22/2/20 那珂市中央公民館 根本正回顧81年。
根本正顕彰会公開講座。
山田正巳先生。
■1931年10月25日 銀座教会の東京禁酒会例会での
根本正氏の講演内容の紹介があった。
以下はその一部。

■東木倉時代。
水戸から数km離れた現在の那珂市東木倉の百姓の家に生れた。
小さいとき祖父に学ぶ。
その後手習いに行き四書・五経・史記・資治通鑑を読む・わけがわからなった。
■水戸に出る。
13才の時家を出て水戸・従兄弟の豊田天功先生の家来になる。
豊田先生は水戸藩の学者・しばらくして豊田先生は亡くなった。
その後息子の小太郎先生の家来となる。苦しいことも多かった。
1864年・水戸藩は勤王派と佐幕派に分れ争っていた。
勤王派の人が毎日20人・30人と殺された。磔もあった。
武田耕雲斎率いる天狗党が敦賀で処刑された。
首は水戸の上町・下町で晒された。血なまぐさい事件を何度も見た。
1868年・17才位で見習の南御郡方へ出ていた。
慶喜公が京都から江戸へ下り水戸で謹慎した。
勤王派が強くなり佐幕派が毎日磔にされた。
佐幕派隊長の市川三左衛門は、君殺しで逆磔になった。

■マッチと時計。
私の今日があるのは英語の力だ。
1868年の一寸前・日本使節がフランスから帰国。
帰国した御郡奉行の人に会った。そこでマッチと時計を見た。
マッチをすったら火がつく・時計がビクビク動いていた。これには驚いた。
これは大変悧巧な人が作ったに違いない。悧巧な人は横文字を読む国の人だ。
なんとしても横文字を読まないと駄目だと痛切に感じた。

■水戸で英語。
英語を学びたい。オランダ語を学んだ人が水戸にいた。
その人に英語を学んだ。仕事もあり26文字を覚えるのに2〜3週間もかかった。
とてもこれではダメだ。
■東京に出る。
1871年・一大決心をして東京へ出た。

■中村敬宇先生に学ぶ。
東京での目的は英語を学ぶこと。浜町の箕作秋坪の塾へ入る。
更に小石川の中村敬宇先生のところへいく。
敬宇先生は西国立志編・スマイルの自助伝を翻訳した。
本にはイギリス人は辛苦艱難の勉強をして偉くなったと書いてあった。
勉強すればマッチも時計も作れると考えた。
敬宇先生はクリスチャンだった。敬宇先生の門に入ったことがよかった。
第一にキリスト教を信ずる様になった。
次に学問を充分することが出来た。イギリス人の雇人がいた。
その人が毎朝一同に英語の聖書を読ませ祈りをやらせた。
祈りの文は敬宇先生の作でよく出来ている。
敬宇先生は英語も支那の学問に優れていた。
忠君愛国の至誠に動かされる祈りの文だった。神の御恵みを頂く動機となった。
敬宇先生は人を使うと酬いをした。私が写し物をした時も500文位もらった。
先生は宿舎では他家の庭まで掃いた。塾僕に小言を言わなかった。
婦人を尊敬・未来は婦人と子供の力が必要といった。
日本最初の高等女子師範学校を建て校長になった。
最初の先生は豊田芙英子先生だった。幼稚園もつくった。

■旅費の工面。
敬宇先生に世話になり暮らしたが金がなかった。
アメリカに行かねばならないが金がない。敬宇先生の許を辞し働くことにした。
アメリカへ行く金欲しさの一心だった。牛込の長屋を借りて住んだ。
車夫となった。毎夜人力車を曳き・昼は学校で勉強・苦しかった。
次に巡査になる・苦学した。給料ではアメリカに行く金があまりたまらない。
何とかしなければと考えた。1874年・外国郵便ができた。
外国郵便ば給料がよく、アメリカへ行くのに便利と考えた。
水戸藩の方の世話で外国郵便へ入れた。その後神戸にいく。
1877年・横浜へ転任。

■米国へ。
横浜にへボン塾があり外国の人と懇意になった。
その人から紹介の手紙をもらいアメリカへ行くことになった。
1877年・米国へ渡航・28才だった。
アメリカで日本禁酒運動の先輩・美山貫一先生にお世話になった。
小学校で2年間・中学校で4年間・大学で4年間学んだ。
それから欧州を経て日本に帰った。
■小学校の想い出。
朝晩はバラストウ氏の家で働き・昼間は学校へ行く。
馬車の世話・庭掃除何でもした。
小学校は9時に始まる。行くのに15分かかる。
仕事を多くすれば主人が喜ぶので間際まで働き急ぎ走って行った。
小学校へ行って水を飲む・この水はとてもおいしかった。
■中学校の想い出。
オークランドの中学校に入った。休日は世話になった人の手伝いをした。

■大学の想い出。
大学は、今のところから3000マイル離れている。
バラストウ弁護士がビリングス氏へ手紙を書いてくれた。
ビリングス氏は非常に苦労し鉄道の社長になった。
大学へ多額の寄附をした人だった。私はビリングス氏の処へ行くことになった。

■独立戦争の記念塔。
ビリングス氏のところに行く前にバンカーヒルの独立戦争の記念塔へ昇った。
ボルマントから150マイル離れた場所にある。
独立戦争時のアメリカ人の苦戦を偲びたかった。
啓発されるところが大きいと思った。
記念塔の上にある大砲はイギリスの砲弾で壊れていた。
壊れた大砲を見て感激に打たれた。
辛苦艱難・アメリカ独立時の精神をもてば何でも必ず出来ると確信した。
■ビリングス氏は私に人一倍同情してくれた。
例えば私が必要な金を書いてビリングス氏に渡す。
25ドルと書いて渡すと必ず少し多い30ドルをくれた。

■暑中休暇はサンマー・スクールという宗教的な学校へ参加した。
毎年・夏の2ケ月を過した。ムーデーさんの説教がよかった。
学校以外ではヘンリー・ドラモンド博士の説教がよかった。
■大統領ガーフイールドの死。
1885年・ガーフイールドはピストルで射たれた。
ガーフイールドの学友に弁護士ギトーがいた。
ギトーがガーフイールドに「フランス大使にしてくれ」と頼んだ。
ガーフイールドは「あなたをアメリカ代表の大使にできない」と断った。
自分の御機嫌をとる者をひいきにしない。
アメリカ1億5000万国民のため学友の申出を断った。これが本当の忠君愛国だ。
ギトーは怒り2〜3日後にガーフイールドをピストルで射った。
ガーフイールドは貧窮の家に生れた。母が11イを頭に4人の子供を育てた。
アメリカの小学校は無料・貧乏人の子供も大統領になった。
ガーフイールドは死ぬ時
「私は誤りを以て成功するより正義を以て死ぬのが何より愉快だ」といった。
真似をしたいと思った。

■アメリカで体得した4つの処世術。
■第1・「神はかたよらず」。
百姓に生れたから百姓というのでは立身出世できない。
■第2・「受くるより与えることは幸なり」。
人に物を与えるには働いて金を得なければならない。
■第3・「善を知って行わざるは罪なり」。
ガーフイールドはこの言葉の実行者だ。
■第4・「貧は富を作る」。

■禁酒について。
アメリカ47州中4州は禁酒だった。ボルマント州は禁酒州だった。
宿屋・結婚式でも酒を出さない。法律で酒を飲ませない州があるので感激した。
ボルマント州の4年は私の禁酒の動機となった。
日本で村・郡・県が禁酒となり国法となるのがよい。
■私が中学時は日本は支那・印度の次に見られていた。
今は5大列強の1つとか、3大列強の1つとなった。
これは明治大帝が世界の文明を入れたためだ。
五ケ条の御誓文に「広く会議を興し万機公論に決すべし」とある。
「神はかたよらず」人間に差別はないということだ。

■一人の力が国を滅ぼすことも・興すこともある。
私が大学時代・ハワイで安藤太郎先生が禁酒して信者になった。
アメリカにいた我々は非常に肩身が広くなった。
サンフランシスコに少数の支那人がいた。
普通の人は夜は休み、昼は働くか勉強する。
小数の支那人は、昼は博奕・夜は労働と風俗を害した。
1885年・カリホルニヤで支那人を拒絶する法律ができた。
少数の人のため支那4億の民が辱かしめられた。

■帰国後尽力したこと。
■小学校授業料全廃。
アメリカは小学校は無料で国民教育をやっていた。日本は月謝が必要だった。
1890年、帝国議会の開いた年・小学校授業料全廃に関する請願を出した。
第1回選挙に立候補するも落選。第2回・第3回とも落選した。
小学校授業料を全廃しないと国は立派にならない。
ガーフイールドやリンコルンが大統領になりアメリカは立派になった。
金持の子供は学へ・貧乏人の子供は学へない国は滅びる。
小学校の授業料全廃の請願を続けた。
その後議員になり・小学校授業料全廃に関する建議案を通過させた。
小学校教育費国庫補助法案案を出し・1899年に通過した。
小学校教員の俸給は国庫でなければならない。
日清戦争・日露戦争は小学校の無料化なしでは負けたかも知れない。
日本人は皆小学校を出ているから忠君愛国を知っている。
子供・婆さん・爺さんまで駅まで見送る、慰問袋を送る。
これは、教育で忠君愛国を知っているからだ。

■地租委譲に反対。
地租委譲は地租を国庫でとらず各地方でとること。
地方で小学校教育費用を支給することになる。
税の多い地方と少い地方で大きな差が発生する。山の多い県は地租税が少ない。
税収入に大きな差が発生すると小学校教育費用にも大きな差が出る。
「神はかたよらず」という聖書の精神に反する。政友会の私は一人で反対した。
幸いにも案は貴族院で否決された。私は政友会を除名された。
「善を知って行わざるは罪なり」私は後悔しない。満足している。
■未成年者禁煙・禁酒。
未成年禁煙法は1年・未成年禁酒法は23年かかった。

煙草は貧乏人が売っているから反対者が少なかった。
酒屋は金持だから反対者も多く強かった。
■禁酒国。
最近は禁酒村・禁酒汽船・禁酒炭坑・禁酒工場などが出来、
日本が禁酒国になる日が近いと予想している。
一日も早く禁酒国達成の目的を貫徹せんことを切望する。