22/6/8 海を臨む古墳群「ひたちなか海浜古墳群」。
ひたちなか市生涯学習講座 ひたちなかの考古学第2回
ひたちなか市埋蔵文化財調査センター 稲田健一先生。
■ひたちなか市海岸部に多くの古墳がある。2011年以降に海岸部古墳を調査した。
虎塚古墳・十五郎穴横穴墓群の築造の背景に海を利用した交流があった。
●●ひたちなか市 阿字ヶ浦 15/6/29撮影。

■ひたちなか市で古墳時代前期の古墳は未確認。
那珂川対岸の大洗町に古墳時代前期〜中期に入るまで古墳が継続して造られた
磯浜古墳群がある。
磯浜古墳群は鹿島台地の北端部にある。
東は太平洋、西は涸沼・涸沼川、北は那珂川、南は台地が切れている。
磯浜古墳群は島状台地にある。
大洗町は水上交通の要衝で古墳は前方後円墳2基、前方後方墳1基、
大型円墳1基、墳形不明2基で群を構成している。
前方後円墳の日下ヶ塚古墳は全長101mある。
磯浜古墳群は水上交通の要衝にあり、那珂川河口域の海の古墳のはじまりといえる。
●●大洗町磯浜 日下ヶ塚古墳 後円部からの遠望。22/2/28撮影。

■磯浜古墳群が終焉を迎える頃、ひたちなか市の海岸部で三ツ塚第三古墳群の
築造が始まる。
最初の築造は約70mの帆立貝形古墳・約50mの大型円墳だった。
■遺物。
大型円墳から出土した壺形埴輪は磯浜古墳群の日下ヶ塚古墳や車塚古墳
から出土した壺形埴輪の影響がみられる。
三ツ塚第三古墳群は磯浜古墳群との関連をもち造られたと考える。
■ひたちなか市の太平洋を望む台地縁辺部は、
北から5世紀後半の前方後円墳の川子塚古墳・磯崎東古墳群・磯合古墳群・
入道古墳群・三ツ塚古墳群・新道古墳群がある。
直線で約3kmに100基以上の古墳がある。
群を構成する古墳は直径15m前後の円墳が多い。
約81mの前方後円墳の川子塚古墳、磯崎東古墳や三ツ塚古墳の帆立貝形古墳がある。
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■三ツ塚古墳の墳丘は高さが1mと低い。墳丘のない石棺墓もある。
埋葬施設は石棺・竪穴式石室・横穴式石室がある。
石材は海岸の石を利用。墳丘の上に石を敷き詰める葺石の古墳が多い。
■出土遺物。
珠文鏡・大刀・鉄鏃・骨鏃・鹿角装刀子・埴輪・須恵器・土師器・ガラス小玉・
石製模造品がある。
時期は5世紀前葉〜7世紀中葉・継続して古墳が造られた。
市内の他地域の古墳築造は6世紀以降。
■臨海部の周辺も含めて集落の存在は未確認。
臨海部地域は長期間墓域だったか?
■臨海部の連なる様相の古墳をひたちなか海浜古墳群と呼ぶ。
海を意識した墓制。
石棺墓は海を臨む斜面部に造られた。磯崎東古墳群・入道古墳群・
三ツ塚第二古墳群を確認。他にひたちなか海浜古墳群中に広く分布している。
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■市内で確認された石棺墓。
1960年・入道古墳群で1基。1968年・三ツ塚第二古墳群で8基。
1974年・入道古墳群で2基。2011年〜2016年・磯崎東古墳群で9基。
2020年・入道古墳群で6基。
■石棺墓の特徴。
海が目の前に広がる斜面部にある。石棺は磯の石を利用。
基本的に短軸方向に1つずつ、長軸方向に4つずつの石で石棺を構成。
床面には石材はなく海砂が敷かれる。
分布状況は斜面の中段から上段にかけて2段もしくは3段に構築。
横穴墓の配置のようにみえる。
石棺墓の上の台地平坦面には墳丘を有する古墳がある。
■出土遺物。
ほとんどなく人骨のみが出土する。しかし、三ツ塚古墳・白方古墳群・
河原子古墳群の石棺墓から刀子が出土している。
■類似する石棺墓。
茨城県では東海村白方古墳群・日立市河原子古墳群・北茨城市神岡上古墳群。
茨城県外では神奈川県三浦市勝谷砂丘遺跡・鎌倉市長谷小路周辺遺跡、
和歌山県白浜町脇ノ谷古墳、福岡県行橋市稲堂古墳群がある。
■三浦半島にある勝谷砂丘遺跡周辺は半径50mの範囲に多様な墓がある。
墳丘を持つ古墳の雨崎古墳群・横穴墓の雨崎横穴墓群・洞穴の雨崎洞穴。
三ツ塚古墳群でも半径500mの範囲に墳丘を伴う古墳・石棺墓・横穴墓
などの墓がある。範囲が少し広く洞穴はないが三浦半島と似ている。
■三浦半島とひたちなか市の共通性。
神奈川県の西川修一先生は、三浦半島は南の海の出入口、ひたちなか市は
北の海の出入口として海上交通の要衝を共通としている。
●●28ひたちなか市役所那珂湊支所近くから19/04/24撮影。
1938年建碑の藤田東湖の七言絶句。
[「遠望誰弁鳥邪雲・但見霏凝映落暉・
一陣東風水門夕・吹成千片布帆帰」
遠望誰か弁ぜん鳥か雲か 但見る霏凝落暉ひびらくきに映ず 
一陣の東風水門みなとの夕ゆうべ 吹き成し千片布帆ふはん帰る]

■虎塚古墳・十五郎穴横穴墓群。
5世紀初めに海岸部の古墳群が造られる。6世紀に市内内陸部に古墳が造られる。
7世紀に虎塚古墳・十五郎穴横穴墓群が造られる。
■虎塚古墳は那珂川河口から直線距離で約4kmの標高約20mの台地上にある。
7世紀初に造られた全長約57mの前方後円墳。装飾文様は横穴式石室の壁面に
白土を下塗りし、その上に赤色顔料のベンガラで連続三角文などの幾何学文様と
大刀や靭などの具象文様が描かれる。一部の文様に線刻を併用。
●●古墳の複製。埋蔵文化財調査センターに展示されている。10/12/26撮影。

■彩色と線刻を併用する技法は、日立市の十王前横穴墓群・
福島県いわき市中田横穴墓にみられる。中田横穴墓の装飾文様は、
技法・連続三角文・顔料に白色と赤色を使用し虎塚古墳と似ている。
海を介する交流があったか?
■熊本県玉名市菊池川流域の永安寺東古墳・塚坊主古墳の装飾古墳に
虎塚古墳と似た描き方が見られる。円文や三角文の文様も似ている。
この地域と交流があったか?
■十五郎穴横穴墓群は虎塚古墳のある台地の斜面部に約1kmにわたり造られている。
2007〜2014年に調査を実施した。横穴墓は500基以上あり東日本最大級の数。
7世紀前半〜9世紀前半まで使用された。
横穴墓の造営開始時期は虎塚古墳の追葬時期とほぼ同じ。
■十五郎穴横穴墓群は虎塚古墳と密接な関係を持ち、
九州で造られたという横穴墓の墓制を採用、どのような人々が造ったのか?
●●ひたちなか市中根字指渋 十五郎穴横穴墓群 10/12/26撮影。

■海の古墳と遺物。
石棺墓・装飾古墳・横穴墓には海でつながる他地域との交流が窺える。
海岸部の墳墓から出土する骨鏃とイモ貝装馬具がある。
■骨鏃は鉄でなく鹿の足の骨でつくられたヤジリ状のもの。
ひたちなか市では磯崎東古墳群で13点出土。県内では日立市千福寺下横穴墓・
日立市泉原遺跡内古墳・東海村白方古墳・かすみがうら市大塚古墳から出土。
近県では福島県いわき市で出土。
6世紀〜7世紀前半の墳墓で出土。
場所は海岸沿い・久慈川河口域・恋瀬川が霞ヶ浦に注ぐ場所で水上交通の
要衝と思われる。
全国的には九州南部・関東・東北の太平洋岸の横穴墓・
地下式横穴墓からの出土が多い。
■イモ貝装馬具は南海産のイモガイの頭の部分を使用する。
イモ貝装馬具は
県内での出土はひたちなか市笠谷古墳・東海村二本松古墳・鉾田市天神山古墳・
常総市七塚古墳。
時期は7世紀前半。
常陸太田市幡山古墳から出土した馬具はイモ具ないが二本松古墳の
馬具に形状が似ているのでイモ貝装馬具か?
近隣では、福島県いわき市中田横穴墓など4遺跡で出土。
イモ貝装馬具出土古墳は常総市七塚古墳以外は海岸沿いにある。
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■全国的には福岡県に多く・次に遠州灘沿岸〜福島県いわき市の太平洋側に多い。
■ひたちなか市には九州と関係ある墳墓がある。海岸部の石棺墓。
骨鏃・イモ貝装馬具。虎塚古墳の装飾。十五郎穴横穴墓群の横穴墓。
ひたちなか市の古墳は九州や海を臨む地域との交流があったのか?
■江戸時代に東北地方の物資を江戸へ運ぶ場合、太平洋を南下した船は
那珂湊を中継地とし太平洋から那珂川・涸沼川へ入り、一部陸送し巴川・
北浦・利根川を通り千葉県関宿にきて、江戸川を通り江戸へ運んだ。
■千葉県銚子沖は海流の影響で現在も海の難所。安全に江戸へ物資を運ぶ
経路として那珂湊から江戸に入る経路が活用された。
古墳時代に同じ経路はなかったが、海流の影響により那珂川河口域が海と
淡水域とをつなぐ要衝であったと考える。
●●35所在地。茨城町下石崎。涸沼のほとり 19/04/24撮影。

■那珂川河口域に人・物資が集中した。
水上交通と関係する古墳や遺物がこの地域に存在すると考える。
■ヤマト王権に関連した遺物があるが、畿内に分布の中心をもたな遺物がある。
これはヤマト王権主導でなく地域主体の地域間交流があったことを示す。
地域間交流には海洋民の活躍があり、海洋民の墓がひたちなか海浜古墳群か?
交流の一つとして九州との関係を示す遺跡が虎塚古墳と十五郎穴横穴墓群か?