22/7/24 水戸 歴史に学ぶ会 西郷隆盛と駿府会談。
仲田昭一先生。
■1836年・山岡鉄舟は旗本小野朝右衛門の5男として生まれ、槍術を山岡静山
に学び、静山歿後山岡家へ養子に入る。一刀正伝無刀流を開く。幕末の三舟、
高橋泥舟・山岡鉄舟・勝海舟のひとり。西郷隆盛は山岡鉄舟を「金もいらぬ、
名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困る」といっている。
●●山岡鉄舟の像。若いときに飛騨高山に住んでいた。18/9/14撮影。

■1857年・山岡鉄舟は尊王攘夷を標榜する虎尾の会を清河八郎らと結成。
■1861年より京都本圀寺勢は朝廷の命で京都守護。
■1862年・山岡鉄舟は幕府浪士組の取締役になる。
■1864年・慶喜は禁裏御守衛総督になる。
■1865年8月・慶喜が徳川将軍家を相続する。
■9月・開国派の豊田小太郎が暗殺される33才。
■1866年1月・討幕のため薩長同盟成立。
■本圀寺勢、藤田任・大三郎らの攘夷熱緩和策として外国へ派遣を決定。
昭武のパリ派遣・1867年の万博名目、本圀寺勢、菊池為政・服部敏和・
大井行詮・皆川脩徳・三輪信昭ら随行。
■7月・将軍家茂が亡くなる20才。
■8月・慶喜側近の原市之進が兵庫開港反対派に暗殺される37才。
■12月・慶喜が15代征夷大将軍に就任。
■12月・孝明天皇が亡くなる36才。
■1867年5月・幕政改革。老中を総裁とする5局体制を確立。
陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁。
フランスの指導で陸軍整備・横須賀製鉄所建設。
●●江戸城・皇居 二重橋と伏見櫓と多聞 8/2/6撮影。

■兵庫開港の勅許・薩長開国派の幕府非難攻撃に打撃。
■薩長開国派は武力倒幕へ方向転換。
■7月・大久保一藏・岩倉具視ら王政復古計画。
■9月・薩長芸は挙兵討幕を約する。
■10月・土佐藩は幕府へ大政奉還建白。
■10月・討幕の勅書降下嘆願書。小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵から
中山前大納言・正親町三条前大納言・中御門中納言へ。
皇国内外の御危急謂うべからざるの状態、・・・国家のため干戈を以て其の罪を
討ち、妊兇を掃攘し、王室恢復の大業相遂げたく、制すべからざるの忠義、
会盟断策、義挙に相及び候に付き、伏して冀くは相当の宣旨降下相成り候処、
御執奏御尽力成し下されたく願い奉り候。
■10月討幕趣意書。勅書降下嘆願の理由。
・・・征夷将軍の職任たるや、誠心を披き、公道を布き、撥乱済世の職を尽さ
れ候て社、当然の事に候処、反つて列藩の公議を退け、非を蔽い、邪を遂ぐる
の御趣意増長相成り候儀、徳川氏衰運の然らしむる所以か、・・・王室恢復の
赤心を貫徹し、干戈を以て其の罪を討ち、奸兇を掃攘して国家長久の基を開き
上、襟を安んじ奉り・・・。
■10月13日・慶喜討伐の密勅。薩摩藩・14日長州藩へ。
韶す、源慶喜累世の威を籍り、闔族の強を恃み、妄りに忠良を害し、数王命を
棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、万民を溝に擠れて顧みず、罪悪至る所、
神州将に傾覆せんとす。朕今民の父母として、是の賊にして討たずんば、何を
以て上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報いんや。・・・。
正二位 藤原忠能・正二位 藤原実愛・権中納言 藤原経之
■10月14日・会津松平容保・桑名松平定敬への加銖の沙汰書。
・・・幕賊の暴を助け、其の罪軽からず候。これに依り速やかに誅戮を加う
べき旨仰せ下され候事。 忠能・実愛・経之から薩摩中将・同少将へ。
■10月・三田の薩摩藩邸を拠点に江戸市中や関東一円を攪乱。
西郷隆盛の画策により幕府勢・庄内藩らの薩摩藩屋敷攻撃。
■10月・天璋院を守る名目で薩摩藩は益満休之助ら500?人を江戸へ派遣する。
■庄内藩主酒井忠篤は新徴組を率いて江戸市中警衛。
■10月14日・大政奉還奏上。慶喜より。
臣慶喜、謹て皇国時運之沿革を考候に、昔し王綱紐を解て、 相家権を執て、
保平之乱、政権武門に移りてより祖宗に至り、・・・政権を朝廷に奉帰、広く
天下の公儀を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候は、必す海外
万国と可並立候、臣慶喜、国家にみす所、是に不過と奉存候。去猶見込之儀も
有之候得者、可申旨、諸侯へ相達置候、依之此段て奉間仕候。
●●二条城二の丸御殿7/9/5撮影

■10月21日・薩摩・長州に対し倒幕の猶予勅命。
■10月22日・慶喜に対し当分は庶政を一任の御沙汰書。
■紀州藩主徳川茂承は尾張・水戸徳川一門・譜代大名らを招集。忘恩の王臣
たらんよりは、幕府の存在と君臣の大義を明らかにする。水戸藩は尊王敬幕・
幕府権威回復が王室安泰。
■12月・岩下左次右衛門・西?吉之助・大久保一蔵から岩倉具視への書簡。
・・・200有余年の太平の旧習に汚染・・・一度干戈を動かし候て、・・・戦い
全体皇国今日の危うきに至り候事、大罪の幕に帰するは論を待たずして明らか
なる次第にて、既に先々月13日、云々御確論の秘物の御一条迄に及ばせられ候
御事に御座候。・・・一点の私心を以て、大事を論ずるべからざるは兼て言上
奉り候通りにて候間、・・・。
■12月9日・王政復古の大号令。
徳川内府、従前御委任の大政返上、将軍職辞退の両条、今般断然聞しめられ
候。・・・王政復古、国威挽回の御基立てさせられ候。摂関幕府等(摂政・関白・
幕府等)廃絶、即今、先ず仮に総裁・議定・参与の三職を置かれ、万機行わせら
るべく、諸事、神武創業の始めに原き縉紳武弁堂上地下の別なく、至当の公議
をつくし、天下と休臓を同じく遊ばさるべき叡慮に付き、云々。
■慶喜は大坂城へ。慶喜は大場景淑・長谷川允迪らに二条城の留守を命ずる。
●●大坂城03/6/7撮影。

■12月・新撰組が京都守衛を水戸藩と一緒にと望むが、水戸藩は拒絶。水戸藩
は尊王敬幕・新撰組は佐幕のみのため組めない。
■12月13日・朝廷は水戸藩の禁裏守衛を解禁、京都泉涌寺の御陵警衛に回る。
■12月・水戸藩隊長朝倉政通・川瀬教文らの心境。
万一天兵の此域に向ふ時は城を枕にとは武士の意地なれども、本意にあらず、
6年来忍びがたきをしのびながらひたるも、畢竟は我藩を回復し再び尊攘の志を
達せんと思ふが故なり、然るに朝敵の汚名を受け空しく死なんよりは、寧ろ
無二無三に東下し、中納言の君を諌め好を除き、事成らずぱ斃れんには如かず、
同じく死ぬるなれば名義のある処に斃れむこそ本意なれ。
■12月23日・江戸城二の丸全焼。
■12月23日・薩摩藩兵が庄内藩巡羅兵屯所に発砲。
■12月24日・慶喜は慶篤の1864年以来の謹慎を解き、関東賊徒追討を命ずる。
■12月24日・幕府が薩摩藩邸攻撃命令。
■12月25日・旧幕閣は筑波残党諸家御預けの者共・石川島監禁の常野州降伏人
共を釈放し草賊討伐・国のため忠勇を命ずる。
■1868年1月1日・鳥羽伏見の戦い。旧幕府が薩摩討伐を宣言。
幼い天子を擁して私意をほしいままにする君側の奸をはらう。
■1月2日・本圀寺勢は二条城退去・泉涌寺の諸門山陵を警備する。
■1月3日・天兵が錦旗を捧げ伏見辺へ御差出の模様あり。本圀寺勢は二条城を
護っていた幕府党か?泉涌寺を護る尊王派と見なされるか?・・・悩む。
■1月4日・仁和寺宮嘉彰親王が征討将軍に、錦旗・節刀与えられる。本陣は
東寺。大坂から伏見の間は旧幕府軍いた。淀城は稲葉正邦の居城。淀城以北は
桑名・高松・松山各藩兵約1万人、以南に約5千人、政府軍は約1/3の兵力。
一進一退の後、政府軍に錦旗翻り意気高揚する。
■1月5日・城主留守中に淀城が政府軍に寝返る。
■1月6日・慶喜は開陽丸で大坂脱出・海路江戸へ、会津・桑名藩主が同行。
慶喜の突然の脱出は、残さた大坂幕府軍のやる気をなくさせた。
■慶喜・佐幕派諸藩主・幕臣の官位は剥奪され天皇の臣下でなくなる。
■1月7日・朝廷は慶喜追討令をだす。慶喜の朝敵が決定する。
■1月10日・新政府は開国の詔を発布。
■1月10日・桂右衛門宛て西郷隆盛書簡。
・・・3日より6日までの連戦、一歩も退かず、少しの敗けなく、勝ち通しの軍
は未だ曽てこれあらざるの戦いにて御座候。・・・。薩長の兵隊通行度毎には、
老若男女路頭に出て、手を合わせて拝をなし、有難々々と申す声のみに御座候。
戦場にも路路食を持ち出し、汁をこしらえ、酒を酌んで戦兵を慰し・・・。
近畿の諸侯は、皆官軍に属し、・・・官軍日々に盛大に罷り成り・・・。
■1月16日 蓑田伝兵衛宛て西郷隆盛書簡。
京・伏見大坂町々より毎日酒肴を捧げ、勝軍を祝い奉り候儀過分の事にて、
是程丈幕会悪まれ居り候事かと、今更驚く計りに御座候。十文字の御旗を見候
計りにて、老若拝をなし、手を合わせ薩摩大明神様と唱え候・・・。
■1月16日・川口最次郎宛て西郷隆盛書簡。
大阪落去以来戦も止み、追々、桑名攻め等相初めあるに御座候。分取りの移敷
事目を驚かし候計りに御座候。京伏見大坂共町々より、勝戦を祝い奉りて、
酒肴を捧げ候儀毎日引きも切らず、・・・。

■1月19日・本圀寺勢は除妊反正の勅書、泉涌寺警衛免除、藩政改革のため
東帰許可、奸人討伐・藩政改革の大義名分を得る。
■本圀寺勢は慶喜・朝廷・慶篤どこにつくか悩み水戸藩改革のため帰国した。
旧幕府と行動した小室左門 (下檜沢村)・綿引富蔵 (東野村)は桑名で戦死。
官軍岩倉具視に随し東山道先鋒役となった鯉沼伊織 (伊勢畑村郷士、後に神官
鯉沼家養子、1870年公卿香川家後嗣し香川敬三)・北島秀朝(馬頭大山田村・
馬頭郷校館長)
■水戸藩が祖宗以来の勤王を発揮できないのは、鈴木石見守・市川三左衛門ら
奸人のため。水戸藩が賊徒となっては烈公の忠誠も水泡に帰す。
■1月20日・家老鈴木縫殿・神官23人・郷士14名ら223名水戸へ出発。
大場一真斎は京で病歿する68才。
■1月21日・慶喜は在京の尾張徳川慶勝・越前松平春嶽・安芸浅野茂勲・肥後
細川護久・土佐山内容堂に慶喜退隠で朝敵でなくしてもらうよう依頼。
静寛院宮も寛大な処置を侍女土御門藤子を上京させ近親橋本家から執奏。
■1月23日・大久保一蔵宛て西郷隆盛の書簡。
・・・全体、東国へは一人も堂上御出張これなく、追討使差し向けられ候儀、
肝要と存じ奉り候。・・・。先日岩倉卿へ仙台一藩にては十分打ち破りも致す
べきに御座候得共、米沢抔は 前以てより会の本国を突き候策は相立て
居り、・・・東国の大藩、官軍の色を顕わし候はば、賊巣必ず混動致すべく、・・・。
■征大総督有栖川宮熾仁親王の官軍は、東海道・東山道・北陸道の先鋒総督
兼鎮撫使、山陰・大和・九州の鎮撫総督、中国・四国の追討総督と進む。
■1868年2月2日・大久保一蔵宛西郷隆盛の書簡。
慶喜退隠の歎願、甚だ以て不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候わでは
相済まず、必ず越土よりも寛論起り候わんか。然れば静寛院と申しても、
矢張り賊の一味と成りて、退位にて相済み候・・・。
■2月3日・討幕令。
此度、慶喜以下賊徒等、江戸城へ逃れ、益々暴逆をほしいままにし、四海鼎沸、
万民塗炭に隕ちんとするに忍び給わず、叡断を以て御親征仰せ出され候。
就いては御人選を以て大総督を置かれ候間、其の旨相心得、畿内七道大小藩
各軍旅用意これあるべく候。・・・。
■2月・大総督府設置。
■2月10日・本圀寺勢が江戸屋敷着。勅書が慶篤に届く。尊攘派が江戸屋敷を奪回。
■2月11日・江戸城で慶喜は恭順の意を表し、全権を勝海舟に委ね、寛永寺で
謹慎。慶喜の考えを官軍に伝えるのを勝海舟は高橋泥舟に依頼。高橋泥舟は
慶喜の身辺警護で不可と答え義弟の山岡鉄舟を推薦した。勝海舟と山岡鉄舟が
面会。勝海舟は山岡鉄舟の精神不動の態度を信頼する。
■2月12日 慶喜は上野寛永寺大慈院で謹慎。
●●寛永寺旧本房表門 10/11/28撮影。

●慶篤は水戸門閥派の鈴木石見守重棟・市川弘美三左衛門・朝比奈泰尚弥太郎・
佐藤図書信近・大森信弥三左衛門任らに切腹命令通達も従わず。
水戸門閥派は弘道館に諸生らを召集し先鋒隊を長岡に出陣させる。
■1868年3月5日条・勝海舟日記。
旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず。同人申す旨あり。
益満生を同 して駿府へ行き、 参謀西郷氏へ談ぜんと云う。我これを良しとし、
言上を経て其の事を執せしむ。 西郷氏へー書を寄す。
■3月5日・勝安房より軍門参謀への書。無偏無党 王道堂々矣。
今、官軍鄙府に逼るといえ共、君臣謹んで恭順の礼を守るものは、我徳川氏の
土民といえども皇国の一民成るを以ての故也。・・・然りと雖も、鄙府四方八逹、
土民数万来往して、不教の民、我が主の意を解せず、・・・嗚呼痛ましい哉。
上下道隔たる。皇国の存亡を以て心とする者少なく、小臣悲歎して訴えざるを
得ざる所也。・・・。
■3月5日・吉井幸輔宛て西郷書簡。
江戸の人心動揺いたし、如何の変を引き出し候も計られず、左すれば宮の歎願
も水泡と相成り候に付き、三島宿迄引き揚げ候様。大総督御安着相成り大此の
事に御座候。賊軍には智将もこれあり、大久保も勝も参政に出候由に御座候間、
決して油断は相成らず候・・・。
■3月9日・西郷隆盛・山岡鉄舟の駿府会談。
●●駿府城 巽櫓 東御門7/9/2撮影。  

■西郷の徳川家処分案。参謀会議で協議・大総督の決裁。
●慶喜謹慎恭順の廉を以て、備前藩へ御預け仰せ付けらるべき事。●城明け渡
し申すべき事。●軍艦残らず相渡すべき事。●軍器一切相渡すべき事。●城内
住居の家臣、向島へ移り慎み罷り在るべき事。●慶喜安挙を助け候面々、厳重
に取り調べ、謝罪の道、屹度相立つべき事。●玉石共に砕くの御趣意更にこれ
なきに付き、鎮定の道相立て、若し暴挙致し候者これあり、手に余り候わば、
官軍を以て相鎮むべき事。 条々、実効急速に相立候わば、徳川氏家名の儀は
寛典の御処置仰せ付けらるべく候事。
山岡「第一条は幕臣として承知できない」西郷「それでは戦いを」
■薩摩藩・長州藩・大村藩・砂土原藩が東海道を進軍。
■西郷の独断で戦略上箱根まで進出。西郷は三島まで進み、そこから駿府へ
帰り大総督有栖川宮熾仁親王を出迎えた。
■3月10日・反門閥派の元家老尾崎為貴ら数100人水戸城へ進入し奪回。
赤沼・評定所御用長屋の囚人、尊攘派は赦免解放される。
門閥派市川・朝比奈・佐藤ら500余人は水戸を脱出し会津へ向かう。
鈴木長門守重矩・鈴木石見守重棟父子は太田から別行動、江戸で捕縛される。
市川隊は郷士佐川民三郎 (小中村)・黒崎藤衛門弟雄二大三郎 (大子村)・豪商
石川友太郎 (太田村)・農民ら。反新政府な奥州諸藩に合流の意図、次第に人数
は増加。逆賊・脱奸の徒と呼ばれる。
■3月11日・西郷隆盛、江戸到着し先鋒軍総督府の池上本門寺の本堂へ。
■3月12日・鈴木縫殿重義ら本圀寺勢は勅書を奉じ江戸を出発。
■3月13日・高輪薩摩藩邸会談。山岡鉄舟随従同席、幕臣襲撃から西郷を護衛。
■3月14日・西郷は先鋒軍諸隊に15日江戸総攻を伝達する。
■3月14日・五箇条御誓文発布。
■3月16日・本圀寺勢が水戸城に入る。
●●水戸城 大手門 20/2/20撮影。

■3月17日・慶篤が水戸へ出発・重体。
■3月17日・市川隊1,435人?が福島長沼村に到着。会津藩は恭順・抗戦の
両様構え、5月上旬まで応援兵の入国を禁止。
■3月20日・本圀寺勢・諸藩御預勢ら1,000余人が市川勢追討に水戸を出発。
■3月21日・市川隊は会津坂下泊。会津は受入無し。
■3月21日・慶篤が水戸城着。

■3月26日・追討軍長谷川允迪・野村鼎美ら会津へ入り松平容保と面談。
●●鶴ヶ城 天守閣 15/12/30撮影。

市川隊は越後へ行き慶篤の病重く追討軍は水戸へ帰る。
市川隊・坂下→野尻(西会津)→水原(新潟)→新潟→寺泊→出雲崎→柏崎(桑名藩飛び地)
■1868年4月5日・慶篤病歿す37才。
■4月10日・慶喜は山岡鉄舟に「官軍に第一番に行ったのは鉄舟だ。一番槍は鉄舟」と話した。
■4月11日・西郷・勝の会談後、徳川家処分の条件を京都で協議継続。
■江戸無血開城・慶喜は水戸へ出発・高橋泥舟ら護衛。
■4月15日・慶喜水戸到着・弘道館至善堂で謹慎。
●●至善堂。弘道館本庁の右奥にある。本庁と畳み廊下で結ばれている。
入り側と濡れ縁をめぐらした四室。奥の一室は藩主の座所。
大政を奉還した慶喜が謹慎した。他の三室は諸公子講学の場所。11/2/9 撮影。

■4月28日・武田金次郎ら江戸到着。
■1868年5月24日・徳川家達駿府70万石に封ず。勝海舟・大久保一翁・山岡鉄舟ら随従。
■5月28日・武田金次郎ら水戸到着。奸物共をこのままにしておけない。水戸
城下で暗殺が横行する。
■7月10日・新政府は慶喜の静岡転居を命令。
■7月19日・慶喜が水戸を出発。
■7月23日・慶喜静岡に着く。宝台院で謹慎。
■1869年5月18日・榎本武揚ら五稜郭で降伏。東京辰ノロの糾問所へ投獄。
1872年放免となり明治新政権下で活躍。
■1869年9月28日・徳川慶喜の謹慎解除。
■1871年山岡鉄舟は静岡県権大参事、茨城県参事・12月伊万里県権令。
■1872年・山岡鉄舟は侍従となる。
■1888年7月・山岡鉄舟は皇居に向かい結跏趺坐のまま絶命。