22/4/17 水戸・歴史に学ぶ会講演会 平家の公達「清盛と重盛、重衡」。
仲田昭一先生。

■日本の三忠臣とは?
江戸時代の儒学者により忠臣とされた3人。
楠木正成・平重盛・万里小路藤房をいう。
■那珂市一乗院に景清桜がある。
景清は藤原景清のこと。平家に仕えたので平景清ともいう。
景清が多聞堂修理のときに指揮した桜の枝を地に挿した。
それが育ったという。
◆多聞堂と景清桜(右のしだれ桜)。22/4/20那珂市・一乗院。

■城里町の小松寺に平重盛の墓がある。
平重盛に仕えた平貞能さだよしは平家一門都落ちのとき、
重盛の墓を掘り起こした。
遺骨を野山に埋葬・一部の遺骨を持ち重盛夫人を伴い
大掾平義幹よしもとのところにくる。
義幹から現在の小松寺の場所を給わり遺骨を埋葬した。
堂塔を創建し小松寺とした。義幹の子が僧となり重盛の霊を弔った。
◆平重盛墳墓。10/4/18城里町大字上入野・小松寺。

■行方市羽生の萬福寺に重盛の分骨がある。
平貞能は源氏の追手を考え、
重盛の分骨と重盛の祈願仏阿弥陀如来立像を持ち萬福寺にきた。
貞能は僧となり萬福寺で重盛と平家一門の冥福を祈り亡くなった。
◆阿弥陀如来立像と観世音菩薩と勢至菩薩。11/5/7行方市羽生・萬福寺。

■栃木県益子町の地蔵院には立派な五輪塔がある。
宇都宮氏の墓。
■常磐御前の子への想い。
常磐御前は源義朝の側室、今若・乙若・牛若(後の源義経)を産む。
平治の乱で義朝が逃亡中に殺害され、常磐御前は23歳で未亡人になる。
子を連れ雪中を逃げて大和国に着く。
都にいた母が捕らえられたと知り、清盛のところにいき母の助命を願う。
子の処刑を見るのは忍びないので、自分を先に処刑すよう懇願する。
心うたれた清盛は頼朝を助けたことを理由に子を助ける。

■782〜805年・桓武天皇は諸国に堂宇を建立した。
那珂市一乗院の多聞堂もそのひとつ。
907年・唐滅亡。960年・北宋建国。1127年・南宋建国。
遣唐使など公貿易・太宰府鴻臚館。
私貿易。博多・肥前神崎・坊津・越前敦賀。
清盛の父忠盛は佐賀県神崎荘の預所での日宋貿易に着目・瀬戸内海航路を整備。
肥後・安芸・播磨の国司を歴任し海上・瀬戸内海交通路を掌握した。

1156年・保元の乱・崇徳上皇敗北讃岐配流・源為義刑死・源為朝伊豆大島配流。
1158年・清盛太宰大弐就任・博多に人工港修築し貿易を振興する。
1159年・平治の乱。藤原信頼・源義朝ら清盛に破れる。信頼は処刑される。
1160年・義朝は尾張で殺される。頼朝は宗清・池の禅尼の助力で伊豆配流。
1164年・崇徳法皇崩御。
清盛一族は法華経を書写し厳島神社に奉納。
◆99/8/19安芸の宮島・巌島神社。

後白河法皇命で清盛が三十三間堂を造営。
◆8/2/7京都市・三十三間堂。

1165年・二条天皇崩御。
1166年・清盛弟頼盛が太宰大弐に就任し赴任。
1168年・清盛隠退し福原へ・安芸厳島神社修造。
1171年・清盛の娘徳子が入内する。
1173年・福原の大輪田泊拡張。後白河法皇・高倉天皇厳島神社へ臨幸。
平家領備前国牛窓・備後国鞆・尾道を整備・安芸国音戸瀬戸を開削。
船着き場の船津・年貢輸送中継地の倉敷を設置。
清盛は貿易で富み在地武士の支配力を強化、水軍・漁業権を掌握した。
清盛の国際性・先進性・博識・政権構想の規模の大きさを示す。
清盛は諸国の由緒ある堂宇を修復させる。
那珂市一乗院多聞堂の修復に藤原景清が派遣された。
1174年・後白河法皇が厳島に参詣・清盛ら平家一門が随従する。
平家一門の繁栄。「平家一門にあらざれば人にあらず」
清盛太政大臣・重盛内大臣で左大将・ 宗盛中納言で右大将・
清盛の娘は天皇家・貴族に嫁ぐ。
「日本秋津洲は、六十六箇国、平家知行の国世余箇国、既に半国に超える。
庄園・田畠いくらという数を知らず」
◆01平家一門にあらざれば人にあらず。3/2/11高松市平家物語歴史館。

1177年・鹿ケ谷の陰謀。藤原成親を備前・俊寛を鬼界ヶ島に配流。
後白河法皇が平家を討伐するとの噂がでる。
清盛は兵を招集し後白河法皇を幽閉しようとする。重盛が清盛を諌める。
「平家一門は賊を討ち乱を平らげた功績が多い。何の咎があってこのように
武装しているのか。このようなことはすべきではない。このようなことを
すれば姦人がこの機会に乗じ讒言するかもしれない。
平家一門は天皇家を敬い民を憐れむ。そうすれば神の加護がある」。
清盛は重盛を称賛し兵の招集をやめた。
■重盛の次男資盛すけもり一行が、摂政藤原基房の一行と行き会った。
資盛一行は馬を下り礼をとる必要があった。しかし一行は駆けて通ろうした。
摂政基房の従者は資盛一行に馬から下りるようにいった。
しかし資盛一行は馬を下りず駆けて通ろうした。
摂政基房一行は資盛や侍たちを馬から引きずり下ろした。
これを聞いた清盛は「清盛の身内に恥をかかせた」と怒った。
重盛は「資盛が殿下に出会い乗物から下りないのが悪い」といって、
その時関係した侍を呼び「今後はよく心得ること」といった。
清盛の怒りは収まらず摂政基房に仕返しをする。
摂政基房一行を侍に待ち伏せさせ襲わせ従者の髻もとどりを切ってしまった。
重盛は清盛にこんなことをさせる原因をつくった資盛を厳しく咎めた。
礼儀をわきまえず無礼を働き清盛の悪評判をつくるのは不孝の至りといった。
◆02清盛の孫、摂政・基房を辱める。3/2/11高松市平家物語歴史館。

1179年・平重盛(42)亡くなる。
清盛は院政を停止し後白河法皇を幽閉する。
1180年・高倉天皇崩御(20)。安徳天皇 (3) に譲位。
「入道相国、よろず思うままなるが致すところなり。
心ある人々の涙を流し、心を傷ましめずということなし」
高倉宮以仁王が平家討伐の令旨をだす。諸国への伝達は頼朝の叔父行家。
平清盛は安徳天皇と後白河法皇を奉じ福原に移る。
源頼朝が伊豆で挙兵・木曽義仲が信濃で挙兵する。
石橋山の戦い。源頼朝と平氏勢力大庭景親らが戦い源頼朝は大敗。
富士川の戦い。源頼朝と平維盛との戦い。維盛は臆病風で敗退・京へ逃げ帰る。清盛が激怒する。
◆03水鳥の羽音を敵の鬨の声と違え戦わず敗走。3/2/11高松市平家物語歴史館。

1181年・平清盛は京都へ帰り後白河法皇の院政を復活する。
平重衡は清盛の命により南都を攻め東大寺・興福寺を焼く。
◆04平重衛、大仏を焼く。3/2/11高松市平家物語歴史館。

平清盛(64)亡くなる。「ただ恨むる所のものは頼朝の首を見ざるなり。
我没するの日、堂塔を造ること無かれ・・・。
願わくは、頼朝の首を斬りて以て墓上に懸けよ、・・・」
◆05清盛、高熱を出して死去。3/2/11高松市平家物語歴史館。

1182年・京都は飢饉で死者を多数だす。
1183年・木曽義仲・源行家が入京。
平家一族が安徳天皇・神器を奉じ西海に逃げる。
後白河法皇の詔により後鳥羽天皇即位。
源頼朝は義仲追討のため弟範頼・義経を上洛させる。
1184年・範頼・義経が入京する。木曽義仲は粟津で敗死 (31)。
一ノ谷の合戦・鵯越の戦い。
◆06坂落としとして有名。3/2/11高松市平家物語歴史館。

平重衡を捕縛。重衡は頼朝に「早く斬罪に処せ」という。
頼朝は重衡を待遇し酒宴、千手の前は琵琶・重衡は横笛。
酒宴が終わって千手の前が退席するときに、重衡が吟じた。
「灯暗うして数行虞氏の涙、夜深うして四面楚歌の声」
頼朝は酒宴にでなかったことを恥じ千手の前を重衡の世話役にした。
1185年・重衡は東大寺・興福寺勢により斬首(29)される。
屋島の合戦。長門壇ノ浦の合戦。
◆談古嶺からの展望。3/10/19高松市屋島の看板説明より。

安徳天皇 (8)・清盛夫人二位の尼入水。
建礼門院徳子は生き残り京へ送還されて出家。
大原寂光院で安徳天皇と平家一門の霊を弔った。
平家一門滅亡。
◆08安徳天皇、入水。3/2/11高松市平家物語歴史館。

宗盛・清宗父子は捕縛される。
頼朝は宗盛・清宗に引見・比企能員にいわせる。
「平家の人々に特に怨みなし。朝敵追討の院宣を受けて軍兵を遣わした。
鎌倉までお下りいただき、恐縮に存じます」
宗盛「命ばかりはお助け下さい。出家して仏の道に入りたい」
清宗「我が家、世々朝家を護り、功ありて過無きは、世人の共に知る所なり。
事既に此に至る。復何をか言わん。唯々速やかに死を賜わるを幸と為す」と。
頼朝は処刑するのは忍びず自裁させようとする。
俎上に魚を盛り刀を置いて自裁を促した。
宗盛は頼朝の意が分からなかった。
宗清はその意を知ったが父に先だつ死を忍びず自裁を止めた。
■尋常小学唱歌・青葉の笛。
■歌詞1番
一の谷の 軍いくさ破れ 
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に 
聞こえしは これか 青葉の笛
■1184年・一ノ谷の合戦・源義経の奇襲で平氏は潰走。
平家の子弟・子女は哀れだった。
平敦盛は横笛の名手だった。戦場でも笛を吹いた。
敦盛は熊谷直実と一騎打ちになる・直実は敦盛を組み伏せた。
顔は息子と同じ年頃だった・ためらったが敦盛を討った。
そこには青葉の笛があった。
直実は戦場での笛の音を想い、無情を悟り後に出家し高野山にいく。
◆07平敦盛と熊谷直実。3/2/11高松市平家物語歴史館。

■歌詞2番
更ふくる夜半よわに 門かどを敲たたき 
わが師に託せし 言ことの葉あわれ 
今わの際きわまで 持ちし箙えびらに 
残れるは 花や 今宵の歌
■平忠度ただのりは、歌人藤原俊成に師事していた。
忠度は平家都落ちの際、夜中に藤原俊成の屋敷にいき
自分の歌の書かれた巻物を託した。
一の谷の合戦で忠度は武蔵国の岡部忠澄と戦って討死した。
討死した忠度の箙えびらには、歌が結びついていた。
「行き暮れて 木の下蔭を 宿とせば 花や今宵の あるじならまし」
旅の途中、日が暮れてしまった。
木陰を宿とすれば、花が今夜の宿のあるじとなるだろう。