22/5/11 ひたちなかの考古学第1回 虎塚古墳と十五郎穴。
令和4年度 生涯学習講座 (前期) 
ひたちなか市埋蔵文化財調査センター 稲田健一先生。
■ひたちなか市の古墳。
確認した古墳、45ケ所・134基。消滅古墳を含め255基。
現在見つかっている遺跡 326遺跡。
■太平洋岸の古墳。
●ひたちなか市の太平洋岸。15/6/29撮影。

古墳群11、愛宕神社古墳群・前山古墳群・川子塚西古墳群・磯前東古墳群・
磯合古墳群・入道古墳群・三ツ塚古墳群・新道古墳群・東塚原古墳群・
和田ノ上古墳群・部田野古墳群。
古墳5、川子塚古墳・大穴塚古墳・権現塚古墳・和尚塚・ぼんぼり山古墳。
■那珂川左岸。
古墳群9、・道理山古墳群・宮前古墳群・高井古墳群・三反田古墳群・
相対古墳群・市毛古墳群・天神山古墳群・津田西山古墳群・津田若宮古墳群。
古墳1、寺前古墳。
■中丸川流域。
古墳群10、笠谷古墳群・金上古墳群・勝倉古墳群・長堀古墳群・大平古墳群・
殿塚古墳群・大島古墳群・外野開拓古墳群・田彦古墳群・寄居新田古墳群。
■本郷川流域。
古墳群2、虎塚古墳群・馬渡古墳群。
■大川流域。
古墳群2、中根中区古墳群・鉾ノ宮古墳群。
●新川流域。
古墳群4、寺畑古墳群・二ツ森古墳群・老ノ塚古墳群・孫目古墳群。
古墳1、足崎古墳。
■太平洋岸・那珂川・中丸川流域に古墳が集中している。内陸部に少ない。
前方後円墳は那珂川・中丸川流域に集中。
■墳形、前方後円墳・帆立貝形古墳・方墳・円墳。円墳が多い。
■前方後円墳15基。
●太平洋岸。川子塚古墳1基81m。
●那珂川流域。寺前古墳1基50m。高井古墳群1基。三反田古墳群3基30m他。
津田西山古墳群1基25m。
●三反田小学校近くの大きな未調査前方後円墳。近所の方の話。20/4/19撮影。

●中丸川流域。笠谷古墳群2基43m・23m。
●大平古墳群3基50m他。
●田彦古墳群1基。
●本郷川流域。虎塚古墳群1基57m。
●大川流域。鉾ノ宮古墳群1基32m。
■埋葬施設。
箱式石棺。横穴式石室。土壙。木炭槨。未発掘調査の埋葬施設が多い。
■埴輪のある古墳は500年〜600年。600年以降は埴輪がない。
■三ツ塚古墳の円墳は50m2基。
■茨城県に古墳は1万基以上ある。前方後円墳は445基・全国2位。
1位は千葉県677基。
舟塚山古墳183m・東日本2位。1位は群馬県太田天神山古墳210m。
■虎塚古墳群。
前方後円墳1基・方墳2基・不明2基。
前方後円墳は1973年発掘調査で見つかった装飾古墳。全長約57m・高さ約5m。
石室内の温度・湿度・空気組成を測定した古墳。温度15度前後・湿度98%以上・
炭酸ガスは通常の100倍の濃度。現在も測定は継続している。
●古墳の複製。埋蔵文化財調査センターに展示されている。10/12/26撮影。

■顔料。白色・部田野石、赤色・ベンガラ。
■茨城県の装飾古墳18基・彩色8基。
■日本の装飾古墳の数・約700基。
熊本県205基・福岡県81基・宮崎県66基・鳥取県54基・大阪府31基・
佐賀県31基・宮城県31基・大分県30基・神奈川県27基・福島県25基・
島根県25基・千葉県20基・茨城県18基。
■福岡県桂川町王塚古墳の色。
黄色・黄土。白色・白土。黒色・マンガン・酸化物と炭素。告F・酷y。
灰色・灰土。
■装飾文様。
横穴式石室、壁面に白土を下塗り、上に赤色のベンガラで連続三角文・大刀・
靭が描かれている。一部の文様は線刻を併用。
■虎塚古墳の彩色と線刻を併用する技法。
日立市十王前横穴墓群・福島県いわき市の中田横穴墓にもある。
ひたちなか市からいわき市の太平洋沿岸の装飾古墳の特徴・遺跡の立地から
海を介した交流が想定される。
■熊本県の永安寺東古墳・塚坊主古墳など菊池川流域の装飾古墳にも
線刻の併用がある。円文や三角文の文様も類似している。
■茨城県と九州との関連。
虎塚古墳の三角文と円文。十王前横穴墓群の三角文と菱形文。これらの文様で、
さらに彩色・線刻を併用するもの虎塚1号墳・十王前横穴墓群3基。
福島県いわき市中田横穴墓・東国では5基のみ。
■常陸国風土記に那賀国造・建借間命の記載がある。建借間命が東国平定に
派遣された。土着豪族を討つため海の船上で7日7夜踊りや歌を続けた。
土着豪族がこれを聞きに浜にきたところを討ちとった。建借間命は神武天皇の
皇子、神八井耳命の子孫。神八井耳命の子孫に装飾古墳が造られた地域の国造
がいる。建借間命は装飾古墳が造られた地域の国造と同じ系譜。
■虎塚古墳は最初の埋葬から20年〜30年後に2度目の埋葬があった。最初の
埋葬者と副葬品をすべて排除している。血縁が感じられない。古墳が乗っ取られている。
■虎塚古墳石室公開。
1980年一般公を開開始。2020年一般公開開始40周年。2023年壁画発見50周年。
石室公開は原則春期 8日間、秋期 8日間の計16日間。
●石室への入口。10/12/26撮影。

■壁画保存のため専門業者による紫外灯で観察室の消毒。
■十五郎穴横穴墓群調査。
調査目的は遺跡全体像の把握。遺跡範囲と横穴墓数を確定。
調査期間・2007年度〜2014年度の8年間。
横穴墓は崖面に横に穴を掘り造った墓。玄室・後門・墓前域。
総数 274基。指渋支群 122基・館出支群 97 基・笠谷支群 55基。
●十五郎穴横穴墓群。10/12/26撮影。

■館出支群T・35号墓調査。
調査期間・2011年10月〜2012年3月。
調査目的。未盗掘横穴墓の記録と保存。十五郎穴横穴墓群の性格を明確にする。
●墓入口部分の出土土器。
盤17点・杯18点・蓋17点・高杯4点・壺2点。合計58個体。
時期・8世紀第4四半期・大半が水戸市木葉下窯産。
●玄室内。
大刀1口蕨手刀約54cm。・刀子5口・鉄鏃19点以上・鉄釘181点・須恵器1個。
■館出支群・T区第35号墓。
横穴墓の構造・十五郎穴で最大規模・特異な構造。
出土遺物、羨道部・ 57個体の須恵器。
玄室部・大刀・刀子・鉄鏃・鉄釘。
時期・須恵器の時期から8世紀第4四半期〜9世紀第2四半期。
10体の人骨・火葬骨も有。
■まとめ。
遺跡範囲は約1km。
横穴墓の数は274基・推定で500基以上。東日本で最大級。
いろいろな形の横穴墓がある。形は集団により違う。多数の集団が存在したか?
T35号墓出土の蕨手刀。茨城県で2例目の出土。
T35号墓出土の金銅製の刀子。正倉院宝物以外では全国で唯一の出土。
T35号墓の鉄釘から木製容器の存在。全国の横穴墓で初確認。
T35号墓の人骨のDNA分析。茨城県内の横穴墓出土人骨で初の調査例。
■1940年・十五郎穴横穴墓群は茨城県指定史に跡認定される。
「当遺跡は県下稀にみる横穴墓群であり、多くの横穴墓の密集と個々の横穴墓
が比較的既往の破壊をまぬがれている」と評価された。
今回調査は70年以上経った現在も最高の状態で遺跡が保存されていることが
証明された。
■続日本紀に那賀郡は中央の蝦夷対策に貢献したとある。
出土遺物はこの地は奈良時代以降も海上交通の要衝だったことを示す。
■外海と内陸とを結ぶ要衝。地域の気候や潮流、沿岸地形を熟知した集団。
航海・漕艇・運輸・造船の集団・海洋民の存在。
装飾古墳は近畿に分布の中心を持たない遺物・ヤマト政権主導ではない、
地域を主体とする地域間交流が展開したか。その交流の一つとして常陸と九州
とのつながりがあったのではないか??
■常陸と九州との関係。
磐井の反乱後、北九州の勢力はヤマト政権に臣従した。水運を主力とし関東に
進出し、常陸に本拠を置き東北に進出した。この集団はヤマト政権の外縁に
あって征服戦の尖兵的役割を担った。北九州の兵力が遙か遠い蝦夷征討の役割
を課せられた。日本古代試論・大和岩雄。

■優れた航海術をもつ北九州の集団が常陸に送られ、常陸の海洋民は、その
集団から新たな航海術を学んだか??
■熊本と似ている
那珂湊・大洗は海陸輸送の拠点。蝦夷征服の輸送拠点だった?
国の指示で熊本から来た人が墓をつくった??