22/5/12 常陸大宮市上岩瀬 三日月上人了誉と誕生寺。 
御城山東泉院誕生寺 浄土宗。
本尊、阿弥陀如来。
佐竹一族高僧三日月上人了誉聖冏の誕生の寺。
01山門。

02
南北朝時代、白石志摩守宗義が上岩瀬に館を構えていた。
館は今の誕生寺の場所といわれる。
誕生寺の北側・南側に土塁・掘跡が残っている。
かつては東側・西側にも土塁・堀があったらしい。

03本堂。

04北側土塁・堀跡。

05南側土塁・堀跡。

06東側久慈川方面。

■岩瀬与一太郎。
岩瀬与一太郎は金砂合戦で敗れ囚われ源頼朝の前で涙ながらに
同じ源氏の佐竹氏を討ったことを非難・諫言したと吾妻鏡にある。
岩瀬与一太郎は上岩瀬でなく下岩瀬の館に住んでいたと思われる。
1180年・佐竹義政は源頼朝に謀殺される。岩瀬与一太郎は佐竹義政の家来。
春日神社に岩瀬与一太郎諫言図絵馬がある。陣屋の中に大紋に烏帽子の
源頼朝を前庭に囚われた岩瀬与一大郎を描く。
岩瀬氏は下岩瀬の武士、小貫氏は岩瀬与一大郎の子孫と称した。
■以下は住職さまよりいただいた2019年企画展
没後600年佐竹一族に生まれた高僧三日月上人了誉聖冏
のパンフレットを参考に作成しました。

■寺の歴史。
1330年・了実は太田法然寺の蓮勝に師事し久慈郡佐都郷に常福寺を開く。
1338年・常福寺は佐竹義篤の支援を受け瓜連白蓮塚に移る。
1341年・了誉は白石志摩守宗義の子として上岩瀬に生まれる。
母は橘氏か、小田治久の女といわれる。
両親は下岩瀬の春日神社に子を授かるよう参籠・了誉が生まれた。
1345年・父は南北朝の戦いで討死。了誉と母は鴻巣の宝幢院に身を寄せた。
1348年・了誉は出家。常福寺の了実に師事する。
1355年・了誉は蓮勝に浄土宗義を学ぶ。
1358年・了誉は相模桑原道場の定慧に師事。
1365年・了誉は12年間の兼学で、真言・天台・禅・神道・和歌・儒教を学ぶ。
千葉一族のもとで布教、聖聡が弟子となる。
了誉が兼学を終え瓜連に帰った時、了実75才・了誉38才。
●常福寺 11/5/6撮影。
 
了誉と聖聡は、浄土宗を独立した教団とするため、浄土宗教義の優れたこと、
教えの正統性を示すため、法然・善導ら浄土宗諸祖の書を引用し書物を著した。
1372年・了誉は下総横曽根に談所を開設。
1377年・了誉は破邪顕正義を著す。
1382年・了誉は横曽根に観音山大悲院法性寺を建立。浄土宗義の講義を
行い檀林を整備。横曽根談所と呼ばれる。
1383年・了誉は浄土二蔵二教略頸を著す。
1385年・了誉は釈浄土二蔵義を著す。
1386年・了実が亡くなり了誉が常福寺2世となる。
1388年・瓜連の大火により常福寺焼失。
1390年・兵乱のため阿弥陀山の洞くつに逃れ10年間の著述生活に入る。
現在下軽山荘厳院香仙寺がある。
●常陸太田市松栄町 香仙寺にある洞窟。12/10/20撮影。

1393年・了誉は聖聡に五重を授ける。
1395年・了誉は白旗式条を著す。
1396年・了誉は青柳本願寺を建立。決疑鈔直牒を著す。
1404年・了誉は五重指南目録を著す。
1405年・瓜連城跡に常福寺を移して再建。
1414年・嘆誉良肇は飯沼弘経寺を開山。
浄土真宗下総報恩寺が真宗横曽根門徒の拠点だった。
横曽根に多くの学僧が集まり研鑽し教義の修得に努めた。
1415年・了誉は常福寺を了智へ譲る。小石川に隠遁。無量寿経寺を開山。
1416年・上杉禅秀の乱により常福寺荒廃。
了誉は阿弥陀山の洞窟に逃れ干し柿で飢えをしのぐ生活。
聖聡は了誉を江戸に招く。
1420年・了誉は小石川寿経寺で亡くなる80才。
了智が下岩瀬館跡に光明寺(のちの誕生寺)を開山。
1432年・了智が阿弥陀山に香仙寺を開山。
●香仙寺 12/10/20撮影。

1452年・常福寺は後花園天皇の勅願所となり復興。
1457年〜1460年・小貫頼定は部垂城主として岩瀬を支配。
小貫・岩崎・下岩瀬・上岩瀬に白石氏や岩瀬氏の子孫・小貫氏の遺跡が残る。
1529年・小貫氏は宇留野義元に敗れる。
1543年・常福寺は知恩院末寺となる。
1602年・徳川家康から寺領100石を与えられ関東18檀林となる。
1662年頃まで・光明寺は廃絶するが、瓜連常福寺18世真誉が再興する。
1700年・光圀が光明寺を整備・御城山東泉院誕生寺と改名する。
下村田福聚寺・安養寺・泉の光宗寺を誕生寺に合併し寺領8石4斗を与えた。
天保期1831年〜1845年に至るまで常福寺は向山浄鑑院の隠居寺となり衰微する。
斉昭の時に寺蹟は瓜連に戻される。
2019年・企画展 没後600年佐竹一族に生まれた高僧 三日月上人了誉聖冏。
.2022年・誕生寺の北側と南側に堀と土塁が残る。
かつては東側・西側にもあったらしい。
境内に了誉の誕生に用いた産湯の井戸・智水の井がある。