22/5/20 那珂市文化財愛護協会 渋沢栄一と水戸藩一ゆかりの人々ー。
令和4年度第1回公開研修会。
那珂市中央公民館大会議室。
那珂市文化財愛護協会顧問 會澤義雄先生。
■1840年・
渋沢栄一は武蔵国榛沢郡安部領血洗島村に生まれた。現在は深谷市。
深谷市は利根川岸にあり、中山道の宿場町、旅籠本陣、脇本陣が多かった。
市内に島の付く地名が多い。利根川岸の少し高い場所に立地している。
八島という血洗島・大塚島などがある。産業は米・麦・大豆・栗・大根・桑・
繭・生絹・太織・葉・藍などの栽培・加工もあった。
血洗島村には渋沢姓が17軒あり、中の家・東の家・西の家・前の家・新屋敷
などと呼んでいた。中の家は娘2人で家の継承者がいなかった。東の家の元助
が婿養子に入り、長女お栄と結婚、元助は市郎右衛門を名のった。中の家に
生まれたのが栄一(篤大夫)。中の家は農業と藍玉の製造・販売を行った。
栄一は父と藍葉の購入に近村に出かけ取引の仕方を覚えた。
栄一はいとこの尾高新五郎に影響をうけた。1841年・新五郎12才の時、水戸城
外の千波ヶ原で追鳥狩を父と見て水戸学に惹かれた。新五郎は私塾を開いてい
た。栄一は毎日のように通った。塾には新五郎の弟長七郎・平九郎、新屋敷の
喜作がいた。新五郎は水戸学派の藤田東湖・会沢正志斎に傾倒し、幕府の開港
政策を批判した。
■1847年・
慶喜が一橋家を継承する。
■1853年・
ペリーのアメリカ艦隊が浦賀にきて開国を要求。幕府は翌年まで猶予を求めた。
栄一は家で農業・養蚕・藍葉の買い付け・加工に従事していた。
■1854年・
栄一14才は叔父に連れられて初めて江戸にいく。
ペリー再来航。日米和親条約を締結。下田・箱館の開港、燃料・食物の供給、
領事駐在許可となる。開国した幕府への不信感・攘夷運動は高まり開国派と
攘夷派の対立が激化。
■1856年・
栄一16才の時、岡部村代官所から呼び出される。父は体調悪く名代として栄一
が出向いた。藩主の姫の結婚のため東の家は1000両、栄一の中の家は500両の
御用金を申しつけられた。栄一は年貢の他に御用金とは納得できなかった。
栄一は帰宅して父に相談、受けるときは改めてくるといった。代官は激高した。
栄一は武家と百姓の差別を実感・幕府政治への不信感を抱く。
■1858年・
栄一は新五郎の妹千代と結婚する。
井伊直弼は貿易の自由を認め、日米修好通商条約の違勅調印。斉昭、尾州慶恕
らと不時登城し井伊直弼へ詰問する。紀伊慶福の将軍継嗣の決定、
安政の大獄で尊王攘夷運動を弾圧。
■1860年・
桜田門外の変。
■1861年・
栄一21才は父の許しを得て江戸遊学。儒者海保漁村に学び、千葉道場に通う。
アメリカ公使館ヒューストンが襲撃され死去。
水戸浪士らがイギリス仮公使館 (東禅寺)を襲撃。
■1862年・
慶喜は幕政改革により将軍後見職になる。
長州藩士の高杉晋作らイギリス公使館を放火。水戸浪士ら尊攘派が老中安藤
信正を襲撃・坂下門外の変。尾高長七郎も関係していた。
■1863年・
栄一は父に自分の自由を認めてもらいたいといった。父は世の道理を踏み外す
ようなことはするなといって認めた。
栄一は高崎城襲撃計画の大義名分を水戸藩士加治権三郎に手紙で意見を聞いている。
栄一は江戸で武器を調達する。高崎城襲撃計画は長七郎が反対した。
倒幕尊攘派の最激派天誅組は大和に挙兵したが、 追討諸藩兵に破れ壊滅した。
長州藩は8月18日 の政変で京都に於ける地位を失った。栄一と喜作は襲撃
計画の実行を迫ったか情勢を見ることになった。
江戸滞在中に一橋慶喜用人平岡円四郎に出会い、京都に来るよう誘われた。
栄一と喜作は一旦家に二戻り、その後江戸の円四郎宅を訪ねた。円四郎は京都
に向かっていた。円四郎夫人のはからいで栄一と喜作は、円四郎の家来という
ことで京都に向かった。京都で円四郎から一橋家の家来にならないかといわれる。
栄一と喜作は一橋慶喜が天下の状況を危惧している志あるものを召し抱え、
禁裏守衛総督の職務を尽くすというのであれば、どのような役目も厭わないと
言った。そして慶喜への意見書の提出と拝謁を願い出た。
■1864年・
栄一と喜作は慶喜に謁見・家臣になる。
栄一の最初の仕事は円四郎の密命で薩摩藩の動勢調査。薩摩藩は禁裏御守衛
総督、攝海防禦に積極的に取り組み、山階宮にも参殿し、斡旋依頼していると
ことを把握し平四郎に報告。慶喜自ら朝廷に働きかけ禁裏御守衛総督・摂海
防御指揮になった。
その後円四郎は水戸藩士により暗殺される。「天下の権、朝廷にあるべくして
幕府にあり、幕府にあるべくして一橋にあり、一橋にあるべくして平岡にあり」
とまで言われた。
水戸藩では、急進派と保守派の諸生派が対立した。藤田小四郎が筑波山で挙兵。
武田耕雲斎を頭に尊王攘夷の心情を慶喜に訴えるため京都を目指した。
天狗・諸生の乱。上洛の途中金沢で降伏し、敦賀で処刑された。栄一は慶喜の
軍に加わり琵琶湖北部まで出ている。
禁門の変 (蛤御門の変)。長州藩は勢力回復のため藩主父子の雪冤、尊攘派7卿
の赦免を願ったが許されず、会津・薩摩の兵と蛤御門で戦い敗北した。
第1次長州征伐・長州藩は幕府に恭順の意を示し謝罪する。
■1865年・
栄一は農民から兵を募集することを提案。歩兵取立御用掛となる。一橋家の
所領、摂津・和泉・播磨・備中から歩兵450人を集める。
栄一は一橋家の財政充実・健全化のため関西の一橋家賄い地の調査・改革する。
良質年貢米を灘の酒造家に直売し収入増加を図る。火薬製造に重要な尾中産
硝石の工場を設ける。藩札を発行して播州木綿の買い入れを行う。
栄一は理財に優れた能吏として勘定組頭になる。
■1866年・
薩長同盟成立・討幕運動が激化。大坂・江戸では打ち壊し、百姓一揆の続発。
将軍徳川家茂20才が亡くなる。
孝明天皇36才が亡くなる。
解兵の沙汰書が公布され江戸幕府の権威は失墜した。
慶喜が将軍になる。
栄一と喜作は一橘家の家臣から徳川家の幕臣になる。
側用人原市之進から栄一に将軍代理で徳川昭武がパリ万博にいくので随行する
ように話があった。
■1867年・
1月11日、徳川昭武一行27名はフランス国郵船で横浜港出港。
上海〜香港〜サイゴン〜セイロン〜アデン?スエズ運河〜アレクサンドリア〜
シチリア島〜2月29 マルセイユ到着。横浜港から48日間。
3月7日、リヨン駅到着。3月24日、昭武はナポレオン3世との謁見式・
チュエリー宮殿に臨む。4月1日〜11月3日、パリ万国博覧会の開催。
ナポレオン3世は1853年から近代的都市計画でパリ市街の大規模な改造を行い
上下水道、街路整備を計ると共に病院、学校、ガス燈の公共施設の整備を進め、
模範的都市を参加国に披露する。
[ヴィクトル・ユーゴーが1862年に執筆したレ・ミゼラブルには、1832年の
パリの暴動が書かれている。ジャン・ヴァルジャンがパリの下水道内を瀕死の
マリユスを担いで長いこと歩き回り救い出す。1832年に下水道はかなり整備
されていた?]
●パリ市街・97/4/29撮影。
[97/4/29の旅行記憶・パリホテルへの道。
地図を見ながら歩くがまったくこの地の道路は分かりづらい。建物も同じよう
に見える。一人歩きで目的地まで行くには大変。途中、アジア的な人に道路を
確認したら、自信を持って少し違う道を教えてくれた。しかし、何とか昨日の
デパートを見つける。次に、デパートの裏にあるスーパーをさがす。何とか
見つかる。スーパーで買い物。・・・パリの道は放射状で分かりづらかった]
昭武一行はヨーロッパの国々の科学・技術の進歩、文明の成果を競い
合ってるのに驚いた。日本も養蚕、漆器、美術工芸品で受章。
昭武はフランス語を学ぶ、栄一も学ぶ。栄一は銀行家のエラールに出会い、
銀行の仕組み、業務内容、為替、貨幣制度など経済、金融の在り方を学んだ。
フランスからの600万ドルの借款契約は不成立に終わっている。
昭武一行はパリを出発〜スイス到着、
ベルン・ジュネーブで時計・電信機工場など精密機械工業・絹織物工場を見学〜
オランダ到着、国会議事堂・ダイヤモンド工場・軍艦・銃砲製造工場を見学〜
ベルギー到着、製鉄所・兵器工場を見学〜
イタリア到着、議事堂・石細工工場を見学〜
イギリス到着、軍艦・武器・弾薬庫を見学〜10月24日、パリ帰着。
栄一は庶務・会計を担当、友好国歴訪で各国の通貨状況や外国通貨との交換
方式などを実体験した。各国訪問は鉄道を利用、鉄道の重要性を知る。
スエズ運河の工事を見て「すべて西人の事を興す。ひとり一身一個のために
せず、多くは全国全洲の鴻益をはかる。その規模の遠大にして目途の宏壮なる、
なお感ずべし」と記している。
また、士農工商のような社会制度がないのも驚いた。
10月・大政奉還。
12月、王政復古のクーデター。
慶喜の江戸帰城、寛永寺・水戸弘道館での謹慎生活。
■1868年・
鳥羽・伏見の戦い。戊辰戦争。
9月、明治天皇即位。江戸は東京と新たに改められる。
昭武一行はパリを出発。横浜港へ到着。
12月、栄一は慶喜の謹慎の駿府の宝台院を訪ねる。帰国の挨拶・昭武の手紙を
渡して経過報告。
栄一は訪欧中の経費を静岡藩の勘定組へ報告。静岡藩勘定組頭に任命されたが、
欧州諸国の産業革命を見た栄一はこれを断り新しい殖産興業を目指そうとした。
■1869年・
新政府は各藩が維新の混乱で金融が逼迫、救済のために石高拝借と言う融資。
新紙幣を発行し、年利3分で各藩に貸し付け、13年間で返却させる制度である。
当時静岡藩は53万両の石高拝借を受けていた。栄一は勘定組頭と相談し拝借金
の活用のため商法会所を設けた。銀行と社の機能を持った合本法に基づく日本
最初の株式会社の開業だった。
栄一は新政府から民部省租税正に任命された。大蔵卿は伊達宗城、
大輔大隈重信、小輔伊藤博文で大隈が実権を握っていた。栄一は慶喜への恩義
と静岡の商法会所のことがあり新政府に仕官したくなかった。しかし大隈に
説き伏せられる。事務の秩序や 企画性がなく、栄一は大隈に進言して改正係を
設け、調査研究し、必要な場合は法制化をして組織の整備を計った。大隈は
後に「渋沢君は八面鋒という勢いで働かれた。財政の事、地方行政のこと、殖産
興業のこと、あらゆる方面に活躍された」と言っている。
■1871年・
大蔵卿大久保利通、大蔵大輔井上馨、大蔵大丞渋沢栄一となる。
■1872年・
栄一は大蔵少輔に昇進するが、井上馨と共に大蔵省を退官する。
租税制度の改正・物納制から通貨納制へ。貨幣改鋳・新貨条例の制定・十進法
採用・円銭厘の新貨幣の鋳造。国立銀行条例の制定・多数の国立銀行設立。
栄一は欧州の金融や証券取引所を視察。多くの人から資金を集め都市改造や
インフラの整備が行われているのをみて、殖産興業には金融業の整備は欠かせ
ないとして数々の改革を進めた。栄一は日本の資本主義の父と言われる。
栄一の関係した企業、団体は約500社。
主な企業は第一国立銀行・王子製紙・東京海上保険・東京養育院など。