22/7/10 那珂市 水戸・歴史に学ぶ会 
武州川越・広済寺所蔵水戸浪士十九烈士の位牌について。
飯村壽道先生。
●2021年5月・埼玉県川越市喜多町の広済寺から水戸浪士十九烈士位牌の写真
が郵送され、位牌の記載文字を知る。
十九烈士は幽囚先の川越藩で亡くなった19名の水戸天狗党志士。
彼等は水戸藩執政の榊原新左衛門に属した大発勢の人達だった。

■1、大発勢投降者・諸藩に御預けになる。
1864年10月10日・大発勢は部田野原(那珂湊)で戦う。
10月23日・幕府軍と結託した諸生派の策謀で大発勢1,154人が投降した。
大発勢投降者は罪人として22藩に御預けになった。
●御預け先の22藩。
武州川越17万石・230人。上州高崎8万2千石・138人。
下総佐倉11万石・138人。下総関宿4万8千石・125人。
武州忍10万石・120人。下総小河8万石・100人。上総久留里3万石・35人。
奥州福島3万石・30人。武州岩槻2万3千石・30人。上総飯野2万石・25人。
上総佐貫1万5千石・21人。上総大多喜2万石・20人。
下総結城1万8千石・20人。上総一之宮1万3千石・15人。
房州勝山1万2千石・15人。上総牧1万5千石・15人。
出羽国長瀞1万千石・13人。上総請西1万石・13人。下総高岡1万石・13人。
下総生實1万石・13人。三州西大平1万石・13人。房州舘山・1万石・12人。
●志士の氏名は小室吉十郎の書いた士民諸侯御預姓名録にある。
1864年12月・小室吉十郎は川越藩に御預けになる。
1865年暮・佃島に流罪となる。1868年春・赦免となり故郷大子町西金に帰る。

■2、武州川越への運行行程。
羽部廉藏が書いた水府儀士姓名録に川越藩預けの230人が湊から川越まで連行
された行程が書かれている。
10月23日・投降した1,154人は幕府方に身柄を拘束され湊村の武館へ移る。
10月27日・武館を出て塩ヶ崎村の長福寺へ行く。
11月3日・高崎藩の陣屋がある銚子へ約340人が長福寺を出て夏海村で昼食。
夜は鉾田村の三光院に泊まる。
11月4日・鉾田より18里離れた銚子まで、北浦を大型の高瀬船10艘に乗船。
小舟木(下総、海上郡)で食事をとる。
11月5日・高崎藩の陣屋がある銚子へ着く。銚子の方萬寺と位徳寺へ繰込む。
11月15日・幕府御役方の取調後田中屋へ全員が繰込む。
12月10日・幕府御役方が全員の供述書を取り、川越藩へ御預けの230人は川越
藩士5名に引き渡された。夜は方萬寺へ繰込む。
12月11日・休足。
12月12日・銚子の方萬寺を出て野尻村で昼食・夜は小見川村の長福寺に泊る。
12月13日・佐原で昼食・夜は大須賀村の昌福寺に泊る。
12月14日・成田の江戸屋で昼食・臼井の大田屋に泊る。
12月15日・大和田の成田屋で昼食・舟橋の江戸屋に泊る。
12月16日・新宿(現在の葛飾区内) の亀屋で昼食・千住の広瀬屋に泊る。
12月17日・川口の若荷屋で昼食・爆ヶ谷宿に泊る。
12月18日・奥野宿で昼食・川越城下に午後4時に到着。
丸ノ内の空屋敷へ全員が繰込む。

■3、川越藩囚所の模様。
●藩屋敷の南側1番室〜5番室、北側1番室〜5番室、揚屋に収監された。
長屋は長さ27間半、梁間半の長屋2棟、東西と長く、毎室長2間半に4間を
区別2畳敷、外に1間の便所付。
長屋の端に9畳と土間の長屋2棟、手負の病人を入れた、この2棟が揚屋。
●食事は朝夕は汁・香の物、昼は菜一つに香の物など、毎月1日と15日・28日
其外祝日には干魚1枚。
●入浴は8日目位より12,3日目位にある。
●川越藩の扱いは、公儀に弓を引いた罪人にも拘わらず人並みに対応した。
羽部廉蔵場合、幽囚中に書いた遺書を含め遺品の数々が柳行李ごと川越藩士に
より弟濱野貞助(府中石岡町)に届けられている。

■4、川越藩主が水戸殉難志士の位牌を奉納。
川越藩に預けられた230名のうち19名が亡くなった。
藩主直克は水戸浪士19名の遺骸を市中喜多町の曹洞宗広済寺の墓地に埋葬、
永代供養料15両を寄附し位牌を奉納した。
位牌は高さ35cm、幅は頭頂部18cm、基礎部24cm、金箔で縁どった漆塗り。
位牌表面の上部に横書きで水府浪士。戒名は19名全員が義**勇信士の6文字、
2段に書いてある。裏面は死亡年月日と俗名が書いてある。十九烈士は以下。
●1・義山道勇信士・森嶌政治良 (上小瀬・20歳)1864年12月23日没。
●2・義光明勇信士・石川新治右エ門(野口平・23歳)1865年2月29日没。
●3・義清心勇信士・八文字吉治良 (世楽・年齢不詳)1865年3月12日没。
●4・義岳宗勇信士・飯嶌善七(大串・年齢不詳)1865年3月26日没。
●5・義学良勇信士・江橋五右エ門 (嶋田・55歳)1865年4月2日没。
●6・義法實勇信士・檜沢佐七(出身村不明・45歳)1865年4月22日没。
●7・義徳会勇信士・長嶌平治右エ門 (吉丸、22歳)1865年5月18日没。
●8・義祖參勇信士・出沢喜十良 (上古内・34歳)1865年5月4日没。
●9・義窓照勇信士・雨沢孫四良(大貫・30歳)1865年5月30日没。
●10・義源庭勇信士・鈴木喜八良(上合・年齢不詳)1865年6月27日没。
●11・義蓮意勇信士・羽部廉造(太田58歳)1865年7月22日没。
●12・義全秀勇信士・樫村雄之助 (上金町・22歳)1865年8月2日没。
●13・義高忠勇信士・菊地忠右ェ門(冥賀・67歳)1865年7月3日没。
●14・義一來勇信士・四部謙輔(全隈・38歳)1865年9月17日没。
●15・義孝善勇信士・小田倉捨吉(門部・19歳)1865年10月29日没。
●16・義眞傳勇信士・舩橋清七良(下阿野沢・36歳)1865年12月11日没。
●17・義達周勇信士・佐野治良九良(藤沢小路・27歳)1866年1月24日没。
●18・義觀相勇信士・出沢孝三良(上古内、32歳)1866年3月27日没。
●19・義空通勇信士・嶋田一良(下総 小舟木 )1866年7月23日没。

■5、直克の養父は信山公。
川越藩7代藩主大和守直克は前藩主直侯の養子である。
1861年12月6日・直侯は家督を養子の直克に譲る。
12月10日・直侯が死去23歳。
藩主直侯は烈公の8男八郎麿、信山公。慶喜は烈公の7男。

■6、攘夷派だった直克。
直克は筑前久留米藩主有馬頼徳の5男。
1861年12月・川越藩7代藩主に就く。
1863年10月・政事総裁職に就任し幕政に参画する。
直克は横浜鎖港を主張・攘夷派の立場だった。
1864年3月27日・天狗党が横浜鎖港など攘夷断行を旗印に筑波に義挙する。
幕府老中らは天狗党の鎮圧を主張。直克と激しく対立した。
1864年6月・直克は政事総職を罷免される。
直克の攘夷派寄りの政治姿勢は直侯が烈公の子であったからか? それが川越
藩の水戸浪士に対し他藩と比べて温情的な扱いとなって、殉難志士への位牌の
奉納と永代供養料の寄附となったのか?

■7、松平周防守康英が奥州棚倉より川越に転封。
1867年・直克は旧本拠地の前橋城を再築城して前橋に移封となる。
その後に川越に転封となったのが奥州棚倉藩の松平周防守康英で天狗党の弾圧
では一番熱心だった。
1864年9月28日・康英は、尊倒幕派の田中が300余名を率いて八溝山に来た時、
その北麓一帯を領する棚倉藩主だった。
田中は八溝山で頼みとした兵糧を得られず「我が運命これまで」と解党し
八溝山を降りた。山麓で待ち受けた棚倉藩兵は数多くの志士を捕縛し処刑した。
康英はその功績により2万石加増され8万石となる。その後棚倉藩主から17万
石の川越藩主に栄転となる。
八溝山北麓の段河内刑場跡に建つ三界萬霊塔は、康英が自分が殺めた志士ら
へのせめてもの罪滅ぼしに建てた供養碑とも言われている。高さ45cm程の小さ
な石塔で、8万石の殿様にしては粗末が? この三界萬霊塔については村人が
1周忌に当たる1865年9月29日に建てたとの異説もある。
川越藩主直克と康英の天狗党への対応を考えると複雑な気持ちになる。

■8、水戸浪士十九烈士の故郷。
19名のうち素性の判明した殉難志士の故郷の生家跡や墓碑を訪ねる。
●森島政治良。位牌の最初「義山道勇信士」は上小瀬村出身・政次郎、20歳。
西揚屋の収監で川越到着5日後に死くなる。10月22日小川にて砲弾で深傷を抱
え衰弱していたのか。常陸大宮市上小瀬の森島姓を調査したが貫籍不明だった。

●石川新治右ェ門。位牌の2人目「義光明勇信士」は野口平村出身。西揚屋に
収監され1865年1月9日に23歳で亡くなる。石川家は東京に移住し屋敷跡と
緒川の流れを見下ろす台地に墓地が残る。
墓碑には「故水戸殉難・石川新次衛門忠義墓」とある。

●江橋五右衛門。位牌の5人目の「義學良勇信士」は嶋田村(旧常澄村)出身。
江橋は北側1番室の収監で1865年4月2日死罪。
生家前は涸沼川で田辺の渡船場があり、涸沼を経由し鉾田、北浦、利根川から
江戸への廻の要衝地。江橋は荷揚改役を担っていた。川越藩幽囚者230名の中
で江橋だけが死罪となる。嶋田村は約70軒あり、2軒を除き尊攘派 (天狗党)
という。1844年弘化甲辰の国難で烈公が幕府から隠居謹慎を命ぜられた時、
江橋は嶋田村の豪農で郷士の木村美穂介らと、烈公の雪冤運動に奔走した。
尊攘派の有力者であったことが死罪の原因か?
木村美穂介は幽閉先の上総佐貫藩で1865年4月3日に死罪(55)、
実弟の木村圓次郎も安房館山藩で1865年4月5日に死罪(36)。

●羽部廉造。位牌11人目「義蓮意勇信士」は太田村(常陸太田市) 出身・100石
取。南側1番室に収監され1865年7月22日に亡くなる(58)。
遺書に腸わたの煮いくり返る思いを書き敵の飯は喰えぬと絶食し自害した。
●みちにふる 雪は道にて 消ゆるなり
君につかふる 人もそのこと
●きなふけよ 明日香の川に あらねとも
渕は瀬になる あなりよのなか
墓碑「簡齋羽部君之墓」は常陸太田市の浄土宗法然寺にある。

●菊池忠衛門。位牌の13人目の「義高忠勇信士」は冥賀村(大子町) 出身。
南側1番室に収監され1865年7月3日に67歳で亡くなる。小十人列の郷士で
山横目。1864年9月25日の部田野の戦いでは太田村の羽部らと数百人を率いて
幕府軍と戦い砲丸が胸に中ったことが致命傷となったのではないか。
菊池家の記録に「忠衛門は砲煙弾雨の中を馬上にて獅子奮迅、諸生の発炮に
依り彈丸胸に命中、名譽の負傷を受け敗北をし、武州川越の松平和泉守邸内に
幽閉となり割腹す」とある。割腹に臨み忠衛門は「願わくば胸の銃弾を取り出
して故郷の菊池に届けてくれ」と川越藩に頼み、願い通り胸の弾丸を摘出し、
川越藩士によって冥賀村の自宅に届けられている。
●奥山の 老木に咲ける 遅桜
今朝のあらしに 花も散るらむ
子孫は横浜の方に住み、故郷の大子町前冥賀には菊池の屋敷跡と古い墓のみが
残っている。 忠衛門の墓碑の篆額「誠齋」は忠衛門の号で藤田東湖の書であり、
撰文は東湖の次男藤田健で1895年の建立である。

●小田倉捨吉。位牌の15人目の「義孝善勇信士」は門部村(那珂市) 出身。
北側2番室に収監され1865年10月19日に19歳で亡くなる。
1864年 10月17日、反射炉にて炮で深傷を負ったのだろう。
兄の清介は組頭。 関宿藩に幽囚となり1865年7月30日、37歳で亡くなる。
小田倉の生家はおはぐろ古墳の傍らにあり、古墳の塚上に小田倉一族の氏神
羽黒神社が鎮座する。 墓は古墳の東側にあったが現在の共同墓地に移転。兄の
隆資小田倉君之墓はあるが、弟捨吉の墓碑は回天神社(水戸)にあるため建碑さ
れていない。

●出沢孝三良。位牌の18人目の「義親相勇信士」は上古内村(城里町) 出身。
北側2番室に収監され1866年3月27日に32歳で亡くなる。
上古内に出沢姓は現在1軒、水戸に移住したもう1軒の出沢の屋敷跡と古い
墓地が残っている。10数基の古い墓塔の中に「出沢幸三郎墓」があり、側面に
「明治維新從勤王嘗殉國難被合祀護國神社、1866年3月27日歿32歳」とある。
碑の隣りに父らしき「出沢喜八郎墓」(1866年歿56歳)がある。上古内村々役人
を記した出沢家の文書 (安政年間)に喜八郎は下古内兼帯庄屋、一代苗字帯刀
麻裃御免とある。

●出沢喜十良。位牌の8人目の「義祖參勇信士」は上古内村出身。常北町史で
は出沢喜平次である。喜平次は幸三郎と同じ北側2番室に収監され1865年5月
4日に34歳で亡くなる。喜平次の墓碑は確認できなかったが、出沢家の文書に
出沢喜平次は一代苗字帯刀麻裃御免とある。出沢姓は2軒しかなく、名前に喜
が付くことから幸三郎と喜平次は近親の者か? 水戸常磐墓地の殉難志士の墓
でも隣同士で建っている。

●水戸浪士十九烈士は生きて再び故郷の土を踏むことなく異郷で亡くなったが、
水戸の攘夷派に同情を寄せた川越藩主直侯の厚情と広済寺歴代住職の永代に
渡る供養で、心安らかに眠っているのではないか。