22/2/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
山名義一師 船橋市 了源寺住職。
[ ]はhp制作者メモ。
■御讃題。
浄土に往生できるかどうか不安な人は、
まず自らの浄土往生をお考えになって、念仏するのがよいでしょう。
自らの往生は間違いないと思う人は、仏のご恩を心に思い、
それに報いるために心を込めて念仏し、 世の中が安穏あんのんであるように、
仏法が広まるようにと思われるのがよいと思います。
よくお考えになってください。
この他に、 特に何か考えなければならないことがあるとは思いません。
御消息現代語訳より 親鸞聖人の手紙。
[安穏は何事もなく穏やかなこと]

■世の中が安穏であるように、仏法が広まるとよいと思う。
最近世の中が安穏でなく心配。
■吾唯知足。
われただ足るを知るという言葉がある。
京都竜安寺の茶室の入り口に
知足ちそくの蹲踞つくばいという手水ちょうずを溜める石がある。
吾唯知足の文字が刻まれている。
ひとの欲はこれも欲しい、これも欲しいととどまることがない。
果てしなく貪り求める、満足できないのが私。
本尊に花をいける。
まだ足りない。まだ足りないと一生懸命いける時に気づかない。
いけた花をみると花を入れ過ぎたと思う。
その後一本・一本抜いていくと丁度良い具合になる。
足ることを知る生活が心豊かな生活と言えるのではないか。

■自分の誕生日を知っている。
しかし誰が誕生日を私に教えてくれたのだろう。
教えてくれた人を忘れてしまう私。
■誕生日の誕という字には嘘・偽り・騙すという意味がある。
私たちの世界は嘘偽りの苦しみの世界。
阿弥陀如来は私の良い所や悪い所全てをしっている。
私は自分に都合の悪いことは見るのも聞くのも好まない。
都合の悪いことは自分のものさしで判断している。
自分のものさしは時に変わる。
数十年前には水は買うものでなかった。
今はペットボトルで買って飲む。
そのような自分勝手な私を
そのままでよい。私の名前を呼べ。浄土に往生させる。
といっていつも阿弥陀如来は本願をはたらきつづけてくださる。
南無阿弥陀仏。

■道元禅師のことば。 
仏道をならうというは、自己をならうなり。
[自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、
自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
正法眼蔵現成公案より抜粋]
■了源寺の本尊は帰命尽十方無碍光如来の十字名号。
阿弥陀如来の光はどこにでも届いている。
私は、私をど真中において、
阿弥陀如来の光が十方から私を照らしてくれていると考えている。
私が救いの中心。
阿弥陀如来の願いは私の為だった。
私を願っているのが阿弥陀如来。
[浄土論で、「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」
世尊、我一心に、尽十方 無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず
とある。
尽十方無碍光如来は阿弥陀如来のこと。
帰命尽十方無碍光如来は十字の名号で南無阿弥陀仏のこと]

■和顔愛語わげんあいご。
なごやかな顔、愛情あることばで人に接すること。
[無量寿経の中には、和顔愛語にして、意を先にして承問すとある。
相手の身になって表情はやわらかく、言葉はやさしく、
相手の心を汲み取ってよく受け入れる]
日常の生活で、いつもこのような態度がとれるとよい。
しかし難しい私。
世の中が安穏であるように、仏法が広まるとよいと思う。
最近世の中が安穏でなく心配。

■御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候。
そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたもう。
その位を一念発起入正定聚と釈し、そのうえの称名念仏は、
如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。
あなかしこ、あなかしこ。
■住職のはなし。
親が変われば子どもも変わる
という標語がかかれていた。
子どもに学校から帰ったら勉強するようにいう。
しかし子どもは遊びに忙しい。
自分が子どもの時を考える。
自分も子どもと同じだった。
親が、子どものよい手本となるよう
親自身が変わっていく必要があると標語はいっている。
阿弥陀如来はいつも私に願いをかけてくださっている。
ああそうだった。ああそうだった。
南無阿弥陀仏。
■上宮寺山門前掲示板の言葉。
争いを水に流し 
ひとつになる世界を 
浄土という

憎しみを超える安心の世界
みんなそんな世界求めているのです
合掌