22/4/3 水戸・歴史に学ぶ会春季講演会。
仲田昭一先生。
源頼朝の父「義朝」の苦悩。
大日本史を中心として源義朝のはなしがあった。
文覚・頼朝の話もあったが省略。

■天皇略譜。
後三条−白河−堀河−鳥羽−崇徳−近衛−後白河−二条-六条−高倉−安徳
■源義朝。
頼朝・義経の父。
1123年・源為義の長男として生まれる。河内源氏。
河内源氏は一族内紛で凋落。
義朝は都から東国へ移り、少年期を過ごす。
成長した義朝は勢力を伸ばす。
東国は長男義平に任せ都へ戻る。
鳥羽院に接近。
1153年・従五位下・下野守となる。
1154年・右馬助を兼ねる。
寺社勢力鎮圧・院領支配のため義朝の武力が必要とされた。
1155年・弟の義賢を長男義平に討たせる。
義朝と父為義の対立が激化する。

1156年・保元の乱。
崇徳上皇側の父為義・弟頼賢・為朝ら。
後白河側の義朝・平清盛。
義朝は父・兄弟と対立し後白河側として戦う。 戦いは後白側の勝利となる。
義朝は悩んだが父為義・弟頼賢・為朝らを処刑した。
恩賞として左馬頭となる。

■平治の乱。
1160年・義朝は藤原信頼らと後白河側近の信西らがいる三条殿を襲撃する。
逃れた信西を殺す。
藤原信頼と二条天皇親政派が対立。
都から離れていた清盛は信頼に従うふりをして都に戻る。
二条天皇は六波羅に移る。後白河上皇は仁和寺に移る。
源光保・源頼政は信頼・義朝から離れる。
六波羅に行くものが増える。
清盛は官軍となる。
信頼・義朝は賊軍となり討伐される側となる。
清盛らの官軍に義朝は負ける。
息子の義平・朝長・頼朝らと東国べ下る。
途中戦闘で多くが亡くなる。
頼朝は一行からはぐれて捕らえられる。
義朝は尾張国で入浴中に殺される。38才。

[■義朝へ父殺しの非難。是か非か?
と仲田先生に聞かれた。
三国志・180年頃〜280年頃のはなしが頭に浮かんだ。
■曹操の呂伯奢一家殺害を思った。
董卓の暗殺に失敗した曹操。実家へ向かって逃げる。
途中、県令の陳宮に捕まる。
陳宮は曹操に心酔し曹操と逃げる。
途中、曹操の父と義兄弟の呂伯奢の家に寄る。
呂伯奢は来訪を喜び曹操と陳宮が追われていることを知りながら歓待する。
呂伯奢は酒を買いに外出する。
曹操と陳宮は扉から刀を研ぐ音と「縛って殺せ」という声を聞く。
曹操と陳宮は、呂伯奢の家人が2人を殺す話をしていると思った。
そこで2人は先手をうち家人8人を惨殺する。
部屋の隅には豚が縛られていた。家人は料理の準備をしていたのだった。
2人は呂伯奢の家を出る。しばらくして酒を買って帰宅中の呂伯奢とあう。
「自分らを泊めたとあれば迷惑がかかる」と曹操と陳宮は先へ急ぐ。
しばらくして曹操は「やることを思い出した」と呂伯奢の家へ戻る。
戻ってきた曹操は「呂伯奢を斬ってきた。
呂伯奢が家人の皆殺しを知れば訴えられ逃げるのが難しくなる。
俺が天下の人を裏切っても、天下の人が俺を裏切るのは許さない」
といった。

■つきに劉備が阿斗を放り投げる場面を思った。
趙雲は長坂破で単騎で百万の敵中を突破・阿斗を救出する。
趙雲は「若君やっと着きました」と阿斗を劉備に手渡す。
次の瞬間、劉備は阿斗を地面に放り投げた。
劉備は「赤子ひとりのために私は素晴らしい将軍を失うところだった」
といった。

■つぎに壬生義士伝・義のために戦う吉村貫一郎を思った。
「徳川の殿軍を務めている。天皇に弓引くつもりはないが、
負けが分かっていても全力で戦わないといけない。
私は義のために戦をしなければならない」といって敵中にひとり突撃する。

■つぎに義のために戦った会津藩を思った。
天皇のため・徳川幕府のために最前線で命を懸けて戦った会津藩。
最後は逆賊と言われ惨敗・厳しい処分をうけた。
しかし会津藩は逆賊ではない。義のために戦ったのだ。

■戦争では人を殺せば勲章・普通には人を殺せば殺人。
ひとの常識・判断は時に応じて常に変化する。
釈尊は親・兄弟を殺すことは最も悪いこと説いた。
義朝は平清盛らと後白河側になる。
義朝の父為義は他の子らとともに崇徳側になる。
こうなってしまっては、勝敗が決まれば負けた側は処分される。
それは親子でも・戦の結果でありやむなしである。
処分する・処分されるのがいやなら戦わないことである。
しかし悲しいことに凡夫は、自分の際限ない欲のために行動する。
今もむかしも何ら変わらない]