22/3/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座。 
真宗本願寺派。
[ ]はhp制作者メモ。
■全員で正信偈を称える。
■合群信哉師 栃木県 清浄寺住職。

■ご讃題
[聞き取れなかった。以下だった??]
煩悩具足の凡夫・・・
念仏往生の願は如来の往相廻向の正業・正因なりとみえて候。
■真宗の法事は他宗とは異なる。
人が亡くなると初七日〜七七日・100日・1周忌、.3回忌と法事がある。
人は亡くなると順次十王に裁かれる。
法事により十王に対して死者への減罪嘆願を行う。
真宗では信心を得た人は亡くなったとき直ちに極楽浄土に往生させてもらう。
そのため十王に対して減罪の嘆願はいらない。
歎異抄には親鸞聖人は
「父母のために念仏を称えたことはない」といったとある。
■人は2度死ぬという。
1度目は肉体的に死ぬとき。
2度目は人々から忘れられるとき。
法事には故人に関係する人が集まり故人を偲ぶ。
その時故人は生きていることになる。

■臨終来迎。
浄土に往生したいと願う人の臨終に、阿弥陀仏が菩薩、聖衆(浄土の聖者)を率いてその人を迎えに来る。
真宗では信心を得たとき往生が定まるので臨終来迎を期することはない。
臨終来迎を期するのは自力と考える。

■法然上人等七高僧・経典では信心を得たとき往生が定まるといってない。
親鸞聖人は何故言ったのか・・・??
■源信僧都は往生要集に臨終行儀をかいている。
亡くなる人の場所・亡くなる人を見送る人のこと。
亡くなるときにやらねばならないことが書いてある。
これは亡くなる前からの準備が必要で、凡夫には難しい。
臨終行儀は限られた特定の人しか実行できない。
突然に亡くなった場合もできない。
[以下は往生要集に書かれた臨終行儀の一部。
祇園精舎の西北の角、 日の没する方所に無常院をつくる。
病人があるとその中に移して置く。・・・
金箔で像を塗り、 顔を西方に向けてある。・・・
その仏蔵の右手は挙げ、 左手の中には、
一つの五色の幡の端を垂れて地に曳ひいているものを繋いでいる。 ・・・
念仏三昧の方法に依って、顔を西に向け、
心もまた専注して阿弥陀仏を観想し、
心も口も相応して称名を絶やすことなく、 決定して往生する想いをなし、
蓮台に乗った聖衆が来たって迎えてくださる想いをせよ。
病人は、 もしその境界ありさまを見たならば、 看病人に向かって話すがよい。
聞きおわったならば、 話したとおりに記録せよ。・・・
また、 病人がもし話すことができなければ、
看病人は必ずしばしばどのような境界を見たかと病人に問え。
行者たちは、 もし親族のものが来て看病する場合には、
酒や肉や五辛を食べた人がいないようにせねばならない。
もしそのような人がいたならば、 決して病人の側に近づかせてはならぬ。
もしそういうことがあれば病人は正念を失い、 鬼神がこもごも来て乱し、
病人は狂い死んで三悪道に堕ちるであろう。・・・。]

[■臨終行儀は凡夫にはできない。凡夫を救わねば・・・・。
■親鸞聖人は御消息でいっている。
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆえに。
臨終は、諸行往生のひとにいうみと。
いまだ真実の信心をえざるがゆえなり。
また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、
すすめらるるときにいうことなり。
真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚の位に住す。
このために臨終をまつことない。来迎をたのむことはない。
信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。]

[■念仏往生の願は如来の往相廻向の正業・正因なり。
以下は教行信証 信の巻より。
つつしんで往相の回向をうかがうと、この中に大信がある。
大信心は、生死を超えた命を得る不思議な法であり、
浄土を願い娑婆世界を厭うすぐれた道であり、
阿弥陀仏が選び取り回向してくださった疑いのない心であり、
他力より与えられる深く広い信心であり、
金剛のように堅固で破壊されることのない真実の心であり、
それを得れば浄土へは往きやすいが自力では得られない浄らかな信であり、
如来の巧妙におさめられて護られる一心であり、
たぐいまれなすぐれた大信であり、
世間一般の考えでは信じがたい近道であり、
この上ないさとりを開く真実の因であり、
たちどころにあらゆる功徳が満たされる浄らかな道であり、
この上ないさとりの徳をおさめた信心の海である。

この信心は念仏往生の願(第十八願)に誓われている。
この大いなる願を選択本願と名づけ、また本願三心の願と名づけ、
また至心信楽の願と名づける。
また往相信心の願とも名づけることができる。・・・
常に迷いの海に沈んでいる凡夫、・・・衆生は、・・・
さとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。・・・
至心信楽の本願(第十八願)の文は、無量寿経に次のように説かれている。
「わたしが仏になったとき、あらゆる人々が、
まことの心で(至心)信じ喜び(信楽)、わたしの国に生れると思って(欲生)、
たとえば十声念仏して(乃至十念)、もし生れることができないようなら、
わたしは決してさとりを開くまい。
ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」]

[■煩悩具足の凡夫は真実の心を持てない。
阿弥陀仏は凡夫を救うため、真実の心である至心の成就を本願に誓った。

●信楽は本願の真実を疑いなく一心に信じること。
阿弥陀仏を一心に信じている衆生の心ではない。
衆生を摂取される如来の真実心である。
●欲生は阿弥陀仏自身が衆生に
「如来の至心信楽を獲得して、わが安楽浄土に生まれよ」
と一心に願われている心。]

[●阿弥陀仏は私に対して、ただわが名を呼べという。
私の口より出ている南無阿弥陀仏は如来より来た声なのだ。
南無阿弥陀仏は如来が衆生を浄土に往生させてくれる往相廻向の正業なのだ。
私はただ南無阿弥陀仏と称名念仏するだけなのだ。]

■御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候。
そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたもう。
その位を一念発起入正定聚と釈し、そのうえの称名念仏は、
如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。
あなかしこ、あなかしこ。

■上宮寺山門前掲示板の言葉。
亡き人を佛と拝み
拝まるる佛になるぞと今を生きる

    
佛とは自我をはなれ
万人平等にいつくしむ人です
尊い方です
お念仏がその世界の入口です
どうぞ聞法をして下さい
「今」が輝きます