22/2/19 ひたちなか市 石製模造品からみた交流。
茨城県ひたちなか市埋蔵文化財調査センター。公開講座。 
福島県郡山市大安場史跡公園 佐久間正明先生。
[以下のようなはなしだったと思われる]

■石製模造品とは何か?
古墳・祭祀遺跡・集落遺跡から出土する。
葬送・祭祀に使用された祭具・祈りの道具。
集団繁栄・安寧・災厄除去のためカミへ捧げた。
4世紀後半〜5世紀に盛んになった。
石製模造品の種類は工具・武具・その他がある。
農工具は、刀子とうす・斧・鎌・ヤリガンナ・杵きね。
武具は、剣・短甲。
その他は、鏡・槽・下駄・竪櫛・機織具。
石製模造品の石材は滑石・蛇紋岩。

■古墳時代は古墳が盛んにつくられた時代。
弥生時代に続き3世紀末〜7世紀ごろまで。
階級社会が成立し、特にヤマト政権を中心とする政治権力が強まった。
弥生時代〜古墳時代は自然やモノに神が宿る観念があった。
現代より神・精霊は身近な存在だった。 
前半代は首長が司祭者だった。
古墳の儀礼は葬送儀礼で祭祀的意味が強い。
石製模造品は、ヤマト政権の東国支配強化の手段だった。

■石製模造品を出土する古墳は、大和盆地を中心とする畿内と、
群馬県中西部・千葉県の東京湾沿岸・香取海南岸に多い。
葬送の石製模造品は地域差がある。
東日本では刀子形・斧形・鎌形が多い。
岡山県・香川県では刀子形・鎌形。
広島県では刀子形単体。
石製模造品の農工具は広島県以西の首長墳では未確認。

■西日本は石製模造品を使用した葬送儀礼が少ない。
福岡県では剣形・有孔円板が出土。
九州北部では有孔円板の少量出土が多い。

■集落・祭祀遺跡の石製模造品は関東・近畿に多い。
九州北部も出土するが少ない。

■畿内から離れた地にある祭祀遺跡は規模が大きい。
祭祀遺跡は、ヤマト政権の周縁部にある。
西日本は大陸・半島への過渡地域、愛媛県・韓国西岸にある。
東日本は辺境に対峙する地域、長野県・福島県・山形県。
石製模造品を出土する祭祀遺跡は各地にある。
刀子形・斧形・鎌形を多く出土する祭祀遺跡は
福島県建鉾山祭祀遺跡・
長野県神坂峠祭祀遺跡・長野県入山峠祭祀遺跡などに限られる。
石製模造品を使う葬送儀礼は主に東日本の首長層が推進し発展させた。
石製模造品を使用した祭祀儀礼も多く行われ祭祀遺跡が形成された。
祭祀の場は境界・峠・神奈備山・磐座・湧水などから決められた。
飲食儀礼を伴う場合もあった。
西日本の葬送儀礼は東日本ほど進まなかった。
西日本の祭祀儀礼は東日本と同じように行われた。
古墳での葬送具は首長層に限られた。
共同体繁栄・通行安全のための祭祀具は共同体全員が対象だった。
儀礼の推進は首長層で祭祀を行う首長は司祭者だった。
葬送・祭祀は首長層が推進した。

■5世紀前葉の剣形は地域差がなかった。
5世紀後半は地域差が大きくなった。
大阪府出土の盾形は板状製品で独自のもの。
山口県・福岡県出土の盾形・剣形・単孔円板は独自の形態だった。
奈良県曽我遺跡・大阪府池島福万寺遺跡でも類似のものが出土している。
西日本の石製模造品は畿内・地域の首長層が推進した。
畿内と西日本・東日本は常に関係性を保っていた。
畿内の石製模造品製作者の派遣・招聘もあったか。

■福島県大玉村・大宮市・郡山市は、
阿武隈川と支流による沖積地・
阿武隈山地から延びる台地先端にある。
古墳時代に集落・古墳・石製模造品工房があった。
集落遺跡から石製模造品が出土する。
大玉村古墳は周辺に石材採石地がある。
本宮市古墳で刀子形・斧形・櫛形が出土、石材は阿武隈山地にある。
郡山市の遺跡群近くに石材採石地がある。
集落へ石材を運び・製品を製作した。
石製模造品・副葬品は地域内集落で製作した。

■福島県いわき市四倉に石製模造品製作遺跡がある。
石製模造品・紡錘車の製作工房があった。
四倉は仁井田川に形成された丘陵上にある。
近くに蛇紋岩・緑色片岩の産出地がある。

■福島県大玉村・大宮市・郡山市・いわき市の古墳の共通点。
盆地・沖積地の外縁に石材を採石できる。
大玉村傾城壇古墳は周辺で採石できる。
郡山市大安場古墳は採石地に続く河川や沢沿いにある。
いわき市玉山古墳は採石地に続く河川や沢沿いにある。
集落から出土した製品・工房跡の原石・剥片の石材は近隣で採石できた。
遠隔地から石材採取材を運び入れた痕跡はない。
近くから採石・集落に運び・製作・古墳副葬・集落祭祀に使用・廃棄した。

■関東で石材採石から消費までの流れがわかるのは三波川帯のある群馬県だけ。
茨城県北部・千葉県南部・群馬県北部・神奈川県西部で滑石・蛇紋岩がある。
そこから石材が採石されたかは不明。
常陸太田市の長谷で滑石・蛇紋岩がある。
常陸太田市には久慈川沿いに梵天山古墳がある。
当地の石製模造品工房の様相は不明。

■日下ケ塚古墳は茨城県大洗町にある全長104mの前方後円墳。
出土した刀子形が奈良県富雄丸山古墳出土品とよく似ていて注目されてきた。
似ている理由はいろいろと検討されたが不明。
奈良の人が作ったものか、教えてもらい茨城の人が作ったものか不明。
日下ヶ塚古墳の石製模造品は関東各地に影響を与えたようだ。

■建鉾山祭祀遺跡。
福島県白河市に建鉾山祭祀遺跡がある。
建鉾山祭祀遺跡が作られる前、白河市坊主山遺跡から装飾ある刀子形が出土。
棚倉町塚原古墳から剣形石製模造品が出土。
白河市周辺には祭祀が行われる素地があった。
坊主山遺跡刀子形は日下ケ塚古墳に類似。
阿武隈川流域の刀子形は群馬県の古墳に類似。
建鉾山祭祀遺跡の石釧は群馬県の古墳に類似。
建鉾山祭祀遺跡をつくる推進者は群馬県首長層だった。
建鉾山は栃木県・茨城県に近く、ヤマト政権重視の内陸交通路の地であった。
建鉾山祭祀遺跡の形成は三森遺跡首長が実質的に推進した。
三森遺跡は東北南部石製模造品の拠点のひとつだった。
周辺首長への連絡・製品移動・工人派遣を行った。
建鉾山祭祀遺跡の刀子形は本宮市天王壇古墳・栃木県雷電山遺跡と類似。
建鉾山祭祀遺跡の斧形は宮城県念南寺1号墳・山形県八幡山祭祀遺跡と類似。
建鉾山祭祀遺跡は群馬県首長層・阿武隈川流域首長層・栃木県中央部・
東北中南部とのつながりがあった。

■5世紀後葉〜6世紀初頭。
建鉾山祭祀遺跡は群馬県・阿武隈川流域との関連が希薄になる。
石製模造品は衰退する。
茨城県や太平洋沿岸部との関係性を確認。
古墳に埋葬される首長ではなく、下位の首長層との結び付きに変化。
時とともに繋がりを持つ地域は変化した。
内陸部・群馬県〜阿武隈川流域から内陸部・阿武隈川流城〜栃木県へ変わる。
さらに福島県沿岸部〜茨城県へ変わった。
関連首長層の階層も相対的に低くなった。
古墳時代を通してみた場合、久慈川を介した結び付きが、5世紀は内陸部になる。