22/5/8 那珂市 水戸・歴史に学ぶ会 鎌倉幕府三人の将軍。源頼朝・頼家・実朝。
仲田昭一先生。
■1180年・4月・高倉宮以仁王の平家討伐の令旨・源行家が諸国へ伝達する。
5月・源頼政は以仁王を奉じ挙兵・宇治平等院で自害。以仁王は奈良で亡くなる。
6月・平清盛は安徳天皇・後白河・高倉両上皇を奉じ福原に移る。
8月・源頼朝は伊豆で挙兵。石橋山の戦。源氏方は源頼朝ら300騎。
平家方は大庭景親・俣野景久・渋谷重国・海老名季貞・熊谷直実ら3,000騎。
源氏は敗れ・源頼朝は房総で再起する。源頼朝に上総広常・千葉常胤が味方・
2万騎の軍となる。武蔵国に侵入。南関東の大勢が源頼朝につく。豊島清光・
葛西清重・足立遠元・畠山重忠・河越重頼・江戸重長。
9月・木曽義仲が信濃で挙兵。
10月・鎌倉で源頼義は石清水八幡宮を勧請・源義家は社殿を修復・源義朝は
館を構築・源頼朝は鶴岡八幡宮を遷宮。
11月・富士川の合戦。平維盛は敗退し京都へ逃げ帰る・平清盛は激怒する。
源頼朝は黄瀬川で源義経と対面する。藤原秀衡は源義経に佐藤継信・佐藤忠信
兄弟を付けた。
金砂合戦。源頼朝が伊豆で旗揚げ時、在京中の佐竹隆義は不参加だった。
源頼朝は佐竹討伐の兵を挙げる。佐竹秀義は太田城を出て金砂山城に籠城。
佐竹秀義の叔父の裏切りで城への間道・諸沢口から攻撃され落城する。
●金砂城跡・常陸太田市上宮河内町・10/10/16撮影。

佐竹秀義は金砂城退去して領内の花園山中へ。
佐竹氏所領の没収。佐伯氏・宇佐美氏・伊賀氏・二階堂氏各家臣へ。
●岩瀬与一太郎は金砂合戦で敗れ囚われた。源頼朝の前で涙ながらに
同じ源氏の佐竹氏を討ったことを非難・諫言した。源頼朝は感じ入って
岩瀬与一太郎を御家人に加えた。
岩瀬与一太郎は常陸大宮市下岩瀬の館に住んでいたと思われる。
南北朝時代、白石氏が上岩瀬の館に住んでいた。現在館跡は誕生寺があり、
誕生寺の北側・南側に土塁・掘跡が残っている。かつては東側・西側にも
土塁・堀があったらしい。
●誕生寺北側土塁・堀跡。22/5/12撮影。

12月・平清盛は福原から京都へ帰り後白河法皇の院政を復活する。
平重衡は平清盛の命で南都を攻め東大寺・興福寺を焼く。
■1181年・2月・志田三郎義広が源頼朝に叛いて挙兵・木曽義仲軍へ。
源頼朝と木曽義仲の対立となる。
平清盛が亡くなる64才。
■1183年・7月・木曽義仲・源行家が入京する。
平家一族が安徳天皇・神器をもち西海に逃げる。
8月・後鳥羽天皇は後白河法皇の詔により即位。
12月・源頼朝は木曽義仲追討のため源範頼・源義経を上洛させる。
上総広常が謀殺される。
■1184年・1月・源範頼・源義経が入京する。木曽義仲が粟津で戦死31才。
源頼朝は後白河法皇より平氏追討の院宣を受ける。
2月・一ノ谷の合戦。鵯越の戦い。
■1185年・2月・屋島の合戦。源義経は梶原景時の逆櫓説を拒否。
佐藤継信戦死。
3月・長門壇ノ浦の合戦。平家一門滅亡。平清盛夫人・安徳天皇8才亡くなる。
建礼門院徳子は救われる。平宗盛・平清宗父子捕縛。平景清は行方不明。
●建礼門院徳子の過ごした京都大原寂光院 8/2/7撮影。
建礼門院御詠歌。  
思ひきや み山のおくに 住居して 雲井の月を よそに見むとは

5月・源義経は源頼朝に鎌倉入りを拒否される。源義経の腰越状。いかで愁訴を
達せん・・・。源義経は源頼朝の命で平宗盛・平宗清と帰京・近江で斬る。
■叛逆の厳禁。
●源頼朝の旗揚げに参じた長田忠致・景致父子は平家追討に活躍。源頼朝の
恩賞は源頼朝の父源義朝墓前での磔だった。
●尾張国玉井四郎助重は勅命に背いて乱暴する。源頼朝の命に応じず悪口を
吐く。きまりを守らない。日域に住んではだめ、関東を軽んじるので鎌倉に
きてはだめ、早く逐電すべし。
10月・源義経の奏請により源頼朝追討の院宣下る。鎌倉の源頼朝は出陣。
11月・源義経は兵が集まらず京を落ち海路九州へ逃れようとする。摂津国
大物浦で難破。その後姿をかくす。源頼朝は鎌倉へ引き上げる。
後白河法皇は、源頼朝の要求により源頼朝に源義経・源行家追討の院宣を下す。
源義経は京都を脱出し吉野山へ。静御前が捕縛される。


源頼朝の要求により守護・地頭設置が勅許される。
源頼朝は潮来に長勝寺を建立。後に北条高時が鐘を寄進。鐘には水郷潮来の
景観を伝える句がある。客船夜泊 常陸蘇城。長勝寺には頼朝の肖像画があり、実物に近いという。
●潮来市潮来 海雲山長勝寺 臨済宗妙心寺派。10/6/13撮影。
鐘楼。

■1186年・源行家が和泉で討たれる。
■1187年・源頼朝は院宣により下河辺行平・千葉常胤を群盗鎮圧に京都に派遣。
■安宅関。源義経が奥州平泉へ落ちのびる途中、山伏姿で安宅関にくる。
関守富樫泰家は源義経に似ていると詮議する。弁慶は勧進のためと説明する。
富樫泰家に勧進帳をみせろといわれた弁慶は白紙の勧進帳を読み上げる。
弁慶は源義経に似たおまえのためいつも難儀すると源義経をたたく。
心に感じた富樫泰家は源義経と知りながらも関を通した。
■1188年・2月・源頼朝は藤原基成・藤原泰衡に源義経討伐を命ずる。
■1189年・4月・藤原泰衡が源義経31才を衣川に討つ。
●平泉町・高館義経堂から北上川・束稲山・衣川古戦場を見る 9/7/25撮影。

平景行は平重盛の遺骨を分骨し小松寺に埋葬。
7月・源頼朝は奥州征伐に鎌倉を出発。佐竹秀義は源頼朝へ帰順。宇都宮で
会見。源頼朝への忠誠を誓う。無紋白旗・赤月印5本骨。
9月・藤原泰衡は郎従に殺される。
■1190年・10月・源頼朝が上洛する。
11月・源頼朝は法皇・天皇に拝謁・右近衛大将となる。
■1191年・佐竹別当 (秀義?) が常陸国から源頼朝の陣中に参加じて盃酒を献す。
■1192年・7月・源頼朝が征夷大将軍になる。倉幕府開始。
■1193年・5月・源頼朝が富士裾野で巻狩りを行う。北条義時・三浦義澄・
梶原景時らが参加。巻狩りの最中に曽我祐成・曽我時致兄弟が父の仇工藤祐経
を討つ。曽我兄弟の仇討は、鎌倉の北条政子に源頼朝が討たれたと届いた。
源範頼は北条政子を安心させるため、兄源頼朝のあとは私がいるので心配ない
といった。後日これを知った源頼朝は怒った。棟梁は頼朝、範頼・義経らは
臣下なり。源範頼に謀反の意志ありと疑った。
8月・源範頼は忠誠心を示す起請文を源頼朝へ提出した。起請文の署名に
参河守源範頼と源氏姓を用いた。身分不相応とさらに源頼朝を怒らせた。
源範頼は伊豆国修善寺に幽閉され斬殺された。
■1195年・3月・源頼朝は上洛し東大寺開眼供養に臨む。
■1197年・10月・幕府は8万4千基の小塔を造り保元以来の諸国叛亡者を供養。
■1198年・1月・後鳥羽天皇は土御門天皇に譲位する。
12月・源頼朝は相模川の橋の造営供養に臨んだ帰路落馬する。
■1199年・1月・源頼朝が亡くなる53才。頼家が後嗣となる。

●頼朝の墓・鶴岡八幡宮に近い白旗神社横の階段上にある。2004/1撮影。

4月・北条政子は源頼家の親裁をやめ、北条時政ら13人の合議制を導入。
北条義時・北条時政・梶原景時・和田義盛・比企能員・三浦義澄・大江広元・
三善康信・中原親能・八田知家・安達盛長・足立遠元・二階堂行政。
■1200年・1月・梶原景時は駿河国清見関にて討伐される。
三浦義澄・安達盛長亡くなる。
■1201年・10月・北条泰時は伊豆国の飢民に米・塩などを給付する。
■1202年・7月・源頼家は征夷大将軍に補任。
■1203年・5月・源頼家は阿野全成を謀反の疑いで常陸へ配流。
6月・源頼家は八田知家に命じて阿野全成を誅す。
8月・源頼家は関東28国地頭職・総守護職を子の一幡に譲り、関西38国地頭職
を弟千幡(実朝) に譲る。
9月・比企能員と一幡は源頼家と北条氏打倒を謀り北条時政に殺される。
比企の乱。北条時政・大江広元らは源頼家を伊豆修善寺へ幽閉・源実朝を擁立。
■1204年・7月・源頼家は斬殺される23才。
10月・源実朝との婚姻で下向する坊門信清の息女を迎えに結城朝光ら上洛。
■1205年・6月・北条時政が畠山重忠を討つ42才。
7月・北条時政と妻牧は平賀朝雅を将軍に擁立、源実朝の将軍廃立を謀り失敗。
北条時政は伊豆に隠退し北条義時が執権となる。幕府は平賀朝雅を京都で討つ。
■1212年・5月・後鳥羽上皇は藤原秀能を鎮西に派遣し宝剣を捜索。
和田義盛挙兵して戦死67才。和田合戦。
■1215年・3月・朝廷は源実朝に宣旨を下し、僧徒を修行に専念させる。
■1217年・6月・北条政子は源頼家の子公暁を鶴岡八幡宮の別当とする。
■1219年・1月・源実朝28才は鶴岡八幡宮で公暁に殺される。
●本宮(上宮)から舞殿を見る。右の大きい樹は大イチョウ。2004/1撮影。
大イチョウは樹齢1,000年以上・高さ30m。実朝はイチョウの陰に潜んでいた
頼家の子公暁に「父の仇」といわれ殺された。隠れ銀杏といわれる。

三浦義村は北条義時の命で公暁を討つ。
2月・駿河で挙兵した阿野時元を討つ。
7月・幕府の願いにより九条頼経2才が鎌倉へ下る。
■1220年・4月・源頼家の子禅暁が京都で殺される。
■源頼家。頼家の政治的後見人は梶原景時・畠山重忠だった。
■源実朝。当時第一流の歌人といわれる。