22/3/5 ひたちなか市 古墳時代の交流「臨海部の古墳からみた交流」
第14回公開講座 ひたちなか市の考古学
古墳時代の交流 第3回
稲田健一先生 ひたちなか市埋蔵文化財調査センター。
以下のような話だったと思う。

■臨海部に100基以上の古墳。
ひたちなか市では2011年から臨海部古墳の調査が増えた。
ひたちなか市の臨海部に100基以上の古墳がある。
古墳群は海と関わりのあることがわかった。
臨海部の古墳は太平洋沿岸に展開されている。

■磯浜古墳群。
ひたちなか市に古墳時代前期の古墳はない。
大洗町にある磯浜古墳群は古墳時代前期初め〜中期に入るまでの古墳がある。
磯浜古墳群は太平洋に面する鹿島台地の北端部にあり・東は太平洋、
西は涸沼・涸沼川、北は那珂川、南は台地が切れ、島状台地にある。
前方後円墳2基・前方後方墳1基・大型円墳1基・墳形不明2基がある。
なかでも日下ヶ塚古墳は全長101mで当時地域最大級の前方後円墳だ。
磯浜古墳群は水上交通の要衝地にあり那珂川河口域臨海部の古墳のはじまりだ。
日下ヶ塚古墳からの眺め。

■三ツ塚第三古墳群の築造。
磯浜古墳群の終り頃、ひたちなか市臨海部で三ツ塚第三古墳群の築造が始まる。。
築造は約70mの帆立貝形古墳の第13号墳と約50mの大型円墳の第12号墳。
壺形埴輪が第12号墳から出土した。
壺形埴輪は日下ヶ塚古墳・車塚古墳出土の壺形埴輪の影響がみられる。
磯浜古墳群と関連をもち三ツ塚第三古墳群が築造されたと推定。

■ひたちなか海浜古墳群。
ひたちなか市の臨海部古墳は特有の特徴があり・古墳が連なるので
ひたちなか海浜古墳群と呼んでいる。
太平洋を望む台地縁辺部に約3kmの間に100基以上の古墳がある。
北から川子塚古墳・磯崎東古墳群・磯合古墳群・入道古墳群・三ツ塚古墳群・
新道古墳群がある。
埋葬施設は石棺・竪穴式石室・横穴式石室がある。
古墳の主体は直径15m前後の円墳。前方後円墳・帆立貝形古墳もある。
古墳は5世紀前葉〜7世紀中葉に継続して造られた。
臨海部地域には集落の存在が確認されず長期間墓域だったか?
出土遺物は珠文鏡・大刀・鉄鏃・骨鏃・鹿角装刀子・埴輪・須恵器・
土師器・ガラス小玉・石製模造品。
石棺墓は海が広がる斜面部にある。石棺は磯の石を利用。
短軸方向に1つ・長軸方向に4つの石で石棺を構成。床面は海砂を敷く。
斜面中段から上段に2段または3段に構築。横穴墓の配置にみえる。
石棺墓の上の台地平坦面に墳丘がある古墳がある。
入道古墳群1基・三ツ塚第二古墳群8基・入道古墳群2基・磯崎東古墳群9基。
・入道古墳群6基。合計 26基の石棺墓が確認されている。人骨が出土する。
類似する石棺墓は茨城県では東海村白方古墳群・日立市河原子古墳群・
北茨城市神岡上古墳群。
石棺墓遺物は三ツ塚第二−3号墓・白方古墳群・河原子古墳群から刀子が出土。
神奈川県三浦市勝谷砂丘遺跡・鎌倉市長谷小路周辺遺跡、
和歌山県白浜町脇ノ谷古墳、福岡県行橋市稲堂古墳群と類似性がある。
三浦半島の勝谷砂丘遺跡周辺では半径50mの範囲に
墳丘を持つ前方後円墳・円墳の雨崎古墳群・横穴墓の雨崎横穴墓群・
洞穴の雨崎洞穴が密集している。
ひたちなか市の三ツ塚古墳群は半径500mの範囲に墳丘を持つ古墳・石棺墓・
横穴墓が密集している。範囲が少し広く洞穴はないが三浦半島と類似している。
三浦半島とひたちなか市は海上交通で
太平洋と河川・沼とをつなぐ大切な場所だった。

■虎塚古墳と十五郎穴横穴墓群。
6世紀・ひたちなか市内陸部の古墳が出現。
7世紀・虎塚古墳・十五郎穴横穴墓群が出現する。
■虎塚古墳。
虎塚古墳は那珂川河口から約4km・標高約20mの台地上にある。
前方後円墳・主軸全長約57m。
7世紀初頭・築造と初葬と推定。
装飾文様は、横穴式石室壁面に白土を下塗り、
上に赤色顔料のベンガラで連続三角文・大刀・靭が描かれている。
一部の文様は線刻を併用。
虎塚古墳の彩色と線刻を併用する技法は、
日立市十王前横穴墓群・福島県いわき市の中田横穴墓にもある。
ひたちなか市から福島県いわき市の太平洋沿岸の装飾古墳の特徴といえる。
遺跡の立地から海を介した交流が想定される。
熊本県の永安寺東古墳・塚坊主古墳など菊池川流域の装飾古墳にも線刻の併用ある。
円文や三角文の文様も類似し、この地域との関連も窺える。
虎塚古墳の石室壁画公開を見学入場券。

■十五郎穴横穴墓群。
十五郎穴横穴墓群は、虎塚古墳のある台地の斜面部にある。
約1kmにわたり横穴墓が500基以上ある。東日本で最大級の規模。
7世紀前半・築造が開始。9世紀前半まで使用された。
九州が出現地とされる横穴墓の墓制を用いた集団の存在が窺える。

■骨鏃とイモ貝装馬具。
石棺墓・装飾古墳・横穴墓は海を介した地域との交流が窺える。
海岸部の墳墓から出土する骨鏃とイモ貝装馬具がある。

■骨鏃こつぞく。
骨鏃は鹿の足の骨で作ったヤジリ。
海岸沿・久慈川河口域・恋瀬川が霞ヶ浦に注ぐ場所など
水上交通の要所の古墳・横穴墓から出土している。
ひたちなか市では磯崎東古墳群第24号墳12点・第34号墳付近の古墳1点。
日立市千福寺下3440号横穴墓・泉原遺跡内古墳。東海村白方7号墳。
かすみがうら市大塚5号墳。
福島県いわき市でも出土している。
全国的には九州南部・関東・東北の太平洋岸に集中している。
横穴墓や地下式横穴墓からの出土が多い。

■イモ貝装馬具。
イモ貝装馬具は南海産イモガイの頭部分を使用し装飾した馬具。
イモ貝装馬具は茨城県では4例で時期は7世紀前半。
ひたちなか市笠谷6号墳・東海村二本松古墳・鉾田市天神山4号墳・
常総市七塚1号墳。
福島県いわき市・中田横穴墓など4遺跡で出土している。
イモ貝装馬具を出土した古墳は、常総市七塚1号墳以外は海岸沿いにある。
全国的には福岡県に多い。遠州灘沿岸〜福島県いわき市の太平洋側に集中。

■海を介した交流。
海岸部の石棺墓・骨鏃・イモ貝装馬具・装飾古墳・横穴墓も九州と類似。
ひたちなか市の古墳は九州・海を臨む地域との関わりが想定できる。

■江戸時代の北関東の海運。
江戸時代に東北地方の物資を江戸へ運ぶ場合、銚子沖は海の難所で、
銚子沖を避けるルートが考えられた。
太平洋を南下してきた船は那珂湊を中継地とし、
太平洋から那珂川・涸沼川へ入り、
一部陸送して巴川から北浦・利根川をさかのぼり、
千葉県の関宿から江戸川を通り江戸に到着した。那珂湊は大いに栄えた。
古墳時代に同じ経路はないが、
那珂湊は太平洋と河川・沼とをつなぐ要所だったと推定。
那珂湊には人やモノが集中した。
水上交通と関係する古墳や遺物がこの地域に存在すると推定。
遺物にはヤマト王権と深く関わることを示す資料がある。
反面、ヤマト王権と関係のない遺物がある。
地域主体の地域間交流があり、交流には海洋民の活躍があったと考える。
ひたちなか海浜古墳群は海洋民の墓であり、
九州と海の交流を示す墓のひとつが、虎塚古墳と十五郎穴横穴墓群ではないか?