22/5/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
■全員で正信偈を称える。
■鷲元明俊師・上宮寺前住職。
[ ]はhp制作者のメモです。
■ご讃題。
罪の人々 み名を呼べ 我も光の うちにあり
まどいの眼には 見えねども ほとけはつねに 照らします
[正信偈・源信僧都のところに、
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
とある。
極重の悪人は、ただ仏を称すべし。 我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障て見たてまつらずといえども、大悲ものうきことなく、
常に我を照したまう、といえり。
極重悪人の私が念仏する時、仏の摂取不捨の願いの中にある。
自己中心的な煩悩で眼をさえぎられ、摂取の光が見えなくても、
阿弥陀如来は見捨てることなく私を照らす。
私の身は阿弥陀如来の光のはたらきの中にある]
■心の時代で聴いた。
生きても死んでもつまらなく思っているひとが多い・・・。
[東井義雄師は言っている。
阿弥陀如来は 私たちに
「生きてよし 死してよし どことても み手のまんなか」
の世界をお恵みくださっている]
■「老境や 花を見るにも 南無阿弥陀仏」とあるお寺の掲示板にあった。
咲く花・散る花に自分の人生を思う。
この世での生を終え、阿弥陀如来のはたらきで私は浄土に生まれる。
南無阿弥陀仏の喜びの世界を詠んだ歌と考える。
しかし、南無阿弥陀仏に通夜・葬儀を考える人もいる。
ある住職さんが京都にいった時タクシーに乗った。
いつものように南無阿弥陀仏と称えていると
運転手さんに「大丈夫、安全運転をします」といわれた。
阿弥陀如来の本願は必ず救うまかせよと南無阿弥陀仏のみ名となり
たえず私に呼びかけられている。
その呼び声を聞き開き私は如来の浄土に生まれる。
「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」と親鸞聖人は言われる。
■南無阿弥陀仏とは
無量寿・いのちの本体。
無量光・いのちの願い。
■金子みすずさんの詩「蜂と神さま」
蜂はお花の中に お花はお庭の中に ・・・
世界は神さまの中に ・・・ 神さまは小ちゃな蜂の中に。
これはどういうことなのか? 蜂と神さまは一如である。
私は上宮寺の中に 上宮寺は那珂市の中に 那珂市は茨城県の中に
茨城県は日本の中に 日本は世界の中に 世界は宇宙の中に
宇宙は阿弥陀如来の中に そして 阿弥陀如来は私の中にはたらいている。
これはどういうことなのか? 私と阿弥陀如来は一如である。
■私と仏さま 一如・我が身は無量寿の命をたたえている。
「目の前の人の背後に大いなる命のはたらきを感じられますか?」
といったひとがいる。
[釈尊はすべてをあるがままに見る。
ぽつんとあるものはない。すべてかかわり合いをもっている。
釈尊は縁起の法として教えた。自分一人で生きているのではない。
自分の気付かない大勢の先祖のおかげで今の自分がある。
ちょっと前のご先祖さまのことは私は分かっていない。
親の親の親・・・・。私がここにいるのが不思議なことでもある。
地球が生まれ、生命体が生まれ、人類が生まれ、ホモ・サピエンスが生まれ・・・
多くのご先祖・・・そしてなぜか私がこの世で生きている。
私は多くのご先祖、多くの人や物のおかげで生きている。
自分さえ良ければいいという考えはよくない。
釈尊はいのちのつながりを自他不二、自他一如・一つの如しと説いた。
一如の慈悲に抱かれているのが私の命。
阿弥陀如来は私のことを思い、私の悩み・苦しみをわが問題と受けとめ、
はたらきくださっている。私は決して一人ではない。
阿弥陀如来が南無阿弥陀仏となっていつも願い・守ってくれている]
■みんなつながっている。
■東井義雄師。
[東井義雄師は自分はひとりで生きていると思ってはいけないという。
自分の身体はいただきもの。
のどちんこ・心臓・目・耳など、
自分の意思とは関係なく自分を生かすために
生まれた時から働きに働き続けてくれている。
一度も休むことがない。
そのうちのひとつでも欠ければ生き続けられないこともある。
だれがこの私のためにはたらいてくれたのだろう。
不可思議というしかない。
・・・私は見えないものに生かされている]
■タケ・ツクシ・ヤブガラシなどは根がつながっている。
■つながりの中で私たちは生きている。
私のいのち・歴史はどうなっている? ものすごい世界が広がっている。
先祖が一生懸命伝えてくれたいのち。それが私。
目の前の大いなる命のはたらきを感じる。
ちょっと前のご先祖を知らない私。大いなるはたらきを無量寿という。
■二宮尊徳師。
尊徳は 14才で父・16才で母と死別。 2人の弟を育てる。
財政再建に尽力 600 か所の村を復興。
●二宮尊徳師に教わった柴田順作師のはなし。
順作は駿河の国のひと。家は金持ちだった。
ところが父の代の時貧乏になってしまった。
順作28才の時、遠くに住む尊徳に家を復興する方法を教わりに行った。
しかし、尊徳は教えてくれなかった。
何とか教わろうと順作は手伝いして1年住みこんだ。
教えてもらえない。そして5年たった。
尊徳は順作の話を聞いてくれた。
尊徳「先祖はどのようにして財を得たのか?」
順作「行商をしました」
その瞬間、順作は気が付いた。直ぐに家に帰り行商をはじめた。
人間は偉ぶってはだめだ。原点に帰る。至誠が大事。まごころが大事。
父母のその父母も我が身なり・我を敬せよ・我を愛せよ。
■父母はどこにいる? 私の身体に父母はいる。
■鈴木章子あやこさん。47才。ガンで亡くなる。
身 お与え様
顏
私のぺっちゃ顔を見ると 母の産道を必死で通り抜けようとしている
胎児の私と 血まみれになって 私を生み出そうと細く小さな全身に
汗びっしょりの若き母を思いあがくことがあります。
そんな時 自分がたまらなくいとおしく 好きになります。
代え難きいのちを発見します。
■曽我量深師。
無量無数の祖先が 私の身の中に 心の中に生きている
そして、どうか助かってくれ そして、私を助けてくれ、と
みんな願っている
■助かる
自分が自分であるとわかっていること。
■三味線ばあちゃん。
[ピンピンシャンシャン 声張り上げて唄うまんまがお他力や
どこで死のうと倒れよと そこがそのままお浄土や]
■出雲路暢良ちょうりょう師。
私と友達になって下さいが口癖だった。
■藤谷純子師。
生きるとは身に仕えることです。
■榎本栄一師 朝
自分がどれだけ世に役立っているかより
自分が無限に 世に支えられていることが
朝の微風そよかぜ のなかでわかってくる
■仕合わせ。
仕合わせとは支えて下さっているものにであった 「仕合わせ」
自分は支えられている仕合わせ。
支えてもらっている仕合わせ 海の幸・山の幸の仕合わせ
こもごもの縁
阿弥陀如来に あえた 心あわせ
[極重悪人の私が念仏する時、仏の摂取不捨の願いの中にある。
自己中心的な煩悩で眼をさえぎられ、摂取の光が見えなくても、
阿弥陀如来は見捨てることなく私を照らす。
私の身は阿弥陀如来の光のはたらきの中にある]
■御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候。
そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたもう。
その位を一念発起入正定聚と釈し、そのうえの称名念仏は、
如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。
あなかしこ、あなかしこ。
■上宮寺山門前掲示板の言葉。
眠れない夜を
嘆く者は多いが
目覚めた朝に
感謝する者は少ない
あたり前の なんと尊いことか
それに気ずくのは 失った時です
合掌