22/5/15 那珂市 根本正と夫人徳子を結ぶもの。
根本正顕彰会 令和4年公開講演会。那珂市中央公民館。
水戸歴史に学ぶ会 齋藤郁子先生。
■根本徳子と根本正に関する年表・女学雑誌等を参考に作成。

■1846年・
根本徳子の祖父母・桜任蔵35才と石黒春子29才が結婚。
■1848年・
*桜春子が長男桜甲太郎を出産。
■1849年・
*桜春子が根本徳子の母桜静子を出産。
*桜静子は桜春子の伯母浅井宅に預けられる。
■1851年・
*根本正が常陸国東木倉村に生まれる。
■1858年・
*桜任蔵は江戸を脱して西上。桜春子は桜静子9才を浅井宅に預けたまま、
桜申太郎を連れ鹿島郡の小沼宅へ。安政の大獄直後は大洗に逗留する。
■1859年・
*桜春子・桜申太郎・桜静子は御前山村長倉庄屋大森宅にいく。
■1861年・
*桜春子46才は長倉大森宅で亡くなる。
■1863年・
*根本正12才は豊田天功の家僕となる。
*桜甲太郎・桜静子は藤田健に引き取られる。
■1866年・
*桜春雄(申太郎)は丹恒子と結婚する。
*桜静子は小川忠次郎と結婚する。
*水戸藩士豊田天功の長男豊田小太郎33才・生きらは脱藩し江戸へ行く。
豊田小太郎は京都で本圀寺警衛するが水戸藩尊王攘夷の過激派に暗殺された。
■1867年・
*根本正16才は水戸藩の役人となる。
*小川静子が小川徳子を生む。
*?年・小川徳子の父小川忠次郎が亡くなる。
■1868年・
*小川静子20才は小川忠次郎の遺言で関直之介と結婚する。

■1871年・
*根本正20才が上京・藤田健宅に住む。三叉学者に学ぶ。
*関直之介と桜春雄は宮内省に出仕する。
*関静子は関直之介との間に1男1女を出産。
■1872年・
*根本正21才は中村正直の私塾に入る。
*根本正は警視庁巡査になる。
■1873年・
*中村正直は同人社を開校。
■1874年・
*根本正23才は駅通寮の雇いになる。
*根本正と立川弘毅は豊田小太郎の仮葬を京都本圀寺支院で行う。
■1875年・
*根本正は同人社を退学。
*根本正は神戸局に雇いとして赴任。
■1877年・
*根本正は横浜局に転任。判任官となる。
*根本正はヘボン・バラ塾で学ぶ。
■1878年・
*根本正は洗礼を受ける。
■1879年・
*根本正27才は渡米・オークランド市の小学校に入学。
カリフォルニア州弁護士バラスト一家で働く。
■1880年・
*桜井女学校は幼稚園を開園。
■1881年・
*根本正29才はホプキンス中学校に入学。
*小川徳子は桜井女学校に入学。
■1885年・
*根本正33才はパーモント大学に入学。
■1886年・
*小川徳子の母関静子38才が亡くなる。
*婦人禁酒会設立準備43名が虎門外会堂に集会。
*婦人矯風会の仮事務所が女学雑誌社内にできる。
■1887年・
*豊田英雄は徳川篤敬イタリア全権公使総子夫人の相手役で随行。
*東京婦人矯風会の発会を赤坂で開く。
*東京矯風会の10数名は桜井女学校で会合。矯風会活動を見直す。活動は
藝娼妓全廃を目標にする。藝娼妓全廃に賛同する他の婦人会と協力し活動する。

■1888年・
*私立高田女学校開校。プロテスタント系キリスト教主義女学校。
桜井女学校をモデルとした。
最初の赴任は米人ミス・デビス・小川徳子・井上チセ。修業
年限は4年。英語・漢文・数学・地歴・裁縫などを教えた。また修身の代わり
に、祈りや聖書講義があった。唱歌はオルガンで讃美歌も歌った。英語は発音
が重視された。生徒は30〜40人、多い時は60人を越えた。
■1889年・
*桜井女学校は英語の教授に上級の小川徳子らが、赤い帯・裾長に着た衣服に
靴履きのハイカラの風俗で教授した。英語は上手で羨望の的だった。
*米国バーモント大学に学ぶ根本正は婦人禁酒会の事業に熱心で、東京の
婦人矯風会と米国の婦人禁酒会との間の連絡に尽くした。女学雑誌本社に
数多くの報告を寄せ書を送った。
*根本正はバーモント大学を卒業。
*根本正は英独伊を歴訪。帰国の船で日本の国会議員・名士らと会う。
*小川徳子は桜井女学校高等科を卒業。
*小川徳子は女学院附属小学校で教鞭をとる。
*小川徳子は姉妹校の高田女学校で教員を務める。
*豊田英雄は西フランスにいく。
■1890年・
*豊田英雄は徳川総子夫人と帰国・根本正も同行。
*根本正は禁酒事業で婦人矯風会とウイラード女史との間の周旋をした。
*兵庫県廃娼同盟会が発会式を行う。根本正ら3名の演説。
*日本矯風同盟会は神田錦町・佐々木城豊壽宅で開かれた。出席者は
上毛青年会連合会・北總禁酒・北海禁酒会・廃娼壮年議会・東京禁酒・
婦人白標倶楽部の代表ら。根本正ら4人の演説あり。
*東京廃娼会。委員根本正ら15名を選挙する。
*出席者64名の懇親会で根本正ら9人が演説する。
*根本正は明治女学校の講師となり社会学を講じることになった。
*那珂郡木崎青年会が廃娼論の大討論会を開く。
*京橋で廃娼壮年議会・東京廃娼会・婦人白標倶楽部・東京禁酒会ら6団体に
よる廃娼主義有志者の懇親会があった。矯風会長を議長に選ぶ。根本正は
帝国議会へ廃娼建白入呈のため委員を選ぶ発案する。
*根本正ら9人は、東京廃娼会のために、第一帝国会議に対する廃娼上の運動法
を議定した。全国の諸廃娼会・府下の同志4団体と協力し、今年必らず
妓楼主人の選挙権を滅すと決めた。
*根本正は東京禁酒会設立。
*東京禁酒会は副会長を根本正とした。府下の如き酒弊氾濫の地には禁酒の事業
は容易でない。根本正の老実は如何なる酒魔も辟易するはず。
*小川徳子は高田女学校退職。
*根本正と小川徳子が結婚する。媒酌人豊田英雄・保証人安藤太郎夫妻・
新居は芝の琴平町。
■1891年・
*長男根本美倫が生まれる。
*近衛兵第4連隊45名は、軍人が戦場で予想に反し敗れる原因は、飲酒の場合が多い。
・・・禁酒会に加盟した。禁酒奨励会を開き根本正ら2名が演説。
*太田婦人協会は太田町の帰願寺で集会・30〜40人が参加した。

■1892年・
*来日するウエスト嬢より東京婦人矯風会会頭宛に手紙が届いた。同会は根本正
に返書を依頼し返事した。
■1893年・
*根本正は移民調査のためメキシコへ出発。
*東京婦人矯風会を日本キリスト教婦人矯風会と改称。通信書記根本徳子。
■1894年・
*矯風会会員は南豊島郡大久保村に約1,600坪の土地を購入した。根本徳子は
3人の地主に選出された。金は矯風会会員の立替金・有志者の寄付金・
多くの人の浄財だった。
*豊田美雄は麹町区に翆芳学舎を開校。申請書に根本徳子の名前あり。
根本正は中南米視察に出発。
*豊田美雄の翆芳学舎が東京知事から認可される。翆芳舎の命名は藤田健・
根本徳子の受け持ちは裁縫と編み物。
■1895年・
*根本正はバーモント大学・中南米視察から帰国。
*豊田英雄は宇都宮高等女学校兼栃木県尋常師範学校教諭兼任。
*翆芳学舎を閉校。
■1896年・
*根本正は北米・中南米商工業視察に出発。
■1898年・
*根本正46才は第5回総選挙に自由党から立候補・初当選。
■1897年・
*高田女学校は次第に生徒数が減少し廃校となる。
■1899年・
*根本正提案の国民教育授業料全廃建議案が可決される。
*根本正はインド・ビルマの商工業を視察する。
*根本正提案の未成年者喫煙禁止法案が可決される。
■1903年・
*豊田芙雄は茨城県女子師範学校舎監。
*豊田芙雄は茨城県立水戸高等女学校教諭兼茨城県女子師範学校教諭となる。
■1906年・
*根本正提案の公立幼稚園保母に恩給を与える法案が成立する。
*日本キリスト教幼稚園連盟が創立される。
*女子学院で撮った婦人矯風会メンバーに根本徳子あり。於:。
■1909年・
*長男根本美倫18才が亡くなる。
■1911年・
*次男根本正次が亡くなる。
■1912年・
*豊田英雄は茨城女子師範学校舎監を解職。
■1917年・
*桜春雄69才が亡くなる。
*豊田英雄は水戸高等女子学校の講師嘱託となる。
■1921年・
*根本正は中国・満洲・朝鮮を視察。
■1922年・
*関東大震災で被害にあう。
*豊田英雄は水戸高等女学校講師解職。
■1924年・
*根本正は政界を引退する。
■1925年・
*豊田英雄は大成女学校校長となる。
■1927年・
*豊田英雄は大成女学校を退職。
■1933年・
*根本正81才が亡くなる。
■1935年・
*豊田英雄は豊田小太郎の墓を京都より常磐共有墓地に移す。
■1941年・
*豊田英雄96才が亡くなる。
■1943年・
*根本徳子76才が亡くなる。