22/4/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
ツツジ・ヤシオ・シャクナゲがきれいに咲いていました。
■全員で正信偈を称える。
■松岡満優師 群馬県富岡市・蓮照寺住職。

■ご讃題。
如来の作願をたずぬれば、苦悩の有情をすてずして、
回向を首としたまいて、大悲心をば成就せり
■諸行無常・苦悩の有情・阿弥陀如来の本願についての話があった。

■御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候。
そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたもう。
その位を一念発起入正定聚と釈し、そのうえの称名念仏は、
如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。
あなかしこ、あなかしこ。

■上宮寺山門前掲示板の言葉。
病気が治ることが
御利益ではない
病気を無駄にしない
智慧をいただくのが
御利益である


むだにしないとは
その病いによって
自分にとって大切な
ことに気づくことです
その気づきによって病いさえも
手が合わせることができた時
病いと共に生きる世界を賜るのです
 それが念佛の利益です

■以下はhp制作者のメモです。
■親鸞聖人は正像末和讃にいう。
「如来の作願をたずぬれば、苦悩の有情をすてずして、
回向を首としたまひて、大悲心をば成就せり」
■訳
阿弥陀如来がたてた本願の心を考えれば、
本願は私のこの世での苦しみや悲しみをとり除くことではない。
本願は私がこの世の縁の尽きるとき
私を如来の浄土に生まれさせること。
阿弥陀如来の本願は必ず救うまかせよと、
南無阿弥陀仏の名号となり
たえず私によびかけられている。
私はこのよび声を聞いて
阿弥陀如来の救いにおまかせする。
私は唯称名念仏を称えるだけ。
私は如来の大悲心に生かされて
南無阿弥陀仏を称え真実の道を歩む。
私はこの世の縁の尽きるとき
如来の浄土に生まれる。

■諸行無常とは。
平家物語の冒頭のことば。
この世のものはたえまなく変化し続ける。
生老病死・人が生まれるのも無常・老いるのも無常・
病になるのも無常・死ぬのも無常。
貧しい人が金持ちになるのも無常。
不幸な人が幸せになるのも無常。
万物は流転する。
生きている時間・限りある命を大切にすべきと考える。

■無量寿経に無常の道理が書いてある。
「生れ変り死に変りして絶えることのないのが世の常である。
あるいは親が子を亡くして泣き、あるいは子が親を失って泣き、
兄弟夫婦も互いに死に別れて泣きあう。
老いたものから死ぬこともあれば、逆に若いものから死ぬこともある。
これが無常の道理である」。

■苦悩の有情。
人は苦悩する。
ひとつの悩みがなくなると、次の悩みがでてくる。
そして老いて病になり死んでいく。
だれもが同じである。

■NHK教育テレビの「こころの時代」東井義雄仏の声を聞くより。 
東井義雄師は貧しい寺に育った。
師範学校2年生の夏休みに
「休み中に漢文の本を1冊以上読む」という宿題がでた。
家は真宗の寺・浄土三部経を読むことにした。
仏説無量寿経から読んだ。上巻を和文に書き直し下巻に進む。
大変な言葉にぶつかった。
独来独去・どこらいどっこ・独り来たり 独り去り。
無一隋者・むいちずいしゃ・一いつの随う者なし。
これを読んだ時、
「世界中こんなに人間たくさんいるのに、
いざとなったら人間、独りぼっちなんだ。
私という人間は世界に一人しかいないんだ」と思った。
読み進むと、また大変な言葉にぶつかった。
身自当之・しんじとうし・身自みずからこれにあたる。
無有代者・むうだいしゃ・代わる者あることなし。
この大変さを代わってくれる者がない。
みんな人間は、自分の荷物はどんなに重くても辛くても、
自分で背負って生きるしかない。
「代わる者あることなし」と「代わる者なし」ということとは違う。
「代わる者なし」はたまたま、そのとき「代わる者がいなかった」という程度のこと、
「代わる者あることなし」は待っていても、
どこにも「代わる者が金輪際ない」ということ。
親でも子どもに代わって生きてやることはできない。
仏さまでも代わって生きてくださることができない。
人間は独りぼっちなんです。

■機法一体。
機は衆生の信心。法は阿弥陀如来が衆生を救う力・はたらきのこと。
両者は一つであって異なるものではない。
蓮如上人は御文章に書いている。
南無の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。
つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、
弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。
このゆえに、
機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。