22/5/29 水戸・歴史に学ぶ会講演会 御家人北条義時と泰時。
仲田昭一先生。

1151〜1226年・常陸佐竹氏3代当主・佐竹秀義。 
1157〜1225年・北条政子・北条時政の長女・源頼朝の妻。
1168〜1180年・80代・高倉天皇。
1180〜1185年・81代・安徳天皇。
1183〜1198年・82代・後鳥羽天皇。1183年安徳天皇が退去したため即位。
1185年・安徳天皇7才は壇ノ浦の戦いで平家が敗れ入水・亡くなる。
1186〜1252年・常陸佐竹氏4代当主・佐竹義重。
南酒出城は佐竹本家第3代秀義の第3子義茂が築城。
北酒出城は佐竹秀義の第6子助義が築城。
1192〜1199年・源ョ朝・鎌倉幕府初代征夷大将軍。
1198〜1210年・83代・土御門天皇。
1198〜1203年・一幡・源頼家の長男。
1199年・源頼朝52才が亡くなる。
●頼朝の墓・鶴岡八幡宮に近い白旗神社横の階段上にある。2004/1撮影。

北条政子は源頼家の親裁をやめ北条時政ら13人の合議制を導入。
北条義時・北条時政・梶原景時・和田義盛・比企能員・三浦義澄・大江広元・
三善康信・中原親能・八田知家・安達盛長・足立遠元・二階堂行政。
1200〜1219年・公暁・源頼家の2か3男。
1200年・梶原景時は駿河国清見関で討伐される。
三浦義澄74才は梶原一族が討たれた3日後に亡くなる。
安達盛長66才が亡くなる。
1202〜1203年・源頼家・鎌倉幕府2代征夷大将軍。
1203〜1219年・源実朝・鎌倉幕府3代征夷大将軍。
1203〜1205年・北条時政初代執権になる。 
源頼家は源頼朝の異母弟阿野全成を謀反の疑いで常陸へ配流・その後殺す。
頼家は病が重くなり出家しあとを一幡に譲ろうとした。
一幡を擁する比企能員を恐れた北条時政は比企能員と一幡を殺した。
北条時政・大江広元は源頼家を伊豆修善寺へ幽閉・源実朝を擁立する。
1204年・源頼家23才は伊豆修善寺で殺される。
1205年・畠山重忠42才は北条時政に殺される。
北条時政と妻牧は平賀朝雅を将軍に擁立し源実朝の将軍廃止を謀り失敗。
北条時政は伊豆に隠退・平賀朝雅は幕府により京都で殺される。
1205〜1224年・2代執権・北条義時。
2代執権義時の処分例。三浦胤義父子自決・その他の幼少年らを処刑。
1210〜1221年・84代・順徳天皇。
1213年・和田義盛67才は挙兵して敗死。
1217年・北条政子は公暁を鶴岡八幡宮の別当にする。
1219年・源実朝28才は公暁に殺される。
公暁20才は北条義時に殺される。
阿野時元は駿河で挙兵し討たれる。
九条頼経2才が幕府の願いにより鎌倉へ下る。
1220年・源頼家の子禅暁が京都で殺される。
1221年・85代・仲恭天皇。

1221〜1232年・86代・後堀河天皇。
1221年・承久の乱・後鳥羽上皇の朝権回復の意図。
後鳥羽上皇の歌・
奥山の おどろがしたも 踏み分けて 道ある世ぞと ひとにしらせむ。
[人里を遠く離れた山中の藪の中を踏み分け入っても、道があるということを
人に知らせようと思う]
後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を下す。
北条政子は参集した御家人を激励する。
北条泰時・時房、東海・東山・北陸の三軍と西上する。
上皇方の鏡右衛門尉久綱、尾張国住人山田重忠豪胆ら奮戦。
幕府軍入京・上皇は上洛した幕府軍に追討宣旨撤回を示す。
北条泰時・北条時房は京都に常駐・六波羅探題の始め。
後鳥羽上皇は隠岐へ配流。順徳上皇は佐渡へ配流。土御門上皇は土佐へ配流。
佐竹義重・承久の乱の宇治巻島戦で戦功あり。
宇治巻島の戦いで後鳥羽上皇を敗走させる軍功をあげ・本家佐竹氏は美濃国
山田郷の地頭になる。南酒出・北酒出の両家は美濃に領地を得て移住した。
北酒出は廃城、南酒出城は留守居が置かれた。
南酒出城跡は現在堀と土塁が残っている。
●南酒出城跡2013/6/23撮影。

承久の乱で戸村城能通の子通基は北条泰時の軍に従い宇治巻島渡河戦で活躍。
戸村城は鎌倉時代初期に藤原秀郷系の那珂太郎の子孫能通(戸村小三郎)が築く。
●戸村城跡2013/7/15撮影。

1222年・土御門上皇は阿波へ配流。
1224〜1242年・3代執権・北条泰時。
1224年・執権北条義時62才が亡くなる。
北条政子は北条泰時・北条時房を九条頼経の後見とする。
北条泰時執権・北条時房連署となる・連署の始め。
義時の後室伊賀氏ら将軍を廃し一条実雅を立てようと謀り配流となる。
3代執権北条泰時の処分例。検非違使の後藤基清を捕縛、
子の左衛門尉基綱に斬らす。佐々木広綱の子勢多伽丸を一旦は赦すも、
叔父信綱の乞いに押されて叔父をして斬らす。

■栂尾とがのお高山寺住持明恵上人の3代執権北条泰時へのはなし。
1173〜1232年・明恵・華厳宗の僧。
栂尾は殺生を許さない山・明恵は仏に使える。鷹に追われる鳥あれば助け・
猟師に追われる獣あれば保護してきた。 救いを求める人あれば助ける。
官軍将士をかくまった。今後もかくまう。だめというならば明恵の首を刎ねろ。?
■その後泰時が明恵を訪ねての教え。
日本は神武天皇以来・皇統連綿と今に続く。 天皇の命令は絶対のもの。
いやならば日本から出てシナやインドへでも行くしかない。
貴方は官軍を亡ぼし・上皇を遠島へ流し・多くの人々を殺した。
間違っている。この罪は重い・容易には償われない。 

1225年・政所別当大江広元78才が亡くなる。
北条政子69才が亡くなる。
佐竹秀義75才が亡くなる。
1232〜1242年・87代・四条天皇。
1232年・北条泰時は関東御成敗式目を制定する。
1239年・後鳥羽法皇60才は隠岐にて亡くなる。
1242〜1246年・88代・後嵯峨天皇。
1242〜1246年・4代執権・北条経時。
1242年・執権北条泰時60才が亡くなる。
三浦義が村亡くなる。
順徳上皇46才が佐渡にて亡くなる。
1246〜1259年・89代・後深草天皇。
1246〜1256年・5代執権・北条時頼。
北条時頼の母は安達景盛の娘松下禅尼。
1247年・執権時頼は三浦泰村とその一族を滅ぼす・宝治合戦。
1248年・安達景盛が亡くなる。
三浦氏に加担の関政泰所領の関郡、下総大方郷は北条氏得宗領になる。
1256〜1264年・6代執権・北条長時。
1256年・執権北条時頼出家・多くの恩顧の将士倣う。
1259〜1274年・90代・亀山天皇。
1264〜1268年・7代執権・北条政村。
1268〜1284年・8代執権・北条時宗。 
しばしばの蒙古の使者に対応。
1274〜1287年・91代・後宇多天皇。

1274年・蒙古元軍が壱岐・対馬・筑前に上陸・台風により撤退・文永の役。
1281年・蒙古元軍来襲。蒙古元軍大風雨で壊滅・弘安の役。
1284〜1301年・9代執権・北条貞時。 
1284年・北条時宗34才が亡くなる。
1285年・執権北条貞時は安達泰盛一族を滅ぼす・霜月騒動。
安達氏所領の中郡荘は得宗領に。多賀郡の宇佐美氏領は得宗領に。
安達氏に味方した二階堂氏の奥郡久慈西郡は得宗領に。
1287〜1298年・92代・伏見天皇。
1298〜1301年・93代・後伏見天皇。
1301〜1308年・94代・後二条天皇。
1301〜1311年・10代執権・北条師時。
1301年以前に瓜連は得宗領に。佐都西郡の二階堂氏領、那珂西郡の
大中臣姓那珂氏領を除き、奥七郡の大部分が得宗領となる。
1308〜1318年・95代・花園天皇。
1311〜1312年・11代執権・北条宗宣。  
1312〜1315年・12代執権・北条煕時。 
1315〜1316年・13代執権・北条基時。
1316年〜1326年・14代執権・北条高時。 
1318〜1339年・96代・南朝1・後醍醐天皇。
1326年・11日間・15代執権・北条貞顕 
1326〜1333年・16代執権・北条守時。
1331年・後醍醐天皇は鎌倉幕府に対する2度目の倒幕計画発覚で
逃亡後、島流しにされるも脱出。
1331〜1333年・北朝1・光厳天皇。 
後醍醐天皇が倒幕計画発覚で逃亡したため即位。
1333年・幕府滅亡後、建武の新政で光厳天皇の即位を否定。
新田義貞が鎌倉を攻撃。北条高時ら自殺し北条氏滅亡する。
京都の北方探題北条仲時は切腹・従者430余人・全滅。
執権北条高時31才は東勝寺で切腹。
鎌倉一族の殉死者280余人。将士の自決者 870余人。
1336年・後醍醐天皇は足利軍から逃れ吉野朝廷・南朝を開く。
後醍醐天皇の建武の新政失敗後、光厳天皇は弟を光明天皇として即位させる。
光厳天皇即位から南北朝統一まで、京都の朝廷を北朝とする。
1336〜1348年・北朝2・光明天皇。
133 9〜1368年・97代・南朝2・後村上天皇。
●吉野・吉水神社09/7/9撮影。

[1343年頃]・神皇正統記の評価・第87代後嵯峨天皇の項。
[神皇正統記・南朝公卿の北畠親房1293〜1354年が著した本]
●凡そ保元平治より以後の猥みだりがわしさに、頼朝と言うなく、
泰時と云う者なからましかば、日本国の人民いかがなりなまし。

●人臣としては君をとうとみ、民をあわれみ、天にせぐくまり、地にぬき足し、
日月の照らすを仰ぎても、心のきたなくして光りに当たらん事をお(怖)じ、
雨露の施すを見ても、身の正しからずして恵みに漏れん事を顧みるべし、
朝夕に長田狭田の稲の種をくうも皇恩なり、昼夜生井栄井の水の流れを呑むも
神徳なり、在るに任せて欲を恣にし、私を前として公を忘るる心あるならば、
世に久しき理侍らじ。

■頼朝以来約150年の鎌倉時代とは。
源氏の長所は尊王と尚武・欠点は残忍酷薄。
北条は長所は尚武・欠点は残忍。
[残忍酷薄・他人への思いやりがなく、むごい。
自分の都合で平気で人を殺すのが頼朝以来約150年の鎌倉時代]