22/6/19 水戸歴史に学ぶ会 弘道館記と徳川慶喜。
齋藤郁子先生。
[ ]はhp制作者メモ。
●●水戸城大手門。22/1/1撮影。

■明治維新の魁といわれた水戸。江戸幕府最後の将軍・水戸藩出身の徳川慶喜・
大政奉還をおこなう。尊王攘夷は水戸藩校弘道館記から始まる。
■水戸徳川家の家訓・尊王。光圀・我が主君は天子也。今将軍は我が宗室なり。
あしく了簡仕り、とりちがへ申すまじきよし、御近臣共に仰せ聞かされ候。
■1835年・水戸徳川家の家庭教育・斉昭の医政と厚生上巻より。[1835年・
斉昭は医弊説・原漢文・石島績編著水戸烈公の医政と厚生運動上巻所収を記す]
●我等抔は、 三ツ四ツの節より文公お供にて毎朝々々面白くもこれ無き寒さに
御庭のお供いたし、武公の御代にも同様毎寒中御鷹に相成候へは、御提灯にて
入らせられ、夜も又提灯にて御帰りに相成、手も足も皆ひびにて血流れ申し候
を足洗い候節あかすりにてむしり取り候へき。・・・。
●庶子は嫡子と異りて、養子に望む家あらば直に遣わすべきものなれば、永く
我が膝下に教育し難し、されば文武共に怠らしむべからず。若し他家に出し
遣る時、柔弱にして文武の心得なくば、我が水戸家の名を辱しむる事あるべ
し。・・・。
■桃源遺事・治保から治紀へ。我等は将軍家いかほど御尤の事にても、天子に
御向ひ弓をひかせられなば、少も将軍家にしたがいたてまつる事はせぬ心得な
り。何ほど将軍家理のある事なりとも、天子を敵と遊ばされ候ては不義の事
なれば、我は将軍家に従ふことはあるまじと仰せられければ・・・。
■1837年・慶喜は斉昭の7男・生後7カ月で江戸より水戸へ移る・弘道館で
教育をうける。
■1839年・弘道館記。藩校弘道館の建学精神を記した。斉昭が自らの建学の
主旨を藤田東湖に伝え東湖が起草し、佐藤一斎・会沢正志斎・青山雲龍が確認・
斉昭が裁定した。弘道館記は6つの質問と5つの眼目で構成される。
質問、弘道とは何?・道とは何?・弘道館は何のために設けられた?・
武御雷神を祀るものは?・孔子廟を営むものは?・教ぶるものは誰?。
眼目、神州の道を奉じ西土の教を資り・忠孝二无く文武岐れず・
学問事業その効を殊にせず・神を敬い儒を崇び偏党あるなく・
思を集め群力を宣べ以て国家無窮の恩に報いる。
弘道館記、弘道者何人能弘道也道者何天地之大經面生民不可須離者也弘道之館
何爲面設也恭惟上古神聖立極垂統天地位萬物育焉其所以照臨六合統御寓内者未
不由斯道也・・・。
●●弘道館入場券。22/1/1撮影。

■1847年・慶喜11歳は一橋家を相続する。
■斉昭から慶喜へ・武公遺事より・父なる人も同様の志にて常々諭さるるやう
「我等は三家三卿の一つとして、公儀を補翼すべきはいふにも及ばざる事
ながら、この後朝廷と本家との間に何事の起こりて、弓矢に及ぶやうの義も
あらんも計り難し。 かかる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、
朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず。これは義公以来の遺訓なれば、
ゆめゆめ忘るる事なかれ。
■1853年・米国ペリーが浦賀に来航・開国を迫る。
■1858年・日米修好通商条約調印。朝廷は条約調印に不満の勅諚・戊午の密勅
を水戸藩へだす。
■1859年・安政の大獄、吉田松陰・橋本左内・安島帯刀ら死刑となる。
■1860年・木村喜毅・勝海舟・福沢諭吉は咸臨丸で米国へ。新見正興・
村垣範正は米国艦ポーハタン号で米国へ。桜田門外の変・江戸城桜田門外で
水戸藩脱藩者17名と薩摩藩士1名が大老井伊直弼を襲い暗殺した。
斉昭が亡くなる61才。
●●外桜田門・桜田門外の変があったところ。8/2/6撮影。

■1861年・江戸・大坂の開市、新潟・兵庫の開港の延期交渉に竹内保徳・
松平康直・京極高朗・福地源一郎・福沢諭吉を英仏蘭独露へ派遣、
露国で樺太国境 50度線を交渉。
■1862年・孝明天皇は家茂に攘夷は国家の大典なれど無謀の攘夷は好むところ
に非ずという。慶喜は将軍後見職になる。攘夷の勅諚。家茂は攘夷勅諚承を
奉答。慶喜の開国論・慶喜公伝より・世界万国が天地の公道に基きて互に好を
通ずる今日、我邦のみ独り鎖国の旧套を守るべきに非ず。故に我より進みて
交を海外に結ばざるを得ずとの趣旨を、叡間に達すべし。・・・。
長州藩は高杉晋作・薩摩藩は五代友厚を幕府使節の随員として上海へ派遣、
清国の植民地化の惨状を確認。幕府は蘭国へ榎本武揚・西周・津田真道・
内田恒次郎・沢太郎左衛門・赤松大三郎・伊東玄伯を派遣。
■1863年・慶喜上洛。家茂上洛・天皇は家茂に政務委任確認書を下す・
朝廷権威復興の証し。孝明天皇は賀茂社・石清水八幡へ攘夷祈願。長州藩は
下関で米艦・仏艦・蘭艦を砲撃。長州藩は伊藤博文・井上馨を英国留学へ派遣。
薩摩藩は英艦隊と砲撃戦。幕府は米国へ横浜鎖港を提議。島津久光宛てに
孝明天皇勅・現在の軍備状態での攘夷に疑念あり。横浜鎖港談判に池田長発・
河津祐邦・川田熙・田辺太一ら34名を仏国へ派遣。
■1864年・慶喜は禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮になる。平岡円四郎が暗殺
される。安中藩士新島襄は函館から米国へ密航。家茂に孝明天皇は「無謀の
征夷は実に朕が好むところにあらず」と。藤田小四郎は尊王攘夷を唱え筑波山
で挙兵。英仏米蘭国艦隊が下関を攻撃。藤田小四郎と合流した武田耕雲斎・
筑波勢は加賀藩に降伏する。
■1865年・武田耕雲斎・藤田小四郎ら筑波勢352人は敦賀で処刑される。
禁門の変。幕府は市川又吉ら6名を露国へ、柴田剛中・福地源一郎を欧州へ。
薩摩藩は森有札・五代友厚ら11名を英国へ。朝廷は条約調印を勅許、
兵庫先期開港は不許可。
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■1866年・将軍家茂が亡くなる21才。慶喜が徳川将軍家を相続・慶喜の決意・
昔夢会筆記より・慶喜は宗家相続、将軍職就任を迫られて・・・徳川の家を
これまでのごとく持ち伝へんことは覚束なければ、この際断然王政の御代に
復して、ひたすら忠義を尽さんと思ふが・・・。慶喜は将軍に就任する。
慶喜の改革・五局体制を確立・事実上の内閣制度を導入・人事制度改革による
人材登用の強化・新税導入など財政改革・仏国支援で陸軍整備・横須賀製鉄所
建設。肥後藩は横井平太・大平兄弟を米国へ派遣。幕府は学校修業・貿易目的
の海外渡航を解禁。幕府は川路聖謨・中村正直・外山捨八・林董・成瀬錠五郎・
福沢諭吉ら14名を英国へ派遣。孝明天皇崩御36才。
■1867年・昭武・山高信離ら仏国万博・留学へ。明治天皇即位。福井藩は
日下部太郎を米国へ派遣。兵庫開港許・朝廷の開国決定。幕府は小出湧之助・
伊東栄之助を仏国へ派遣。薩摩藩へ討幕の密勅。慶喜は大政奉還奏上。
王政復古の大号令。慶喜の辞官納地に幕閣ら反対・二条城で苦慮・大坂へ・
会津容保・桑名定敬・老中板倉が同行。江戸城二の丸が全焼。
■1868年・君側の奸一掃に諸藩は早々に出兵を・幕府側1万5千の軍で対応・
総督大河内正質・淀へ進撃・兵庫沖で榎本武揚の開陽丸・蟠龍は薩摩藩汽船
平運丸を砲撃。鳥羽伏見の戦。淀藩・津藩の寝返り。紀州藩は反幕府側になる。
慶喜は開陽丸で大坂を脱出。慶喜追討の勅令・沢太郎左衛門に出航命令。
慶喜は江戸城に着き上野寛永寺で謹慎。西郷隆盛と山岡鉄舟の駿府会談。
江戸開城。慶喜は水戸弘道館で謹慎。徳川家の駿府移封・慶喜は駿府で謹慎・
大久保一翁・勝海舟・山岡鉄舟が同行。
■1869年・慶喜の謹慎解除。
■1875年・明治天皇は小梅の水戸藩邸へ行幸。
御製 花ぐはし 桜もあれど 此やどの 世々のこころを 我はとひけり・
水戸藩が守り伝えた尊王の心が明治維新を生み出したと詠んだ。
■1880年・慶喜は正二位の旧位に復した。
■1897年・慶喜は東京巣鴨に移る。
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■徳川慶喜公伝 (四)より。1901年頃に渋沢栄一が大磯より帰る時、伊東博文と
汽車に同乗した。ある時伊東は慶喜に、維新の初に慶喜が尊王の大義を重んじ
たのはどうはてかと尋ねた。慶喜は・・・唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の
如く、水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志にて、
常々論さるるやう、我等は三家三卿の一として、公儀を輔翼す・・・朝廷と
本家との間に何事の起りて、・・・如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉り
て弓ひくことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓・・・。
■1902年・慶喜は公爵になる。
■1913年・慶喜亡くなる・77才・上野谷中墓地に埋葬。
■慶喜の功。戊辰戦争のとき仏国の支援申し出を断った。日本の分断・
英仏代理戦争の危機を救い国内の戦乱を防いだ。
■慶喜の至誠・国の未来のためにひたすら恭順・私を捨てる。先祖の栄光を
地に落とし、直属の多くの部下を路頭に迷わせることへの苦衷はあろうが。
■承久の変、南北朝の戦いの悲劇を繰り返さない道。国家の悲劇を回避し、
民を塗炭の苦しみから救い、歴史を有るべき道に戻した。
苦渋の選択の拠り所は水戸家の遺訓だった。