土と聞くからは 足腰たたぬ 婆は行けまい
蓮如さんの返歌、
極楽は 十万億土と 聞くなれど 近道すれば 南無の一声

■二つの功徳
スジャータの供養とチュンダの供養。
釈尊は2つの供養を同じと受けとめ、同時に御自身の「さとり」と「死」を
同じように受けとめている。死は煩悩の全くない涅槃の境地に入ること。
●スジャータの供養
厳しい苦行で痩せ衰えた釈迦に、村の娘スジャータが恵んだ一杯の乳粥。
この乳粥で体力を回復した釈迦は菩提樹の下に座りさとりを開く。
●チュンダの供養。
チュンダは、釈尊を食事に招待する。ところがチュンダが心をこめて作った
きのこの料理は、釈尊の身体に合わなかった。
食した釈尊は激しい腹痛と下痢と出血に苦しむ。釈尊は再び旅に出発する。
その後亡くなる。
釈尊は死を前に、死を招いたチュンダの供養はスジャータの乳粥と同じ功徳が
あると語る。どちらもニルバーナの境地に入る縁となった供養だからである。
だからチュンダの供養の食物は他の供養よりもはるかにすぐれた大いなる功徳
がある。チュンダの後悔の念はこのように言ってとり除かねばならぬと、
アーナンダに話したという。

■御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候。
そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたもう。
その位を一念発起入正定聚と釈し、そのうえの称名念仏は、
如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。
あなかしこ、あなかしこ。

■上宮寺山門前掲示板の言葉。
自分がわかない人は 他人を責(せ)める
自分が知らされた人は 他人を痛(いた)む

=自分がいちばんかわいいと思っている-
そういう自分に気づかされる 世界がかわる 合掌