22/6/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
■全員で正信偈を称える。
■延方量昭師 鉾田市真宗大谷派称念寺住職。
[ ]はhp制作者のメモです。

■三帰依文。
人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生にむかって度せずんば、さらにいずれの生にむかってか
この身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依したてまつるべし。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、
無上意を発さん。自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。自ら僧に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。
無工甚深薇妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持する
ことを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

■如来の本眼力により今ここにいる。ここに来られたご縁に感謝。
■最近2名の方が亡くなった。95才のおばさん。月命日で毎月おばあさんの家
に伺いいろいろと話をしていた。亡くなる前に医者と話をして自宅で過ごして
いた。亡くなるときは子・孫に看取られながら自宅の畳の部屋で亡くなった。
97才のおばあさん。おばあさんはコロナで入院し亡くなってしまった。
家族との最後の別れはガラス越しだった。火葬も業者に御願いしお骨になり
家族のところに戻ってきた。人の死は平等という。しかしどうしても亡くなり
方を差別してしまう。これは何か?
■少子高齢化といわれる。平均寿命も延びている。PLAN 75という近未来の映画
が最近公開された。近未来の日本では75才から生死を選べるプラン75が国会
で可決・施行された。高齢を理由にホテル清掃の仕事を解雇された女の人。
女の人はプラン75の申請を検討はじめる。映画は多様な年齢・立場のひとの
人間模様を映していく。監督の早川千絵氏は言っている。自己責任論がはばを
きかせている日本。社会的に弱い立場にいる人々への風当たりが強く、どん
どん不寛容な社会になっている。生きづらい人に対して死の選択肢を差し出す
社会でなく、共に生きようと手を差し伸べる社会がよい。
■役にたたない人は生きている価値がない。生産性のない人はいらないと
いった人がいた。相模原施設で起きた事件も似ている。重度障害者はいらない
と加害者はいった。

■お盆の話。
目連は釈尊の十大弟子のひとりで神通力第一といわれる。亡くなった母を
神通力で捜したら母は餓鬼道で苦しんでいた。優しい母が何故天界でなく
餓鬼道の世界にいるのか。驚いた目連は釈尊に母を助ける術をきいた。釈尊は
目連の母は目連に愛情をそそぎ、よその子どもに愛情が少なかった。そのため
餓鬼道にいる。母を餓鬼道から救うには安居の終わりの時に、すべての僧に
食事を供しなさいと説いた。その時目連はハッと気がついた。私は母ひとりを
救いたいと考えていた。これでは母と同じだ。目連自身も母と同じ餓鬼道に
落ちていたと気づいた。自分の本当の姿は自分ではわからないものだ。
お盆は倒懸とうけんともいう。倒懸は頭を下にして足を吊られて逆さまに
なっていること。その苦しんでいる人を助けようというのがお盆のはじまり。

■地獄の食卓・極楽の食卓。
地獄と極楽には同じような食卓・料理が並んでいた。食事は1mの長さのハシで
食べなければならない。その食事の様子は違いがあった。地獄では食べられ
ない。ハシが長いので自分の口に食べ物を入れられない。そのうち隣の人と
ハシがぶつかりあい争いになる。結局誰もが食べられない。極楽では自分の
ハシで食べものをとり向かい合った人の口にもっていく。相手の人もハシで
食べものを向かいの人の口にあげる。お互いに助け合って食事をする。お互い
が幸せになれる。地獄の人は自分のことしか考えない。怒り顔になる。極楽の
人は相手のことを考える。笑顔になれる。
つながりのない世界はあたたかみがない。
欲を持っている・自分のことを先に考える生き方をする者は凡夫という。
[そういえば、私たち人類ホモ・サピエンスは人類の中でも弱い存在だった。
今日まで生き残れたのはお互いに助けあったからだ]

■悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる(正像末和讃)
●悪い本性はなかなか変わらない。蛇やさそりのようである。よい行いを
しても煩悩の毒がまじっている。いつわりの行というものである。
■凡夫。
「凡夫」はすなはちわれらなり、本願力を信楽するをむねとすべしとなり、
(一念多念文意)
■七高僧は正信偈で凡夫を何と表現しているか。
●本師曇鸞は惑染凡夫と表現している。惑も染も煩悩のこと。私たちは真実を
見失っているため道理に迷い惑っている。心が純粋でなく汚染されている。
●道綽決聖は一生造悪と表現している。一生の間を通じてさまざまな悪を作る
者であっても、
●源信僧都は極重悪人と表現している。極重悪人は極めて重大な悪人。法律
違反・道徳・倫理に反する人は悪人。仏の教えを知らず仏の大慈悲心に逆らう
人を極重悪人という。
●本師源空は善悪凡夫人と表現している。凡夫は真実に目覚めた仏以外の人。
善悪に関係なく真実に目覚められない人。悪の凡夫は、自分が起こす欲望に
自分が支配されて、法律を犯し、道徳に背き、仏が説き示す真実をないがしろ
にしている人。善の凡夫は法律・道徳は守るが、少しの自重をもとに知らぬ間
に、その果報を要求する。また、他人を見下し自らの優越を誇る。仏が説き
示す真実をないがしろにしている。善でも悪でも、愚かで悲しい存在が凡夫。
●正信偈依経段の終わりに邪見驕慢悪衆生と表現されている。衆生には邪見が
あり?慢の心がある。邪見は真実に背いたよこしまな考え方。?慢は思い上が
り他人を見下し満足する心。衆生は邪見にとらわれ、自分を思い高め、
阿弥陀如来の本願力に背を向けている。

■業縁存在。
ご縁次第で良くもなったり悪くもなったりする存在である。さるべき業縁の
もよおせば、いかなるふるまいもすべし。(歎異抄)
しかるべき業縁にうながされるならば、どんな行いもするであろう。親鸞聖人
は、自らを善とし、悪をなした他者を否定する態度を批判する。もしそうせざ
るをえない情況におかれたら、私は何をするかわからない。どんなに悪いこと
もやりかねない、という。社会のためには、怒りや憎しみを増すことではなく
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と
考えることが必要。
■欣浄厭穢。
徳川家康 「厭離穢土 欣求浄土」
世の中が問題だからこの世に浄土を作りましょう。 我が力をたのむ自力。
「大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、
利他深広の信楽、・・・」(信巻)
■凡夫の自覚。
●浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらになし (和讚)
●無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう(和讚)
■世をいとうしるし。
仏のちかいをもきき、念仏ももうして、
ひさしうなりておわしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとうしるし、
この身のあしきことをいといすてんとおぼしめすしるしもそうろうべしと
こそおぼえそうらえ。(御消息)

■上宮寺山門前掲示板の言葉。
人 たくさんの 人を通して 人になる
我以外の人皆我が師(先生)なり お育てを賜るというか どうせ生きるのなら
味わい深くこの人生を 歩みたいものですね  合掌

[■法話のあと考えたこと。
如来よりたまわりたる命。
私は自分で望んで生まれてきたのではない。
父母がいて多くの先祖のおかげで生まれてきて生かされている。
心臓・目・耳・のどちんこなど多くのものは自分の意思とは関係なく
私を生かしてくれている。
また、毎日欠かすことなく多くの動物・植物の命をいただいて生かされている。
元をたどれは宇宙のはじまり・無量寿のところにいく。
無量寿は南無阿弥陀仏・阿弥陀如来。
だから私は阿弥陀如来の分身と考えられる。
生きることと死ぬことは表と裏の関係。どちらもなくてはならない。
どこまで生かされるかはわからない。阿弥陀如来がきめてくださる。
私は阿弥陀如来に身をまかせるしかない。
阿弥陀如来の本願力に感謝し念仏を称えるだけです。南無阿弥陀仏。
PLAN75いつ亡くなるかは、阿弥陀如来におまかせすればよい]