22/7/13 ひたちなかの考古学 古墳時代のはじまり。
ひたちなか市埋蔵文化財調査センター 稲田健一先生。
● 古墳出現前に県央・県北地域に十王台式土器が多い。
●弥生時代後期は木工具や農工具の石器が減少、石器から鉄器へ変化した。
他地域から鉄斧・刀子・鉄鎌を入手した。
そのための交換財として土製紡錘車などがあった。
十王台式土器も交換財だった。
十王台式土器は西地域・南地域に渡っている。
●十王台式の西ルート。
二軒屋式地域 (宇都宮市)⇒吉ヶ谷式地域⇒樽式地域へ。
●十王台式の南ルート。陸路と水上を利用。
ルート1。大戸遺跡群上稲吉式地域⇒現在の霞ヶ浦と利根川を利用。
ルート2。一本松遺跡⇒北浦から霞ヶ浦・利根川を利用。
●長野県佐久市一本柳遺跡・愛知県岩倉市小森遺跡でも十王台式土器が出土
している。

●ひたちなか市内に古墳時代前期遺跡は三反田遺跡など23遺跡ある。
三反田遺跡は那珂川を臨む台地縁辺部にあり現在三反田小学校などがある。
三反田小学校近くに未調査の古墳もある。
大きな前方後円墳。近所のかたのはなし。20/4/19撮影・

●三反田遺跡は1977〜90年にかけて5回発掘調査がされている。
住居跡19基を確認。時期は古墳時代前期。
出土した遺物は他の地域の特徴をもつ土器が多い。
地元十王台式土器は1片もない。
出土遺物は、
南関東系の網目状撚糸文・櫛描波状文を施した壺・輪積口縁台付甕、
東海西部系のS字状口縁甕、
東海東部の大廓式の壺がある。
土器は直接その地域から持ち込まれる例もあるが大半は模倣品。
破片だが土器表面にタタキ目のある畿内系甕が確認された。
●第7次調査。2017年9月〜10月。時代・古墳時代・平安時代。
遺構・住居跡6基、古墳時代前期。住居跡1基、平安時代。
●第8次調査。・2018年7月〜9月。時代・古墳時代。
遺構・住居跡4基、古墳時代前期。
方形周溝墓3基、古墳時代前期。
石組2基 古墳時代の石棺か?。
中根駅近くから虎塚古墳方面。低い田のところはかつては入り江か?
三反田は反対側(後ろ側)20/4/23撮影。

●古墳時代前期の三反田遺跡は、地元の十王台式がなく、
他地域の特徴を有する土器を主体とする集落跡である。
●三反田遺跡周辺には弥生時代後期後半の集落が確認されない。
集落のない空白地域に移住という形で遺跡が形成された。
移住集団は灌漑技術をもち、肥沃な那珂川流域の低湿地の開拓を行った。
群馬県の例でも弥生時代後期に低湿地には集落がなかったが、古墳時代前期に
集落ができ、低湿地を開拓したのは東海西部の人々だった。
那珂川河口域は江戸時代の水運からも水上交通の要衝の地だった。
三反田遺跡の台地の下、三反田上河原遺跡には古墳時代前期の可能性がある
丸木舟が2艘埋没している。これは「津」の存在を示すものかもしれない。

●持ち込まれた土器。移住者の痕跡。
古墳時代前期の遺跡からは、各地の土器が出土している。
●那珂市森戸遺跡。
豪族館とされる堀が確認され、その堀から多くの完形に近い状態の土器が出土
している。
土器の器種は、甕・二重口縁壺・高杯・器台がある。
多くは甕で口縁部が「く」の字状に屈曲している球胴平底の甕で、
胴部にハケ目ナデ調整がみられる。
同じような甕は、茨城町下郷遺跡でも出土している。
これらの甕は千葉県南部地域の土器で、森戸遺跡に持ち込まれた可能性がある。

●土浦市東谷遺跡第一号住居跡。
出土土器は、口唇部の面取りが「く」の字状の口縁部や肩部がやや張った形態
などから、北陸東部地域の甕の形態に類似している。
しかし、甕の胴部がやや球胴化していること・平底でなく台付であることから、
オリジナルから変化している。
また、受部が大きく突出する器台も、北陸系の装飾器台に由来の可能性がある。

土浦市には烏山遺跡といった古墳時代前期の玉作りの遺跡がある。
弥生時代から玉作りが行われた出雲や北陸地域と関係があるか?

●古墳時代前期には、様々な地域の人々の痕跡がある。
移住者と地元との関係はどうだったのか?
三反田遺跡から出土する土器からは、当遺跡が地元と遠隔地の物資を交易する
拠点、つまり「市」としての役割を担っていたのか。
「市」は、移住者と地元との出会いの場であった可能性もある。
当事者同士の結びつきは、遠隔地の集団を同族(親族)化させていったのか。
三反田遺跡近隣の鷹ノ巣遺跡第26号住居跡からは、十王台式と土師器が並んで
出土している、この事象は同族化を示しているか。

●三反田遺跡と同じ台地上にある下高井遺跡では、方形周溝墓が4基確認
されている。移住者たちは、新たな墓制を持ち込んでいる。
そして、 ひたちなか市にも高い墳丘を持つ古墳が出現する。

●鷹ノ巣遺跡や吹上遺跡で出土している、無文様で十王台式のような形をした
壺がある。
この壺は、移住者が十王台式を真似て作ったか。
土器からは、移住者が地元に寄り添う状況が窺える。
移住は、武力的な制圧ではなく、地元の人と平和的な融合だった。
このような状況が、 当地域の古墳時代のはじまりと考えられる。